『国法学講義ノート』第5講

2013年01月10日 22:29

第5講 人権の享有主体性―(1)―定住外国人の人権の享有主体                            

          茨城大学教育学部准教授 中野 雅紀

 

はじめに

 

  第1講で社会科学論文の書き方の一例として、定住外国人の人権の享有主体性の有無についての議論を行いました(ここでは、その講義を、あえてこの第5講に組み込んで再説しています)。そこで、第1講の復習を兼ねて、第5講では定住外国人の人権の享有主体性をテーマにして議論を進めていくことにしましょう。

 

 さて、人権の享有主体性とはなにか、ということが問題になりますが、みなさんは、これを日本国憲法の保障する基本的人権を持つことができるのはだれであるのかと、理解しておいてください。当然のことながら、わが国は法治国家なので人権を持っているということは、その人権を侵害された場合、その救済を裁判所で主張できるということも意味していると併せて理解しておいてください。ところで伝統的に、わが国においては人権の享有主体性について天皇・皇族の人権享有主体性の問題、法人の人権享有主体性の問題および定住外国人の人権享有主体性の問題が議論されてきました。近年においては、それに未成年者の人権享有主体性の問題、お年寄りの人権享有主体性の問題、身体障害者の人権享有主体性の問題が議論されるようになっています。法哲学的にはさらに、人間以外の地球外生物、つまり宇宙人の人権享有主体性の問題や動植物の人権享有主体性の問題まで議論されるようになってきています。また、将来においてはアンドロイドやロボットの人権享有主体性も問題になるであろうと考えられます。これらの議論は一見、奇異な議論のように思えますが、では人間は、どうして他の動物、すなわち魚、鶏、豚および牛等を屠殺して食べることができるのかという、根源的な人権の理由づけと絡んでくる非常に難しい問題なのです。

 

 そもそも、人権は、人間が神の似姿に造られているから、あるいは人間には生まれつき「人間の尊厳」がインプットされており、すべての動物のトップにあるから(万物の霊長)、人間だけが権利を持つことができるという理由づけから構築されています。このような理由から人間は、自分たちよりも劣った動物を食べることができるわけです。あるいは、アリストテレス的に「性質説」を採用するならば、水が高いところから低いところに流れるのが性質であるように、人間は牛肉を食べて生きていく性質を持ち、牛には気の毒ですが、牛たちは人間の胃袋に納まる性質を持っているから食べられるということになります。ただし、アリストテレスの性質説では自然科学と人文・社会科学の区別がなされていませんし、人間においても生来的に「奴隷」の性質を持っているものが「奴隷」だということになりますから、この見解は身分制社会を肯定することになり、採用することができません。そこで、「人間の尊厳」を発展させて、人間だけが理性的に判断して行動できるからという理性万能主義を徹底すると、たしかに人間は他の動物に比べて知能が高いから、他の動物を、生命までふくめて支配してよいということになりますが、この説を鵜呑みにすれば、クジラやイルカは知能指数が高いから食べてはだめだとか、反対に人間においても知的発達障害者は、健常者と比べて劣っているから差別してよいということになり、ナチスや日本の人種法や優生保護法のように人権の普遍性を侵害する「悪法」となる可能性が出てきます。それでも、どうにか人権の根拠を「人間の尊厳」に求めて、これが通説的見解であるのは、現在のところ、この地球上の動物の中で人間より優れた動物はいないからに過ぎません。では、ロバート・ノージックのように、地球外から人間よりも優れた宇宙人がやってきて、彼らが人間の肉が大好きで、圧倒的な科学力の差で人類を圧倒して、人間を捕獲して食べはじめたとき、「人間の尊厳」の理論を主張して、宇宙人を納得させることができるでしょうか。おそらく、宇宙人は、「ではお前たち地球人は魚、鶏、豚、牛などの自分たちより劣った生物を食べているではないか、われわれが、お前たち地球人を食べているのも同じように、地球人がわれわれより劣った生物であるからだ」と反論するでしょうから、この理論では相手方である宇宙人を納得させることはできません。そこで、「人間の尊厳」をあきらめて、功利主義に走ると、今度は更にまずい結果になってしまうでしょう。つまり、功利主義とはジェレミー・ベンサムの「最大多数の最大幸福」に要約される理論ですから、食べられる地球人たちの不幸よりも、人肉を食べて、美味しかったと満足する宇宙人たちの幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということとなり、まったくもって、われわれ地球人にとって救いようのないことになってしまいます。さらに必ずしも、功利主義がわれわれ人間限定した場合に、いかなる場合においても都合がよいのかと言うと、そうは言えないのであって、たとえば、ある病院に心臓病の患者と、肝臓病の患者と緑内障の患者がいて、すぐにそれぞれ該当する臓器移植が必要であると想定してください。そんなとき、タイミングよく病院の前で健康で病気ひとつしたことのない人物が自動車に撥(は)ねられ、脳死状態になったが、他の臓器は傷一つない状態で集中治療室に入れられたとします(ここで注意してもらいたいのは、脳死したのであって、死亡したのではないということです)。徹底した功利主義を採るならば、臓器移植提供カードがなくても、家族のインフォームド・コンセントがなくても即刻、この脳死した人物の心臓を心臓病患者に、肝臓を肝臓病患者に、そして角膜を緑内障患者に移植するでしょう。ついでだから、血液も輸血用に全部抜いてしまって、また骨髄バンクに提供するために骨髄液をすべて採取して、この脳死患者の人体解体が行われたとしても、この一人の患者の肉体をバラバラにすることによって、多くの他の病気で苦しむ人たちが救われるわけですから、得られる「快」の総計は失われる「快」の総計をはるかに上回り、道徳的にも「正義」に資することになります。しかし、このような残酷な措置は、われわれの通常の倫理観とはかけ離れているように思いますが、あなたたちはどうおもいますか。最後に、前述の宇宙人を人間よって造られた高性能なアンドロイド(レプリカント)に入れ替えてみてください。フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房、1968年)、それを映画化したリドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982年)を読んだ、あるいは観たことのある学生さんならばわかると思いますが、「ネクサス6型」のアンドロイド(被造物)たちが、その制作者であるエルドン・タイレル博士(造物主)である自分たちを造った意義を問い、過度に短く設定された寿命を延ばすことを要求するために地球に帰還し、それを主人公のリック・デッカードが追うというストーリーです。この作品の重要な点は前者の部分であり、すなわち造物主(神)と被造物(人間)の関係をどのように考えるのかということにあります。なるほど、現代においては基本的人権の理由づけに「神の似姿」論を持ち出す学者は少なくなっていますが、わたし自身はけっして「神の似姿」論を持ち出すことは非合理な考えではないと思っています。ある意味においては天動説を説いたプトレマイオスのように、地球が宇宙の中心にあり、地球に神がいるといった考え方に徹した方が上記の難問に煩わされる必要がないのかもしれません。

 

Robert Nozick 1938~2002

 

 

Jeremy Bentham 1748~1832

 

 

Claudius Ptolemaeus 85~165

 アリストテレス以来の天動説の代表的論者。地球中心説を唱え、地球こそが神の住む星であるとした。 

 

 余談によって紙面をかなり使ってしまいました。基本的人権の享有主体論においては後述のように、文言説と性質説の対立を理解しておく必要があり、そして性質説を理解するためには人権の理由づけの問題を理解しなくてはならないので、宇宙人の人権享有主体性の問題やアンドロイドの人権享有主体性の問題という極端な話を使って「神の似姿」説、「人間の尊厳」説および「功利主義」説を概観したわけです。とりあえずは、みなさんはこのうち「人間の尊厳」説を採用してください。ちなみに、極論はナンセンスであると言う人がいますが、今回の東北・関東大震災における菅直人政権の対応の遅さは、細かい可能性にまで言及しすぎて議論の対象が拡大し、そしてそれに応じて選択肢が増大し、結局、基本方針が決まらずになにも行えないということに原因があることを考えるならば、総論は二者選択型から入り、各論で具体的な事案を採りあげるべきだと考えます。

 

 さて、天皇・皇族の人権享有主体性の問題、法人の人権享有主体性の問題、定住外国人の人権享有主体性の問題、未成年者の人権享有主体性の問題、お年寄りの人権享有主体性の問題、身体障害者の人権享有主体性の問題についてすべて語ることになると、この講義は、残りの時間はみんな人権の享有主体性の問題だけ語ることでおしまいになってしまいますので、今回は、定住外国人の人権享有主体性にテーマを絞って話を続けていきたいと思っています。ちなみに、定住外国人の人権享有主体性の問題の他で、国家試験や資格試験に出題される可能性が高いのは、法人の人権享有主体性の問題です。したがって、これはみなさんが各自でチェックしておいてください。

 

 ここまできて、やっと定住外国人の人権享有主体性の問題のテーマの入り口に入っていくわけですが、そこで確認しておかなければならない問題点が三つあります。

 

 

問題点

①人権の享有主体性……誰が日本国憲法の保障する人権の保障対象であるのかということ。

②単なる外国人と定住外国人の違い……定住外国人とは、日本国籍は有していないが、日本に生活基盤を有している外国人である。

③日本で生活する外国人のうち、永住資格を持つ外国人の人口は、2007年末時点で約87万人である。このうち朝鮮半島や台湾から戦前に移住してきた人々やその子孫で、現在も日本国籍を取得していない、いわゆる特別永住者の人口は1991年(約69万人)をピークに年々減少している(「平成19年末現在における外国人登録者統計について」参照)→したがって、定住外国人の問題を旧植民地の出身者に限定して語ることは時代遅れになりつつある。

 

 ここで重要な点は、②であることは言うまでもありません。たとえば、プロ野球選手の助っ人外国人のように、シーズン・オフにはアメリカ等に帰国できる外国人や、たんなる旅行者である外国人の人権は、彼らの本国の憲法によって保障されているのであるから、わざわざ、日本国憲法の保障を受けさせる必要性はありません。しかし、同じ外国人でも、なんらかの理由で本籍国に帰れず、日本にその生活基盤を有している外国人は、上記の外国人とは異なる対応を行わなければなりません。すなわち、日本に生活の基盤を有しているということは「国民」ではないにしても、その生活の基盤とする地方公共団体の「住民」であるという解釈の可能性はあるわけですから、実際面的観点からも理論的観点からも、最初から定住外国人の人権享有主体性を否定してしまうことには問題があります。ただし、国籍法による国籍要件の有無は、19世紀末のドイツ国法学に起源を有しており、これを超える要件論は現在のところ存在しないと思います。なぜならば、国内においては国民主権を原則として採用し、さらに世界連邦国家なるものが実現していない以上、主権者たる「国民」が誰であるのかは、国民の代表である国会議員から構成される国会の立法によって決めなければならないからです。さらに、無国籍者であることも問題ですが、多国籍者であることも問題です。これは注意しなければならないのですが、国籍取得の要件は各国でまちまちであるために、たとえば父親がアメリカ人で母親が日本人であり、子供の出生地が日本である場合、アメリカは出生地主義を採用しているのでこの子供は日本で生まれたためアメリカ国籍を取得できず、また国籍法改正前の日本は父系血統主義を採用していたためにこの子供は父親がアメリカ人なので日本国籍を取得できず無国籍ということになります。反対に、父親が日本人で母親がアメリカ人で、子供の出生地がアメリカである場合、この子供は父親が日本人であるから日本国籍を取得し、アメリカで生まれたからアメリカ国籍を取得するということになります(もちろん現在、わが国の国籍法は両系血統主義に改正されています)。このように考えるならば、両親が別々の両系血統主義を採用しているA国とB国の国民で、その子供が出生地主義を採用しているC国で生まれた場合、その子供はA、BおよびCの三重国籍となることが理解できるのではないでしょうか。無国籍である場合、「おれは永遠のボヘミアンさ」とうそぶいていても、海外旅行に行ったとき被害を受けてもなんの国家的な保護を受けることができません。反対に、多国籍であるということは、それぞれの国家の保障する権利を享受することにはなりますが、当然のことながら、それぞれの国の義務を果たさなければなりません。実例として、きみたちの先輩にお父さんが商社マンで、アメリカで生まれたために、第二次湾岸戦争が起こったとき、アメリカとメキシコの国境警備兵に徴収された学生がいました。このように無国籍である場合、選挙権のみならず、数々の社会保障受給資格もないということになり、実際、家を借りるにしても、就職するにしても大変な苦労をすることになります。しかし、だからと言って、兵役の義務をはじめとして比較的義務の規定の少ない、わが国において、多国籍であることは、日本国籍だけでは課せられない義務を負わなければならないことになります。これが、「無国籍者であることも問題ですが、多国籍者であることも問題です」と言ったわけです。

 

1.定住外国人に日本国憲法が保障する人権を認めることのメリットとデメリット

 まず、定住外国人に日本国憲法の保障する人権の享受を認めるか、認めないかという二者択一的な選択よりも先に、テーゼ、アンチテーゼおよびジンテーゼの根拠となる「定住外国人に日本国憲法が保障する人権を認めることのメリットとデメリット」を提示することにしましょう。

 

メリット

①自然権(法)思想NIchtrechtspositivismus

人間は人間であるというただそれだけの理由で、人間の尊厳を有し、その人間の尊厳から人権の保障がなされる(定住外国人も自然人である点では変わりがない)。

②国際協調主義(普遍主義)

 

 

デメリット

①日本国憲法第三章「国民の権利および義務」という表題

←19世紀ドイツ法実証主義(Rechtspositivismus)の呪縛

②日本国憲法の三大原則である「国民主権」との抵触問題

 

 以上のように、メリットとデメリットの対立は自然権思想と法実証主義、あるいは国際協調主義と国内優先主義という思想的対立に帰着すると言えます。

 

 まずは、メリットの方から順番に解説していくことにします。まず、①の自然権思想ですが、これは基本的人権の根拠を、人間は人間であるというただそれだけの理由で、生まれながらにして「人間の尊厳」を持っており、その「人間の尊厳」をもつことだけに求める考え方です。いわゆる、明治維新期に中江兆民などによって「天賦人権」と言われたのがこの考え方です。したがって、われわれは生まれた時から人間であるわけですから、なにも考えなくとも「人間の尊厳」を持って生まれてきて、その「人間の尊厳」を基礎にして、誰から与えられたのではなく最初から基本的人権を持っているということになります。まさかこの中に、昨日まではゼベット爺さんによって作られた木偶人形であって、放蕩のかぎりを尽くしていたのだが、昨夜、大洗海岸沖で遭難し、大きなお魚に呑み込まれ、そこでゼベット爺さんに再会し、いままでの自分に反省して涙を流したのを、青い髪の妖精さんに認められて人間になったという人はいないでしょう。当たり前のことですが同じように、定住外国人も法律によって、あるいは魔法によって後天的に人間になったわけでなく、生まれながらにして人間であり、「人間の尊厳」を持っているから、人権の享有主体性が認められているわけです。このように、生まれながらにして人間である者を「自然人」と言います。自然人と言うと、ターザンとか、パプアくんとかグーのようにジャングルで野生の生活をしている人のように勘違いする人がいるかもしれませんが、ここでいう「自然」とは「天然」のこと、すなわち「お前、天然馬鹿だな~」等という意味で使われる生まれつきの、ないしは天性のという意味で理解してください。これとの対比で、「法人」というものが挙げられます。これは、たとえば会社や学校などのように、後天的に法律によって「法人格」を与えられ、それに基づいてはじめて人権の享有主体性が認められたものです。ここでは省略しますが、どうして法人の人権享有主体性が問題になるのは、以上のことから推論できるのではないでしょうか。ところが、この自然権思想は戦後、日本国憲法ができてはじめてわが国に導入されたのであって、戦前の大日本帝国憲法の時代には国民の人権は天皇の恩恵によって与えられたものであり、国民たる人間は生まれながらにして人権の享有主体として認められていたわけではなかったことに留意しておく必要があります。

 

中江兆民 

1847~1901

 

 

 茨城大学

  茨城大学は「法人」であって「自然人」ではない。

 

ピノキオ

 後ろにお魚!!

類猿人ターザン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  次に、メリットの②である「国際協調主義」について簡単に説明します。国際協調主義とは平たく言えば、諸外国と仲良くしていくということです。ところで、これがどうして定住外国人の人権享有主体性の問題と関係するのか?それは、たとえば日本とA国が「仲良くやりましょうね」と外交関係を結んだとしても、その外交先の、日本に住んでいるA国人を迫害したり、その人権を十分に保障していないとするならば、本当に仲良くなりましょうと思っているか疑念を抱かれてもしかたがありませんネ。まずは、国家という漠然とした対象ではなく、国民間がお互いを尊重し、仲良くすることから本当の友好関係が生まれるのは言うまでもありません。その中核となるのが、人権ということです。

 

 デメリットの解説に移って、①の日本国憲法第三章「国民の権利および義務」という表題から解説していくことにします。しかし、これは実は②の日本国憲法の三大原則である「国民主権」との抵触問題とも密接に関係し、メリットのように二つを分けて説明するよりも、①から②の順番で説明していくかたちになるかと思います。そもそも、自然権思想と法実証主義のどちらが先に考え出された理論かと言えば、それは自然法思想でした。そもそも、ギリシア哲学においてピュシスとノモスの区別が立てられており、ソクラテス裁判において悪法論が闘わされたように、フランス革命におけるまで西洋社会における法制度は神の法、すなわち、自然法思想が中心でした。しかしながら、絶対王制が確立していく過程で、第3講で解説したようにボーダンのような思想家が「王権神授説」を説きだすと、神様の声を聴ける人物がいない以上、国王をはじめとする権力者たちは恣意(しい)的に、法を解釈するようになっていきます。それに対抗するかたちで、市民革命が起こったわけですから当然、あらかじめ法律で規範の要件と効果を実定化し、立法段階で判断基準を羈束して、国家権力の裁量の幅を限定することによって、国民の権利や自由の保障を図るようになるのは当然の成行きです。すなわち、ハッキリしない法の内容を法律として実定化し、法律として制定されたもののみを法内容とする考え方こそが法実証主義の基本思想です。また、王制を打倒した時点で、主権は国王から国民に変更されたわけですから、そのような立法権は国民の代表から構成される議会に権限として配分され、法的安定性と予測可能性を確実なものとし、近代資本主義を発展させる推進力となりました。当然のことながら、国家権力を縛ることは国民の生命・自由・プロパティーの保障領域を拡大させることですし、また自分たちの代表で構成される議会が作る法律ですから、法実証主義は優れた理論であると信じて疑われませんでした。そして、遅れてやってきた立憲国家であるドイツと日本は、このフランスの法実証主義を模範にイギリスやフランスなどの先進国に追いつここうとしました。まず、ドイツがフランスの諸法典を模範にドイツ帝国憲法をはじめとする諸法典を実定化し、日本はドイツの諸法典を模範に大日本帝国憲法をはじめとする諸法典を制定しました。                               

 

 もちろん、この当時のフランス、ドイツおよび日本人も自然権、あるいは天賦人権の存在は知っていましたが、国家権力の恣意性を排除するためには、それを実定化しなければならず、実定化していなければ、それらの人権は実効的な効力を持つことはできませんでした。しかし、これはおかしいと早合点してはいけません。法律なしに国家権力が国民に自由や権利を与えるならば、それは恣意的に特権を与えることになり、革命以前の専制政治に逆戻りしてしまうことになります。実際、法治主義という観点からすれば、ドイツや日本は法実証主義に第二次世界大戦に敗れるまで忠実であり、ナチス・ドイツや戦前の日本はよく「不法国家」であったと非難されますが、ユダヤ人の虐殺は人種法に基づいて行われ、反体制派の弾圧は治安維持法に基づいて合法的に行われました。むしろ、ドイツと日本は、フランス革命後に進展した過度の人間の理性信仰、すなわち、立法者も人間であり、誤った法律を立法してしまうことを看過し、その誤りや欠缺を自然法で補完するという再生自然法論を考慮しなかったこと、そして形式的には憲法と他の法律も実定法である点において上下関係にないことに間違いはないが、国民の代表である議会も常に正しい法律だけを作るだけではなく、誤った法律、あるいは悪法を作ることがある以上、憲法を法律の上位において、またその憲法をも拘束するような自然法を想定して、違憲の法律やはなはだしい悪法を審査できる制度(その代表が、違憲審査制度)の必要を軽視したことが問題であったわけです。そもそも、人権が問題になるのは少数者の人権が問題になる場合が多く、ゲオルク・イェリネックが指摘するように人権は『少数者の権利』がその原型になっています。したがって、国民の代表による多数決で可決される法律は、国民に代表ではない執行権の担い手としての裁判官の恣意的な法解釈を統制することには大きな役割を果たしましたが、人権は多数決によっては決めてはならないことが理解できますよね。

 

 以上のように、再生自然法思想に変わったと言っても、当然のことながら「神の法」を理性によって認識できない以上、原則は実定法の解釈を中心とした法実証主義であり、例外として、どう考えても「悪法」としか評価できない、法律は実定法を超えた法律に照らして違憲とされなければならないという考えに基づいて、現代の立憲主義国家は、その補完として自然法思想を採り入れているわけです。その制度的な典型例が、わが国においては違憲立法審査権であるということを覚えておいてください。

 

 

人間と市民の権利の宣言(1789年)                               

ナポレオンとCode Civil(1804年)

『ナポレオン法典』は、完璧で解釈する必要がないと言われていた。

 

Georg Jellinek  1851~1911

 ドイツ連邦憲法裁判所

  ドイツも戦後、憲法裁判制度を導入した。

 

 

 

 ところで、上述のような問題点があっても、主権者は国民に変更されたわけであり、国民によって制定された実定法の文言を素直に読まなくてはならないことは言うまでもありません。なぜならば、文言通りに読まないで、勝手な解釈を行ってよいのであれば、封建社会の支配者が、民主的な法の執行者(フランスでは、行政権よりも司法権の恣意性を危険視していました)に代わっただけで、法の恣意的な解釈・運用が行われて、結局、専制政治に逆戻りしてしまうからです。したがって、このことは日本においても同様で、法解釈の原則は文言解釈で、それで都合が悪い場合に、反対解釈、拡張解釈、論理解釈あるいは類推解釈を行うことになっているのです。そうすると、日本国憲法の規定は第三章で「国民の権利および義務」を定めているので、これを字義通りに読めば、日本国憲法の人権は原則的に日本人のために保障されているということにならざるをえないでしょう。これを勝手に、定住外国人の人たちはかわいそうだからとか、友達になれそうだからと言って、勝手に、すなわちここで言う恣意的な「国民」の拡張解釈を行ってしまうことは、国民主権の原則に違反する行為になります。そして、この第三章の人権カタログの中に選挙権が入っているのです。かなり長い文章になりましたが、これでデメリットの②の話の前提に入ることができるかと思います。

 3で示したように、わが国は第1条で国民主権を明記しています。その意味は繰り返しになりますが、「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは国民」ということになります。また、芹沢斉生も指摘するように、日本国憲法の三大原則の中で「一般論として、国民主権と基本的人権の保障が改正の限界をなすことについては異論はない」とされています。すなわち、ナポレオンの皇帝就任やヒトラーへの全権受任に見られるような、国民主権に基づいて国民自身が国民主権を放棄して、君主主権に変更するという自殺行為は、憲法改正権の限界と抵触し理論的に不可能です。当然ながら、日本国民が定住外国人に主権を移譲することや、分有することは最高、不可分、可譲である主権の概念に合致しません。もちろん、法実証主義をここでも徹底して、憲法の規定に価値序列は存在せず、憲法自身が改正を認める以上、憲法の規定の改正に限界はないとし、定住外国人主権にしてもよいという主張も出来ないわけではありませんが、ここまでの説明から理解できるように、わたしはこの見解は採りません。そこで、上記のナポレオンとヒトラーの二人の共通点を考えてみてください。実はナポレオンはそもそもイタリア人であり、ヒトラーはオーストリア人で共に外国人であったということです。当然のことながら、しかし意外にみなさんの中にはかならずかん違いしている学生がいるのですが、日本に帰化した外国人はもはや日本人なのであり、定住外国人でないということを理解してください。そして、わたし自身は帰化制度を否定するものではなく、積極的に評価するものです。

 

Napoléon Bonaparte 1769~1821

Adolf Hitler 1889~1945

 

2.学説

 第1章のメリットとデメリットを比較衡量すると、下の三つの学説に分類することができます。

 

(学説の分類)

  1. 否定説

その根拠はデメリット

   ①日本国憲法第三章「国民の権利および義務」という表題←19世紀ドイツ法実証主義(Rechtspositivismus)の呪縛

   ②日本国憲法の三大原則である「国民主権」との抵触問題

  1. 肯定説

その根拠はメリット

   ①自然権(法)思想Nichtrechtspositivismus

人間は人間であるというただそれだけの理由で、人間の尊厳を有し、その人間の尊厳から人権の保障がなされる(定住外国人も自然人である点では変わりがない)。

   ②国際協調主義(普遍主義)

  1. 折衷説

否定説対肯定説の対立図式では、永遠に論理的対立を解消することは不可能。

したがって、メリットとデメリットの良い部分を足して2で割る。

     C1)文言説……文言に「国民」という言葉が出てくるかどうか←法実証主義的

         第15条第1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。→国民固有の権利だか  

     ら 選挙権については定住外国人は人権享有主体ではない。

     第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役 

     に服させられない。→何人もと書かれているから奴隷的拘束および苦役からの自由については定住外国人も人 

     権享有主体である。

       第21条第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。→国民という言葉が出 

     てこないから、表現の自由については定住外国人も人権享有主体である。

 このように、憲法第三章、すなわち第10条から第40条の文言によって定住外国人の人権享有主体性の有無を判断していく。

 

   C2)性質説……人権の性質に応じて人権の享有主体性を決める←自然法思想的

     自由権=「国家からの自由」→国家、すなわち日本国を前提としないで生まれつき有している「自然権」であるか 

     ら、定住外国人にもその人権享有主体性が認められる。

     社会権=「国家による自由」→国家という配分装置を前提とするから、定住外国人にその人権享有主体性が認め 

     られるとしても、大幅な制約が課せられる。

     選挙権=「国家への自由」 →日本国という国家への参加権である以上、日本国の政治の在り方を最終的に決 

     定する権限が日本国民にあるという国民主権の原則に抵触し、定住外国人にはその人権享有主体性は認めら   

     れない。

     ※実はこの三類型について、みなさんは、すでに「公民」科目として初等・中等教育で学習済みのハズ。

 

  この議論に基本方針を示したリーデング・ケースがマクリーン事件である。

 「憲法第3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。しかしながら、前述のように、外国人の在留の許否は国の裁量にゆだねられ、わが国に在留する外国人は、憲法上わが国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく、ただ、出入国管理令上法務大臣がその裁量により更新を適当と認めるに足りる相当の理由があると判断する場合に限り在留期間の更新を受けることができる地位を与えられているにすぎないものであり、したがつて、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当であつてる。」

⇒①「権利の性質上」→最高裁判所が「性質説」を採用している証拠である。

⇒②「わが国の政治的意思決定……を除き」→国民主権による限界を示す。

 では、社会権はどうなるのか→塩見事件判決を見よ。

 

 

佐々木惣一 1878~1965

 京都学派の重鎮。ドイツ国法学の法実証主義の影響から、文言説を提唱した。

宮沢俊義 1899~1976

 東京学派の重鎮。フランス憲法の権威であったが、自然法思想およびイェリネックの地位理論から性質説を提唱した。

 

3.判例

 

  1. マクリーン事件(判例百選 事件【2】 プロセス演習481頁)→前述のように、定住外国人の人権享有主体性の基本方針を定める。

 「憲法第3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。しかしながら、前述のように、外国人の在留の許否は国の裁量にゆだねられ、わが国に在留する外国人は、憲法上わが国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく、ただ、出入国管理令上法務大臣がその裁量により更新を適当と認めるに足りる相当の理由があると判断する場合に限り在留期間の更新を受けることができる地位を与えられているにすぎないものであり、したがつて、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当である。」

 

  1. 指紋押捺事件(判例百選 事件【4】)→定住外国人の自由権(プライバシー権)が問題となった事件

 「憲法13条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される。しかしながら、右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法13条に定められているところである。」(下線部については、京都府学連事件が重要)

⇒①性質説によって、自由権であるプライバシー権は定住外国人をはじめとして「何人もみだりに……強要されない自由を有する」ことを確認→自由権は「国家対抗的な権利」、すなわち「防禦権(Abweherrecht)」であり保障の程度が高い

⇒②しかし、「基本的人権は絶対不可侵である」という説明は修辞(レトリック)であり、「公共の福祉のために必要な場合には相当な制限を受ける」

↓(必要性の根拠)

 「「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。

⇒①定住外国人のアイデンティティーを確認するために合理的、かつ必要な制度

 たしかに、指紋押捺制度の強制は定住外国人を犯罪者扱いするな、という批判も一理あるが、では戸籍制度によって人物特定(管理)がなされているわれわれ日本人に比べ、なんらの制度的縛りをなくしてしまって良いとは思えない←不法入国者による犯罪への対処

↓←(制度の選択は相当か)

 「また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、……原則として最初の一回のみとされ、また、……在留期間一年未満の者の押なつ義務が免除されたほか、……永住者及び特別永住者につき押なつ制度が廃止されるなど社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。」

⇒①判決文からも明らかなように、現行外国人登録法はかつての指紋押捺の制度内容を緩和するものであり、ひるがえってこの規定を違憲・無効とするならば旧来の制度内容に戻ることになりかねない。そう考えると、この制度の選択は相当なものと考えられる。

 

  1. 塩見事件(判例百選【7】)→定住外国人の社会権「生存権」が問題となった事件

 「憲法25条は、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきこと(1項)並びに社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきこと(2項)を国の責務として宣言したものであるが、同条1項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条2項によつて国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきこと、そして、同条にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、同条の規定の趣旨を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするから、同条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するに適しない事柄である。

⇒①そもそも、生存権そのものが抽象的権利であって国民ですら、その実現のための立法措置について立法府に広い裁量にゆだねられている。そして、この判例で問題なのは原告の塩見さんは結婚を機に日本国籍に帰化したのであり、厳密に言うならば「定住外国人」の社会権の問題に当該判決を入れるべきか、それ自体が問題のように思える。

↓←(定住外国人に対して、裁量が広がるのか)

 「社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許されるべきことと解される。したがつて、法81条1項の障害福祉年金の支給対象者から在留外国人を除外することは、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。」

 

  1. 定住外国人地方参政権訴訟(判例百選 【5】 プロセス演習500頁)

  規範(Norm)は「白黒」を付けるだけではない。

  • 要請:「~しなさい」
  • 禁止:「~してはいけない」
  • 許容:「①か②かいまだ未確定」→国民主権を採用しているので、その最終的決定は国民の代表からなる唯一の立法機関である国会の立法によって確定される。

 

 国民と住民の関係

  A)国民=住民→定住外国人には国政選挙権のみならず、地方参政権の付与も禁止される。

  B)国民⊂住民→住民を日本地域のどこかに生活の基盤を有する者と解釈し、国民と切り離して人権の享有主体性の有無を検討する。

  国政レベル→国民主権の原則から、憲法を改正しても許容されない。

  地方レベル→公職選挙法の改正によって将来的には、定住外国人にも地方参政権が許容される可能性がある。あくまでも、可能性の問題であるが、その意義は大

          きい。

  「憲法93条2項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。

 なお、石川健治氏は「国籍法違憲判決」を素材にして、定住外国人の人権享有主体性において「性質説」を出発点としていることを批判しています。