『国法学講義ノート』第2講

2012年12月05日 16:49

【講義ノート】日本国憲法の三大原則―その序列を考えてみよう―(二・完)

                   茨城大学教育学部准教授中野雅紀

 

 第1章のつづき

ホッブズ著『ビヒモス』扉絵初版より

カバのような怪獣がビヒモス、ワニのような怪獣がリヴァイアサン。

 

John Locke1632~1704

 

 それに比べれば、ジョン・ロックやルソーの社会契約論は楽観的です。このような違いが生じたのは、彼らが生きた時代がホッブズに比べると幸福な時代であったからかもしれませんし、また未来に対する希望が持てた時代であったからかもしれません。なにせ、ホッブズより50歳ほど若いロックの時代にはイギリスはアメリカに殖民都市を作り、無限のフロンティアを開拓して自らの努力で生活を改善・向上するという夢が持てたのです1。ある意味では、すでに「アメリカン・ドリーム」の原型が出来ていたのかもしれません。ロックの主著『政体二論』は鵜飼信成先生が『市民政府論』(岩波文庫)という名前で翻訳をしていますので、大学生ならば一回は目を通しておいてもらいたいものです。

 あまりにも、話がわき道に逸れてしまったのであとは簡単にルソーの評価をしておきます。私見によれば、ルソーは能天気なほどの理想論者でした。「一般意思」なる抽象的な概念を生み出すことによって、「公的なるもの」と「私的なるもの」の垣根を取っ払おうとしましたが、それがやがて共産主義などの全体主義思想の源になったことは消極的にしか評価できません。その意味では、わたしはホッブズほどルソーを高く評価していません。

 さて以上の説明からも理解できるとおもいますが、17世紀的、あるいはホッブズ的悲観主義的人間観からに日本国憲法の三大原則を並べるとしたら、①平和主義、②君主主権(ホッブズはスチュワートの側近)および③基本的人権の尊重という順番になるでしょう。なぜならば,ホッブズが生きていた前後のイングランドは百年戦争、バラ戦争、宗教改革、無敵艦隊の来襲、ピューリタン革命といったように平和な時代がなかった世紀でした。平和というインフラが整備もされていないのに、国民主権や基本的人権の尊重を説いてもそれは理想論に終わってしまいます。しかし、現在の日本をホッブズの生きたイングランドの歴史とシンクロさせていいのでしょうか?これについて、わたしは違うと応えたいと思います。次章では、その理由を啓蒙期の哲学者エマニュエル・カント(Immanuel Kant 1724~1804)の「目的と手段」の関係から説明したいと考えています。

 

第2章「国民主権」および「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段である―エマニュエル・カントの定言命法―

 

Immanuel Kant 1724~1804

 

 定言命法「信条(格率)が普遍的法則となることを、当の信条を通じて自分が同時に意欲できるような信条に従ってのみ、行為しなさい。」(A421)

 

 定言命法の第一方式「自分の行為の信条が自分の意志によって普遍的自然法則になるべきであるかのように、行為しなさい。」(A421)

 定言命法の第二方式「自分の人格のうちにも他の誰もの人格の内にもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要と       しないように、行為しなさい。」(A429)

 定言命法の第三方式「おのおの理性的存在者の意志は普遍的に法則を立法する意志である。」(A431)

 

 まず、わたしが①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番に並べるべきだという見解を採用するのは、啓蒙期の偉大な哲学者エマニュエル・カントが彼の『人倫の形而上学原論』で示しめした定式(定言命法の第二方式)を採用すべきだと考えているからです。そこにおいては、あるものごとを考えるに際して、つねに「目的」と「手段」の関係を配慮することが強調されています。では、カントはどのようなことを言っているのかを見てみることにしましょう。

定言命法の第二方式

 「自分の人格のうちにも他の誰もの人格の内にもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。」(A429)

 うむむ、これは難解だとみなさんは思うかもしれません。しかし、このことは以下のように簡単にしてしまうことはできます。「人間はそれ自体がつねに目的として取り扱われるのであって、決して手段として取扱われてはならない」ということです。具体例を出して説明してみると分かりやすいでしょう。たとえばみなさんが第二次世界大戦の末期に生きており、招集令状を受け取り航空部隊に配属され、飛行訓練を続けていたとしましょう。そんなとき、上官から呼ばれて「明朝、戦闘機に乗って敵航空母艦に神風攻撃をしてくれ。おまえの死は無駄ではない、それによって戦局が逆転しわが国は絶対に勝つ」と言われたらどうしますか?みなさんはこの命令を聞けば、そんなばかな命令は聞けるかと言うに違いありません。なぜならば、功利主義的な計算を除いたとしても、自分が国家存続のための道具(手段)として死ぬことは御免であるという感情を持ち合わせているからです。つまり、国家なるものは自分たちが自分たちの生命・自由・プロパティー(所有権)を守るという目的のための権力装置(手段)として設立されたはずなのに、なぜ主客が転倒して手段のために目的たる自分の生命・自由・プロパティーを犠牲にしなければならないかという疑問を抱くことができるからです。さてここまでくれば、カントの「人間はそれ自体がつねに目的として取り扱われるのであって、決して手段として取扱われてはならない」という言葉が、われわれにとっては既に自明の理として身体にインプットされていることが分かりますよね。(だから、わたし以外の憲法学者は教科書や講義であえて三大原則の順番を説明しないのかもしれません。) とするならば、闇雲に「平和!平和!」と声高に叫んでいる人たち(例えば土井たか子)はなにか胡散臭いような感じがしますよね。平和の中には、恐怖により支配された所謂(いわゆる)「奴隷の平和」もあることを忘れてはいけません。たとえば、ホッブズの部分で書いた『北斗の拳』のラオウによる恐怖の支配というものも、核戦争後の混乱状態を暴力によって押さえ込もうとしていることからすると一種の「平和」と言えるのかもしれません。でもみなさん、そんな恐怖の支配のもとで生きていたとしても決して幸福を感じられないでしょう?であるとすれば、「平和主義」を主張する際にはかならずその目的を明確にしておくことが、あるいはさせる必要があることが理解できると思います。以上のことから、わたしは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段であると考え、日本国憲法の三大原則は①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番がもっとも理論的に優れていると思っています。もちろん、この順序に疑問を覚える人もいるかと思います。かりに「日本国憲法の三大原則に序列を付けよ」という問題が出題された場合には、その人はわたしの説明にきちんとした理由を付けて反論をしてくださって結構です(ただし、どこかの党の元党首が言っていたような「ダメなものはダメ」式の記述をしてはいけませんよ。「『ダメなものはダメ』はダメなのです」)。教員のなかには、自説を攻撃されると不当に試験の点数を低くする度量の小さな人もいますが、わたしはかえってそのようなハネッ返りものの屁理屈を読むのが好きなので、どんどん反論をしてみてください。研究者というものは反論されてなんぼのものですから。反対に言うならば、自分の学説を発表してもなんのリアクションもないようだと、それはある意味でその人物の学者人生も終わりに近づいたということです。ただし、みなさんのなかには学説の批判と個人攻撃の区別がついていない人がかならずなん人かいます。わたしは法律の専門家ですから、当然のことながら個人攻撃は絶対に許しません。みなさんも大学生になったのだから、もう少し「おとな」になりましょう。ところで、わたしは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段であるとして、「平和主義」よりは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」が優先することは示しましたが、実は「国民主権」と「基本的人権の尊重」のどちらが優先するのかについてはこの講義のなかではまったく触れていません。私見としては、どちらが優先するのかということについて一応の考えを持っているのですが、まだ最終的な結論を出しているわけではないのです。死ぬか、ボケるまでには結論を出せればいいかなと思っています(とはいっても、このごろ若年性アルツハイマー病の発症率が高くなっているようだし、わたし自身物覚えが悪くなってきているので内心「これはヤバイ」と思っているのですが)。専門の学者だからその分野のことをすべて理解しているというのは大きな幻想です。みなさんは若くて、時間的余裕があるのですから、寝る前に「国民主権」と「基本的人権の尊重」のどちらが優先するのかな?とか、都合三つの原則の組み合わせは3×2ですので、日本国憲法の先生が言っていた順番より優れた順番はないかな?といったことを考えてみてください。

 

まとめと補足

 詳述したように、一般に日本国憲法の三大原則は「国民主権」、「基本的人権の尊重」および「平和主義」とただ名前を挙げればそれでよしという訳ではないことを理解してもらえたと思います。さらにまた、その順列によってその国家の時代背景や目指される国家目標までも明確にされることから、キチンとした体系に基づいた論理構成が必要であるということも併せて理解してもらえたのではないでしょうか?高校までの勉強だと、社会は暗記科目だとばかにしていた人も、パウロの如く大学の学問は暗記科目ではないと「目から鱗」が取れてくれたならば幸いです。ところで、今回は相当に力を入れてこのレジュメを作成しました。そこでみなさんに理解してもらいたいことは、このレジュメでは、わたしが第1講で答案の書き方で示したように「起承転結」に則って書かれているということです。わたしの講義が高校の先生の講義と違う点を挙げるとするならば、少なくともわたしは講義においても「起承転結」のしっかりした講義構造を採っているということに由来するかもしれません。前回の講義の後、ある学生さんから「先生、憲法を理解するために世界史を勉強しなおします」という言葉をもらったのは正直言って嬉しかった。できれば、世界史だけではなく哲学、倫理学、社会学、政治学、論理学も勉強しなおしてくれれば教師冥利に尽きます。今回の講義の内容としてのレジュメは以上です。

 一般に、カントと言えば三大批判書が有名ですが、哲学者にでもならないかぎり『人倫の形而上学』を熟読すればカントの思想はマスターできると考えてもらってよいです。参考までに、『カント全集7実践理性批判人倫の形而上学の基礎づけ/ カント〔著〕』(https://www.bk1.jp/0000/00003948.html) が最近出たもので、翻訳もこなれていて読みやすいです。ちなみに、わたしは高校一年生のときに岩波文庫の篠田先生の翻訳を読んだのですがチンプンカンプンで、大学三年生の時に原書と突き合わせて読んで少しだけ分かったような気がしました。ちなみに、哲学では「意志」という言葉が使われますが、法律学では「意思」という言葉が使われますので注意してください。また、ホッブズについては福岡安都子『国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗―』(東京大学出版会、2008年)という大作が刊行されています。