さよなら、岡安先生
昨日はいろいろと事件があった一日であった。おそらく、新聞やテレビを観ているならば、日本全国の人が知っていると思いますが、昨日2012年12月7日午後5時20分前後に三陸沖を震源とする強い地震がありました。M7.3、震度5の久々に大きなもので、わたしが現在住んでいる部屋も非常に揺れました。このような地震が長引くために、わたしの住んでいる地方都市のインフラの復興が遅々として進まないわけです。
ところで、昨日は在宅研究日に当てているので一日自宅にいましたが、大学そのものは平常授業なので、午前11時頃にメールを確認してみました。この時期になると、喪中のハガキが届く時期なので、最初はメールを見たときに、数学教育の岡安…ご逝去のタイトルであったので、岡安先生の親御さんがお亡くなりになったのかなと思いました。しかし、総務の堀口さんの添付ファイルによると、岡安先生ご自身が12月6日に急逝されたということでビックリ。その前日は先に書き込んだように学部の教職員懇親会、つまり忘年会をやっていたので、まさかの急逝です。わたし自身は高校時代は理系クラスにいたので、友人も研究者になったのは大学の理学部や工学部の教員をやっている連中が多いので、社会科教育教室にいながら、数学科の先生たちとは懇意にさせてもらっていました。とくに、わたしが本務大学に赴任したときは、わたしの高校時代の親友のN氏と、大阪大学大学院の同僚であった川下さんがいたので、同年輩の少ない学部では懇意にさせてもらっていました。この川下さんが他大学に割譲されたとき、新規に採用されたのがまだ、40代前半の岡安先生でした。とにかく、東大出身なのに気取るところのない、人のよい、気さくな先生でした。この報に接して、パソコンで岡安先生のことを調べさせていただきましたが、研究業績もさることながら、学生や教員免許更新講習の受講者からも評価される分かりやすい、すばらしい講義をなされていたのですね。54才であるならば、まだまだ研究者として枯れる年齢ではないので、遣り残したことも多くあり、先生自身のみならず社会的な財産の損失であると思います。どのように社会的に大学教授は観られているかは分かりませんが、国立大学の独法化以降、教員の負担はおそろしいほど増えてきました。ある意味では、壮絶な戦死であったと言えるかもしれないです(その意味で、わたしはタレント教授は客寄せパンダであり、同業者としては見ていない)。土曜17時からお通夜、日曜11時半から告別式だそうですので、先生に薫陶を受けた教え子の方は最後のお別れに行ってください。本当は、先生は幾何がご専門だったので時間を見つけて、すぎもっちのアテナイの祭壇の話を伺いたいと思っていたのですが。岡安先生のご冥福をお祈りします。
さて地震があってから暫く、携帯電話やモバイルが作動しなかったのですが、携帯電話で開設した掲示板に教え子の大藤君からの書き込みがありました。このHPの感想なので、最後に若干内容を貼り付けてみます。「お久しぶりです。書き込みは久し振りになります。HP拝見いたしました。かなり練られた作りと驚きいります。配色はやはりドイツ国旗からとられたんですよね?見事に赤黒黄の三色で配色バランスも良かったです。」さすがに大藤君、HPの基調色はドイツの三色旗に沿って、選定したのを見抜いてくれたのだね。
2012.12.08に記す