『国法学講義ノート』第4講
第4講 平和主義
茨城大学教育学部准教授 中野 雅紀
はじめに.
さて、やっと第4講に入って日本国憲法の三大原則の「平和主義」について講義することが出来るようになりました。しかし、実のところはまだ「基本的人権の尊重」については説明していないのですが、これは第5講以降「基本的人権の尊重」の個別的説明である「人権総論」と「人権各論」というかたちでの講義進行を行いますから、まずは第2講で解説した「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を達成するための手段としての「平和主義」の解説をここで行ってしまいたいと考えています。また、この「平和主義」においては新しい人権としての「平和的生存権」(憲法前文)が問題とされるのですが、これも「新しい人権」の説明の箇所で行うことにします(「平和的生存権」の代表的著作として、深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』(岩波書店、1987年)を参照)。ただし、深瀬先生の意図とは違うのですが、仮に平和的生存権を、本来的意味での「生存権」と解するならば、「世界の警察官」として「平和」を創設するために、「ならず者国家」に制裁などの介入を行うことを国家に求める権利となる危険性があることに注意しなければなりません。すなわち、平和には「戦争をしないという消極的な平和」と「平和を作り出すために、積極的に戦争を終わらせる平和」の二つがあることを看過してはならないわけです。
とりあえず、第2講を思い出してください。そこでわたしは、カントの「目的と手段」の関係を持ち出して、現在の安定した日本社会においてはホッブズ的な悲観的国家論を採るのではなく、一定の安定した日本という国家を前提にして「国民主権」と「基本的人権の尊重」を目的とし、それを護るための手段として「平和主義」が規定されているのだと説明したはずです。つまり、わが国は日本国憲法によって無目的に「平和主義」を謳っているのではなく、「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的、言い換えるならば生命・自由・財産権(プロパテイー)を護るために「平和主義」を規定しているのです。これは後で問題となるはずですが、憲法第9条の明文に違反するように見える「自衛隊」の存在が―専守防衛に限られ―「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を護るための「手段」であると考えるとするならば、それは一概に違憲の存在であると言うことができないという解釈に繋がっていきます。しかしながら、はたして現在(2004年12月7日現在)自衛隊がイラクのサマワに海外派遣・駐屯されていますが(イラク問題については、
(https://www.worldtimes.co.jp/special2/iraq3/main.html)を参照)、この海外派遣・駐屯までもが「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を護るための「手段」であると考えられるのかは疑問です。第5講で問題にするつもりですが、日本国憲法第三章「国民の権利及び義務」はあくまで日本人の基本的人権をメインに保障したものであって、いくら「国際協調主義」(憲法前文、第98条)を持ち出し、「国際貢献」をお題目にしたところで日本に住む定住外国人の人権享有主体性の問題さえ満足に応えていない日本が、中東のイラク人の「国民主権」や「基本的人権の保障」にまで容喙(ようかい)するのは解釈の枠を越えているのではないでしょうか?また、改憲派はこのことを問題にして「憲法9条の変遷論」(憲法変遷論については、
(https://www.worldtimes.co.jp/special2/iraq3/main.html)を参照)
の限界に業を煮やして、一気に現行憲法の改憲を画策していますが(改憲問題については、(https://members.jcom.home.ne.jp/0942103401/kaiken.html)を参照)、
それがわれわれ日本国民の「国民主権」と「基本的人権の尊重」を減縮させる危険には繋がらないのでしょうか?以上のような問題を中心にして、本講は「平和主義」についての講義を進めていきたいと思っています。
1.「侵略戦争」と「防衛(自衛)戦争」—自衛隊の存在そのものが違憲な存在か?—
まずは、日本国憲法第9条の条文を見てみることにしましょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この条文を素直に読む限り、憲法第9条に照らすと自衛隊は違憲の存在であるということになります(まず、法律の解釈の原則は「文言解釈」です)。また、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと時の総理大臣幣原喜重郎(ちなみに、わたしの小学校の先輩)の会談において、両者が天皇制の護持と日本の完全な戦争放棄で同意したといわれていることは周知の事実です(このことからすれば、「立法者意思解釈」に拠っても自衛隊の存在は微妙なものと言わざるをえません)。
一九四六年(昭和二一年)一月二四日に幣原首相はマッカーサー元帥を訪問し、憲法改正問題を含めて、日本の占領統治について会談した際に、戦争放棄という考えを示唆したと伝えられている。幣原は、それが天皇制を護持するために必要不可欠だと考えたのである。したがって、日本国憲法の平和主義の規定は、日本国民の平和への希求と幣原首相の平和主義思想を前提としたうえで、最終的には、マッカーサーの決断によって作られたと解される。日米の合作とも言われるのは、その趣旨である。
芦部信喜『憲法 第三版』(岩波書店、2000年)55頁以下
ところが、その後の米ソ対立を中心とした冷戦構造の下で極東における「共産主義化」の防波堤としての日本の役割が見直され、警察予備隊→保安隊→自衛隊と創設となし崩し的に自衛隊の存在が既成事実化されてきたのです
(https://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg98x085.htm)。
さらに問題なのは、この永遠に続くと思われてきた米ソ対立を中心とした冷戦構造が1989年の「ベルリンの壁」の崩壊から始まったドミノ倒し的な東欧の共産主義政権の崩壊、そしてついにはソ連邦そのものの消滅によって完全に解消されてしまったかのように見えることです。しかし、みなさんもご存知のように極東におけるわが国の安全が確保されたわけではありません(このことは、尖閣諸島や竹島の領有権問題、あるいは北朝鮮による拉致被害者問題を想起してもらえれば分かりますよね)。そう考えると、冷戦時代においてさえわが国が近隣諸国に侵略されなかったことから、冷戦後においてはましてやわが国が脅威にさらされることはないなどと言うことができるのでしょうか?あるいはソ連の崩壊を見て、やはりソ連は張子の虎に過ぎなかったのであり、自衛隊がなくても日米安全保障条約がなくても日本はソ連をはじめとする仮想敵国(だった国)に侵略されることはなかったと言い切ることができるのでしょうか?前者の問題については余りにも楽観主義的な見方であり、後者については現代の立場から過去の歴史を過小評価する高慢な考えだと思います。
それでは、憲法第9条に照らして自衛隊の存在は違憲であり無効であるのかどうかということを考えてみることにしましょう。ただし、ここでは敢えて憲法第9条第1項と第2項の繋がりの問題については言及せずに、日本国が放棄したとされる「戦争」の定義から入っていくことにします。まず、大きく分けて戦争には「侵略戦争」と「防衛(自衛)戦争」の二種類があることが考えられます。そして、これは言うまでもありませんが「侵略戦争」はいかなる理由があっても許されるものではありません。なぜならば、わが国は第二次世界大戦(大東亜戦争)の終戦(敗戦)に至るまで、19世紀の欧米列強の帝国主義政策に倣ってその当時の身の丈(国力)に合わない軍備拡張と大陸侵略を展開し、やがて「無条件降伏」というある意味で醜態を晒してしまったからです。植民地経営がもはや時代遅れであることが明らかになったのは19世紀から20世紀の変わり目にイギリスが行ったブーアー戦争であると言われていますが(ウォーラステェインなど)、それが目に見えるかたちで顕在化していったのが1960年代にアフリカ・アジアの国々がイギリスやフランスから独立していったことです(例えば、映画『アルジェの戦い』
(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=1459))。
その点から言えば、この転換期にベトナム戦争を行ったアメリカはその流れを読むことができなかった際たる例だと言えるでしょう(例えば、映画『ディア・ハンター』
(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=14978))。
また、1970年代のソ連のアフガン侵攻も同様だと言えます(例えばある意味で笑えるのだが、『ランボー3/怒りのアフガン』
(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=24780))。
では、「防衛(自衛)戦争」は認められるのでしょうか?実は、この話題は憲法制定会議(制憲会議)において既に問題とされており、さらに当時の共産党までが「自衛戦争」までも放棄することに懸念を示しているのです。例えば、進歩党の原夫次郎は「この憲法草案では自衛権まで放棄してしまうのか、不意の侵略を受けた場合どう対処するのか?」という質問をしています。また、日本共産党の野坂参三は「戦争には侵略戦争と自衛戦争があって、『正しい戦争』つまり自衛戦争まで放棄する必要は無いはずであり、憲法第9条は侵略戦争の放棄を明示することで足りるのではないか?」と質問しています。これらの質問に対して、吉田茂首相は「近年の戦争は『自衛権』の名に於いて行われたものであり、世界に対して我が国が好戦的な国で無いことを証明し、疑念を払拭するには」憲法第9条が必要であるとし、さらに、「国家防衛権に基づく戦争を正当とする考え方こそ有害である」と答弁したのである。今日から観ると、どちらが自民党でどちらが共産党の意見なのか判断をすることが難しいですね(新井 章「憲法50年論争史」 『別冊世界 ハンドブック 新ガイドラインって何だ?』(岩波書店、1997年)118頁。ちなみに、新井先生は本学(茨城大学)の名誉教授です)。
ところで結論を先に言わせてもらうと、わたしは「戦争には侵略戦争と自衛戦争があって、『正しい戦争』つまり自衛戦争まで放棄する必要は無いはずであり、憲法第9条は侵略戦争の放棄を明示することで足り」、それゆえに自衛隊の存在は「専守防衛」に徹するのならば十分に現行憲法第9条に照らしても合憲であると思っています。講義のなかで自衛隊を肯定するので、よくわたしのことを「右翼」と批判する学生さんがいますが、それは誤解もはなはだしいものです。なんども繰り返すようですが、わたしは「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的、言い換えるならば外敵から生命・自由・財産権(プロパテイー)を護るために「自衛隊」という存在が必要不可欠だと言っているだけなのです。したがって、なるほどアメリカとの友好関係は「国益」に適うものかもしれませんが、「自衛隊のイラクへの海外派遣・駐屯」は「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を護るための手段としてバランスがとれるものではないので反対です(もちろん、いまイラクにいる自衛隊に「戻ってこい」と言うことは非経済的なので、その意味では事実を「追認」していると言われるのかもしれませんが)。いずれにせよ、吉田首相が「国家防衛権に基づく戦争を正当とする考え方こそ有害である」と言ったために、防衛(自衛)戦争は現行日本国憲法第9条の規定においては座りごこちのいいもので無くなったことだけは事実です。だからこそ、自民党を筆頭とする改憲派は現行憲法を改正しようとするのではないでしょうか?わたしならば憲法変遷論を使って解釈上、自衛隊を憲法第9条で放棄された戦争ではないと思っていますから、憲法の改悪に繋がる可能性の高い「憲法改正論」に乗っかる気は全くありません。
2.自己保存本能
それでは、どのようにして国家の自衛権を認めればいいのでしょうか?これが次の問題になってきます。そこで、わたしは生けとしいけるものがすべて有している「自己保存本能」を根拠にしたいと思います(「自己保存本能」の詳細については以下のものを参照のこと。(https://homepage.mac.com/berdyaev/rinrigaku/gaisetu/rinri8.html))。簡単に言ってしまえば、「人間」をはじめとしてすべての「生き物」は死にたくないという本能があるということです。たとえば、ライオンに追い詰められたシマウマを想像してみてください。シマウマはライオンに追いかけられれば捕まらないように全力疾走し、捕まっても喉首を掻き切られないまでは抵抗をしています。みなさんだって、「殺す!」と言われてそのまま殺される人はいないと思います。時たま例外的に、レミングのように集団自殺をする動物がいますがそれは本能が狂ったからです(古典的なPCゲームとして、「レミングス」というゲームがある(https://game.goo.ne.jp/contents/title/PGMNTPDmdq00202/))。さて、この「死にたくない」あるいは「殺されたくない」という本能は否定することが出来ません。たとえば、憲法の規定ではありませんが、刑法に「正当防衛」と「緊急避難」という規定がなされていることぐらいはみなさんもご存知の通りです。
第35条(正当行為)
法令又は正当な業務による行為は、罰しない。
第36条(正当防衛)
1 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
第37条(緊急避難)
1 自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
2 前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。
たとえば、急にわたしが発狂して日本刀でこの教室にいるみなさんを血祭りにあげていったとしたら、みなさんは先生が日本刀で自分達を殺そうとしているのだから仕方がないと諦めるのでしょうか?しかし、そんなことはありませんよね。仮にきみたちがソフトボール大会をしようとしていて、金属バットを机の横に置いていたとしたらそれで斬りかかってくるわたしに反撃し、そして反対に殴り殺しても問題はありません。すなわち、外形上はわたしを金属バットで殴り殺しているのだから「殺人行為」を行っているといえるかもしれませんが、刑法第36条で規定されている「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」という正当防衛行為に該当し違法性が阻却され、みなさんは無罪ということになります(とりあえず、「正当防衛」については以下の文献を(https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/00-34/ikuta.htm)を参照)。個人ですら正当防衛が認められているのですから、その個人の集合体である国家が外敵から突然侵略されたとき、「それに反撃できないということはできない」と言うことはナンセンスだと思います。ましてや、自衛隊はわれわれの高い税金によって賄われているのです。その意味では、ノージックの言うように国家はわれわれの生命・自由・プロパテイーを護るための保険機関と見なしてもいいのではないかと思います。
(https://takaya.blogtribe.org/entry-20d53b62108a814a629bb778e328819d.html)
ましてや現在の日本に、「日本に外国の軍隊が攻め込んできた場合、自衛隊は一般国民を無視して外国軍と砲火を交えることになるから、自分は外国軍と自衛隊の戦闘に巻き込まれて死ぬより、自分の家族を護るためにおよばずながら裏庭にある竹を切って竹槍にして外国の戦車に向かっていく」というようなことが言える「強い個人」がいったいどれぐらいいるのかは疑問です。反対に言うならば、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」という条件を満たすことはできないので自衛隊の海外派遣や駐屯は認められないと言えるでしょう。
いずれにせよ、国家の自衛権は人間の持つ「自己保存本能」に基づくものでありそれを否定することはできないと考えるべきでしょう。最後に、この「自己保存本能」をスピノザの著作のから基礎付けることにしたいと思います。「スピノザは人間を含むすべてのものに、自己を保存する欲望と力があると想定する。そしてみずからを保存しようとする<ぼく>の身体には、精神を越える能力があると考えるのだ。ぼくたちは『明らかに精神でさえ驚くような多くのことを、身体は自己の本性の法則だけに従ってなすことができるという事実』(『エティカ』第三部定理二の備考)におどろくべきなのだ。」「人間には、自己の存在の保存に固執しようとする欲望があり、これに寄与するのが善であり、自己の存在の保存に望ましくないものが悪であるとするスピノザの倫理学は、きわめて美しい体系を作り出している」(中山元『<ぼく>と世界をつなぐ哲学』(ちくま新書、2004年)35頁参照。なお、スピノザの思想を知るためには以下の文献が有効だと思います。
3.ゲーム理論—あるいは、「ドクター・ストレンジラブ—どのようにして私は悩むのをやめ、爆弾を愛するようになったか」(『博士の異常な愛情—または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか-』)
von Neumann ゲーム理論の提唱者 |
お蔵入りになった「博士の異常な愛情」のパイ投げシーンでのストレンジラブ博士。 |
次に、この平和主義における問題をゲーム理論で説明しようとする長谷部恭男氏の見解を紹介することにしましょう。まず、長谷部氏はゴーティエの議論に従い「囚人のディレンマ」状況と「チキン・ゲーム」によって説明しようとする。まず、「囚人のディレンマ」状況の説明からはじめることにします。
(図1)
C D
2,2 |
0,3
|
3,0
|
0,0 |
C
D
図1は、「囚人のディレンマ」状況を示すマトリックスです。ここでは、二つのトーチカをそれぞれ守備する二人の直面する選択肢を例にしましょう。Cは協力してトーチカを守備し、敵襲に反撃するする選択、Dは仲間を裏切ってトーチカを捨て逃亡する選択です。二人が協力して反撃すると、軽傷は負うかもしれませんが、敵襲を撃退することがでます。二人がともに逃走すると、二人とも敵の捕虜となります。他方、一人が反撃しているうちに他の一人が逃走すると、逃走者は無傷で生き延び、人のよい兵士は戦死してしまいます。全体としては、二人とも協力するという選択の組み合わせが最善のはずです。しかし、相手が反撃をつづけるとすれば、自分個人としては逃げることで最善の利得(3)を得ることができるし、相手が逃走するのであれば、やはり自分としても逃走しなければ割があわない。したがって、相手がいずれを選択したとしても、相手を裏切ることが合理的な選択だということになります。ところが、その結果、全体として見れば最悪の結果、つまり双方が逃走して敵の捕虜になるという結果が導かれます(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)133頁以下)。以上のことを前提とすると、「囚人のディレンマ状況に置かれた当事者が、はたして他者が協力しようとするか否かを的確に知ることができるかが問題となる。羊の皮をかぶった狼であれば、相手の協力的な姿勢にだまされて、裏切りにあう危険がある。お互いの意図が不明で疑心暗鬼の状態では、安定的な平和を実現することは難しい」ことになるでしょう(前掲書・141頁以下)。
次に、「チキン・ゲーム」の説明をすることにします。「チキン・ゲームとは、もともとは、命知らずの若者が、それぞれの自動車を全速力で、そのままでは衝突するよう、対抗方向から走らせるゲームである。命が惜しくて一方がコースから外れると、弱虫(chicken)とあざけられ、相手方は勇者として讃えられる。しかし、両方がそのまま突っ込めば二人とも命を落とすことになる。対立する核保有国が、それぞれ自己のイデオロギー的正当性を主張しあって、相互を斯く攻撃すれば最悪の結果を招くというシナリオと同じタイプのものである。」
(図2)
C D
2,2 |
1,3
|
3,1
|
0,0
|
C
D
(図2)は、「チキン・ゲーム」のマトリックスを示しています。もし、敵の攻撃にこちらも反撃すれば、双方が死滅します。もし、敵の攻撃に対して屈服すれば、双方が攻撃を控える場合に比べて利得は減少しますが、それでも、少なくとも生き残ることはできるでしょう。したがって、国家間の関係をチキン・ゲームと見立てる国からすれば、さしたる防衛力を持たず、外敵からの攻撃が予想されれば進んで降伏するという選択が合理的となりまする(前掲書・143頁以下)。
まさに、このチキン・ゲームの最悪の状況を皮肉った映画が1964年のスタンリー・キューブリック監督作品の『博士の異常な愛情—または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか—』である
劇中に登場するストレンジラブ博士(ピーター・セラーズ) |
(詳細は、(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=17858))。精神異常をきたしたジャック・リッパー将軍(「切り裂きジャック」のパロディー)のソ連核攻撃命令のために、アメリカ大統領とソ連首脳の必死の努力にもかかわらず、攻撃命令中止の無線が一機の核爆撃機に届かず核爆弾を投下、それに対してソ連が極秘裏に開発していた核兵器「最後の審判マシーン」(「皆殺し装置」)が自動的に作動し人類は百年間地下都市で生活しなければならなくなるというブラック・コメディーである。この映画で異彩を放つキャラクターこそストレンジラブ博士である。彼は「車椅子に乗り、義手の右手をもつ天才的な科学者であり、『ブランド・コーポレーション』(ランド・コーポレーション=アメリカ空軍のシンクタンクを果たした研究機関のパロディー)から派遣された大統領の科学顧問という設定である。重いドイツ語訛りと、興奮すると勝手にナチ式敬礼をしてしまう義手は、彼がかつてナチに協力した科学者であることを暗示している。映画のなかで彼は、全面核戦争が不可避になった後でさえ、冷静に対処策を大統領に進言する。米国民を選別して、選ばれたものだけが百年間地下都市で生き延びればよいとするのである」(竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく—戦略的理性の批判—』(ちくま新書、2004年)49頁)。竹田氏によれば、ストレンジラブ博士のモデルはことばやふるまい方は当時ハーバード大学教授であったヘンリー・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger 1923~。ニクソン政権の国務長官)、またランド・コーポレーションから派遣されてきたことは当時『熱核戦争論』(1960年刊)を書いたハーマン・カーン(1922~1983)、そして車椅子に乗っていることは晩年癌に冒され車椅子で各種委員会に出席していたフォン・ノイマンではないかと推理する(前掲書・50頁以下参照)。ノイマン自身は米ソ対立をゲーム理論的観点から捉えていなかったようだか、彼がコンピューターの基本設計思想を打ち立て、そこから「ゲーム理論の父」と言われていることは周知の事実であるし、1948年に正式にランド・コーポレーションと契約したことで、これがランド・コーポレーションにおけるゲーム理論研究のきっかけになったことは否定できないと思われる。いずれにせよ、ゲーム理論が最初に本格的に応用されたのは、冷戦におけるアメリカの軍事戦略の領域であると言えよう(前掲書・48頁以下参照)。
*ちなみに、劇中に登場する「皆殺し兵器」は架空の存在ではなく、旧ソヴィエト連邦で、また現在ロシア共和国でも稼動している「死の手」システムのことである。劇中に登場した内容どおり、核攻撃を受けるとミサイル発射命令の電波を発するミサイルが発射され、ロシア全土に配置されたミサイル群に所定の目標に対する発射を行うと言うシステムです。
いずれにせよ、「囚人のジレンマ」にせよ、「チキン・ゲーム」にせよ、この理論は失うもののないものには通用しないことは、いわゆる9.11テロ事件以降明確になってきていると言えよう。まさに、上述の理論は米ソ二大国の冷戦構造に適した理論であるが、さてテロリズムにこの理論が実効性をもつとは考えられないのではないか?
4.判例の紹介と検討
この部分については、『憲法判例百選』をテキストに使い主に「警察予備隊違憲訴訟」と「恵庭事件」を素材に自衛隊訴訟の難しさについて解説しました。おのおのの、コメントはわたしの講義で話したことを思い出してください。