独逸国法学研究教室の歴史
独逸国法学研究教室と言っても、実際はドイツの国法学のみならずフランスの国法学もわたしの研究対象領域であるので、本当は大陸法研究教室とHPの名前を付けた方がよかったかもしれない。また、わたし自身はアメリカの法哲学についても研究しているので、比較法研究教室と名付けた方が適当であろうが、それではこのHPの存在意義が失われ、数多ある法律学系のHPの中に埋没してしまう虞がある。さらに付け加えるならば、ヨーロッパは城壁都市なので「国法学」は「國法学」とした方がより正確であろう。ところで、この独逸国法学研究教室はわたしの本務大学公式HPの兄弟分に該当する。したがって実は、このHPは新しいように見えて、実はその成立過程からすれば10年余の歴史を持っている。そもそもは、わたしの講義は大人数授業なので自分の自己紹介のHPに、『国法学講義ノート』をリンクさせ、それを学生に各自ダウンロードしてもらってレジュメの配布に代えていたのである。すなわち、独逸国法学研究教室のそもそもの由来は、この『国法学講義ノート』の「国法学」の部分によるものである。
ところで、この『国法学講義ノート』は10章構成で総頁数は150頁を越えるものであったので、サーバーにかかる負担は非常に大きかったと言える。したがって、所属講座・教室はそのような分量のレジュメを載せるのであるならば、個人のHPでアップするか、出版するかのいずれかにせよということになった。このようにして、現在、わたしの本務大学のHP はおとなしく、学生の10余りの質問に答えるという極めてありきたりな内容になっている(もっとも、所属講座の教員で一番長い文章であるのは変わりないが)。もちろん、講座長や教室長の判断は正しいもので、大学のHPは学生主体であるのであれば、その主役である学生の活動を、学生自らがメインに更新していくことが正道であり、わたしの所属する社会科教育講座のHPは大学内の模範とまでいわれていることは、その正しさを立証しているのだろう。
結局、このようなダイエットによってわたしの趣味的な内容はteacup.comの携帯メールの無料HPの「大陸法研究所」に受け継がれることになった。しかしこれは無料なので文句が言えないのであるが、この「大陸法研究所」はサービスの打ち切りによって3年で消滅した。ま~、このような経過もあってゲンを担いで大陸法研究室ではなく、独逸国法学研究教室と名付けた次第である。このHPでは、ローマン・リングバルトの著作を基にしてエルンスト・フォルストホフの戦前、戦後の行政法学の研究の概要を書き込んだり、カール・シュミットの憲法論について書き込んだりして、それなりに有意義なものであった。このころ、わたしの授業と趣味の外書購読の自主ゼミに出席していた2人は現在、都内の大学の博士課程にまで進学した。ある意味では卑怯であるが、学術論文にしないで研究をするのは責任があまり無いので、学問を学問として純粋に楽しめた。
本務大学に赴任して大きかったのは、菊地裕之君と五十嵐雄大君との出会いであった。菊地君はいわゆる脱サラして、大学院に来た男で、わたしが本務大学ではじめて副指導教官ではあったが、大学院で指導した最初の院生であった。彼の研究は、それまで日本であまり議論されていなかったオーストリア-ハンガリー帝国Ausgleichの研究であった。しかも、普通はこの問題をオーストリアとハンガリーの関係で検討するのが普通なのに、彼はこれをオーストリアとチェコとの関係で検討して修士論文を書き上げたのである。彼と一緒に、ペーター・ハナーク(Peter Hanak)の原書を徹夜で読んだことは思い出深いことである。次に、五十嵐君であるが、彼はわたしの学部のゼミの学生で、そもそも第二外国語がまだ必須科目だったときに、フランス語を落としたと言うので、その対策のためにレオン・デュギーの原書を読むことにしたことから、めきめきとフランス語の実力が出てきて、わたしと一緒に卒業までの2年間でデュギ-、モーリス・オーリウ、エスマン、ジョゼフ・ヴァルテルミーおよびカレ・ド・マルベールの主要著作を読破した。ある意味においては、彼に出会わなかったら、少なくともわたし自身はフランス憲法は苦手意識が抜けなかったであろう。このように考えると、本当は大陸法研究教室こそが、このHPの名前にふさわしいのかもしれない。しかしHPを作った以上、読み手を考えなくてはならず、大陸法研究教室では、わたしがドイツ憲法研究者の看板を掲げている以上、読み手という対象者をむやみに広げるだけであり、ドイツ法研究者予備軍のニーズに応えるためにあえて「独逸国法学研究教室」と命名したわけである。
(平成24年12月2日 HP立ち上げに際して)