「教育権」の判例:家永訴訟

2013年01月13日 10:55

家永訴訟

茨城大学 中野雅紀

 

①最高裁平成5年3月16日第三小法廷判決

②最高裁昭和57年4月8日第一小法廷判決

③最高裁平成9年8月29日第三小法廷判決

事件名 ①昭和61年(ォ)第1428号損害賠償事件

    ②昭和51年(行ッ)第24号検定処分取消事件

    ③平成6年(ォ)第1119号損害賠償事件

  • 民集47巻5号3483頁、判時1456号62頁、判タ816号97頁
  • 民集36巻4号594頁、判時1040号3頁、判タ471号54頁
  • 民集51巻7号2921頁、判時1623頁、判タ958号65頁

概要 本件家永訴訟は30年余りに及ぶ三次にわたる訴訟であり、その論点は教科書検定制度が憲法21条、23条及び26条等に違反するか否か、具体的な検定不合格処分が適用違憲なのではないか、またその不合格処分は文部大臣の裁量処分の逸脱ではないかということが争われた事件である。その間、この第一次訴訟判決と第二次訴訟、特に第二次訴訟第一審判決の杉本判決が出され、藤井樹也氏によればそれら判決は教育権論争における「国家教育権説」と「国民教育権説」の鋭い対立関係が、そのどちらも「極端かつ一方的であるとしてそのいずれをも全面的に採用することはできない」とする後述の「旭川学力テスト事件」に大きな影響を与えることになった。しかし一方においては、君塚正臣氏のように本件は教科書執筆者の表現の自由が第一義的な問題であり、教育権論争はその「背景」の問題に過ぎないという指摘もある。概要は大学教授Xがこれまで高等学校用日本史教科書『新日本史』を執筆し検定に合格してきたが、昭和35年の学習指導要領改正に基づいて改訂を行ったところ、文部大臣Yが昭和38年に評点が合格点に達しなかったとして検定不合格処分を行い、さらに再申請を行ったところ昭和39年に条件付検定不合格処分を行ったので、それを不服としてXがYに対して国家賠償訴訟を行ったものである(第一次訴訟)。その後も、Xは昭和35年の学習指導要領に基づき、昭和40年に改訂申請を行ったが、3件6ヶ所の不合格処分を行ったので、この不合格処分の取消を求めて行政訴訟を提起した(第二次訴訟)。さらに、学習指導要領が昭和53年に改正されたのに伴い、Xが検定申請をしたところ2カ所にA意見、2カ所にB意見が付され、昭和57年の検定基準改正に伴う訂正が受理されず、昭和58年の改訂にも24カ所のB意見を付されたので、各処分の違法を理由にYに対して国家賠償請求訴訟をおこしたものである(第三次訴訟)。

 

事実関係 まず、家永第一次訴訟については以下のものである。高等学校用日本史教科書『新日本史』を執筆していた東京教育大学教授家永三郎(以下Xと記す)は昭和27年以来、教科書検定に合格してきたが、昭和35年の学習指導要領改正に基づき改訂をしたところ、昭和38年に文部大臣(以下Yと記す)は323カ所の検定意見を付け、評点が合格点に達しなかったとして教科書検定不合格処分を行い、さらに昭和39年、Xの再申請において290カ所の条件付検定合格処分を行った。これに対して、Xが各処分の違法を理由にYに対して国家賠償請求訴訟を提起した。第1審の東京地判昭和49年7月16日(高津判決)はXの請求の一部容認。第2審の東京高判昭和61年3月19日(鈴木判決)はXの控訴棄却、被告Yの付帯控訴容認。最高裁はXの上告を棄却した。

 次に、家永第二次訴訟については以下のものである。昭和35年の学習指導要領の下でXは昭和37年に続き、昭和41年に34カ所の改訂申請を行ったが、Yは翌年3件6カ所につき不合格処分を行った。これらはいずれ前回不合格処分後、昭和38年に修正意見たるB意見を付され一旦、それに応じてXが修正しながら、元に戻した箇所である。それに対して、Xがこの六ヶ所の不合格処分の取消を求めてYを被告として行政訴訟を提起した。第1審の東京地判昭和45年7月17日(杉本判決)はXの請求を容認した。その判決の内容の詳細は以下の判決要旨で紹介する。第2審の東京高判昭和50年12月20日(畔上判決)は所謂「憲法回避」の手法を使ってYの控訴棄却。これに対してYは最高裁に上告し、最高裁は原審を破棄差戻し、差戻審である東京高判平成1年6月17日(丹野判決)はXの請求を却下した。複雑なのは途中、Xは昭和58年にYに対して国家賠償請求の追加申立てをしたが、昭和61年にそれを取り下げている点である。

 最後に、家永第三次訴訟については以下のものである。昭和53年の学習指導要領の改正に伴いXが検定申請したが、Yによって2カ所に改善意見たるA意見が、さらに2カ所にB意見が付された。これに対して、Xは各処分の違法を理由にYを被告にして国家賠償請求訴訟を提起した。 第1審の東京地判平成1年10月3日(加藤判決)はXの請求の一部容認。第2審の東京高判平成5年10月20日(川上判決)は一部控訴棄却・一部破棄自判。これに対して、X及びYともに最高裁に上告した。

判決要旨 ここでは、紙面の都合上家永第一次訴訟最高裁判決、家永第二次訴訟第1審判決(杉本判決)及び家永第三次訴訟最高裁判決に絞って判決要旨を紹介する。

 まず、家永第一次訴訟最高裁判決の判決要旨は以下のものである。上告棄却。「憲法上、親は家庭教育等において子女に対する教育の自由を有し、教師は、高等学校以下の普通教育の場においても、授業等の具体的内容及び方法においてある程度の裁量が認められるという意味において、一定の範囲における教育の自由が認められ、……それ以外の領域においては、国は、子ども自身の利益の擁護のため、又は子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、子どもに対する教育内容を決定する権能を有する。」しかし、「普通教育の場においては、児童、生徒の側にはいまだ授業の内容を批判する十分な能力は備わっていないこと、学校、教師を選択する余地も乏しく教育の機会均等を図る必要があることなどから、教育内容が正確かつ中立・公正で、地域、学校のいかんにかかわらず全国的に一定の水準にあることが要請されるのであって、……児童、生徒に対する教育内容が、その心身の発展段階に応じたものでなければならないことも明らかである。そして、本件検定が、右の各要請を実現するために行われることは、その内容から明らかである。」「検閲とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」である。本件検定は「……不合格とされた図書は教科書としての発行の道が閉ざされることになるが、一般図書として発行されることは、何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲に当たらない。」表現の自由といえども、「公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限」を受ける。「普通教育の場においては、教育の中立・公正、一定水準の確保等の要請があり、これを実現するためには、これらの観点に照らして不適切と認められる図書の教科書としての発行、使用等を禁止する必要があることや、……その制限も、右の観点からして不適切と認められる内容を含む図書のみを、教科書という特殊な形態において発行を禁ずるものに過ぎないことなどを考慮すると、本検定による表現の自由の制限は、合理的で必要やむを得ない限度のものというべきであって、憲法21条1項の規定に違反」しない。「教科書は、教育課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、普通教育の場において使用される児童、生徒用の図書であって……、旧検定基準の各条件に違反する場合に、教科書の形態における研究を制限するに過ぎないので、憲法23条の規定に違反しない。」本件検定の審査・判断は「学術的、教育的な専門技術的判断であるから、事柄の性質上、Yの合理的な裁量に委ねられる。」検定の判断において「原稿の記述的内容又は欠陥の指摘の根拠となるべき検定当時の学説状況、教育状況についての認識や、旧検定基準に違反するとの評価等に看過し難い過誤」がある場合、「裁量権の範囲を逸脱したものとして、国家賠償法上違法となる」とした。

 次に、家永第二次訴訟第1審判決(杉本判決)の判決要旨は以下のものである。憲法26条は、いわゆる生存権的基本権の文化的側面として、「国民とくに子どもについて教育を受ける権利を保障したもの」である。「近代および現代においては、個人の尊厳が確立され、子どもにも当然その人格が尊重され、人権が保障されるべきであるが、子どもは未来における可能性を持つ存在であることを本質とするから、将来においてその人間性を十分に開花させるべく自ら学習し、事物を知り、これによって自らを成長させることが子どもの生来的権利であり、このような子どもの学習する権利を保障するために教育を授けることは国民的課題である。このことは「国民は自らの子どもはもとより、次の世代に属するすべての者に対し、その人間性を開発し、文化を伝え、健全な国民および世界の担い手を育成する責務を負う」として、「国民教育権説」に立ったことを意味している。憲法23条については、「学問研究の自由はもちろんのこと……学問的見解を教授する自由をも保障していると解するのが相当であり、……下級教育機関における教師についても、基本的には、教授の自由の保障は否定されていない」とした上で、学問的見解の発表の自由は憲法21条によって保障されていると解され、学問の研究者は、子どもの教育を受ける権利に対応して国民に課せられた責務を果たすため、また、教科書の内容は学問的成果に基づいた真理を包含するものであることが要請されることから、「学問の研究者に教科書執筆、出版の自由が保障されなければならない。」「本件検定不合格処分は、……教科書執筆者としての思想(学問的見解)内容を事前に審査するものであるというべきであるから、憲法21条1項の禁止する検閲に該当し、同時に、教科書の誤記、誤植その他の著者の学問的見解にかかわらない客観的に明白な誤りといえない、記述内容の当否に介入するものであるから、教育基本法10条に違反する」(適用違憲)とした。

 最後に、家永第三次訴訟最高裁判決の判決要旨は以下のものである。一部上告棄却・一部破棄自判。「検定意見には、……原稿記述が誤りであるとして他説による記述を求めるものや、……原稿記述が一面的、断定的であるとして両説併記を求めるものなどがある。そして検定意見に看過し難い過誤があるか否かについては」、前者については「検定意見の根拠となる学説が通説、定説として学界に広く受け入れられており、原稿内容が誤りと評価し得るかなどの観点から」、後者については「学界においてまだ定説とされる学説がなく、原稿記述が一面的であると評価し得るかなどの観点から判断すべきである。」第2審で確定された三点(「草莽隊」、「南京大虐殺」及び「南京での日本兵の残虐行為」)に加え、「『731部隊』と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界においては否定するものはないほどに定説化していたものであり、これを本件検定時までには終戦から既に38年も経過していることをも併せて考えれば、Yが、731部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法がある」とした。

 

コメント 本件において一番難しいのは実は、頻繁に改正が行われる学習指導要領などの教育法規、あるいはそこ規定されているA意見やB意見などについて教育関係者以外にはあまり詳しくその内容が検討なされておらず、その見解も統一されていないところにある。しかし、家永訴訟を教育権論争として議論するにしても、教科書執筆者の憲法23条及び26条の自由ないし、憲法21条1項によって表現の自由が侵害されたか否か(Yの裁量権の逸脱の有無)を議論するためにも、これらの知識は必要であるので読者にはさらなる自習をお勧めする。

 概要で示したように、教育権論争は本件の第一次訴訟の「鈴木判決」の「国家教育権説」と第二次訴訟の「国民教育権説」に見られるような二項的対立は後述の旭川学力テスト最高裁判決に「二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれも全面的に採用することはできない」と判示されて以来見られなくなり、現在の通説・判例は教育権論争においては多様な主体が、いろいろな権利・権限を有していることを前提としている。

 最後に、君塚正臣氏のように本件は教科書執筆者の表現の自由が第一義的な問題であり、教育権論争はその「背景」の問題に過ぎず、この事件はイデオロギー闘争の産物としての「制度改革訴訟」の一つと見る見解も今後、詳細に検討するに値しよう。

ステップアップ 百選Ⅰ五版96事件(大島佳代子)・97事件(成嶋隆)、佐藤・土井編『判例講義 憲法Ⅰ』56事件(君塚正臣)・同『判例講義 憲法Ⅱ』143事件(藤井樹也)