コピーカード、院生費、行政法2、序を書き始める

2017年05月09日 13:43 5月9日(火曜日)

8時31分、中央食堂で以下のものを食べる。
 麦入りご飯S 86円
 朝ミール   260円








14時05分、カンフォーラでパスタランチ 594円を食べる。





15時06分、中央食堂で以下のものを食べる。
 林檎キャラメルケーキ 194円
 ジュース       86円


18時01分、なか卯で和風牛丼並小うどん冷やし 520円を食べる。


序 身分――法における垂直関係と、水平関係

法文化叢書第15巻編集担当 中野雅紀(茨城大学)


1.2015年11月に慶應義塾大学三田キャンパスで開催された法文化学会研究大会のテーマ「身分――法における垂直関係と、水平関係―」の成果を法文化叢書の一冊としてここに刊行する運びとなった。寄稿者の多くは報告者として当日演壇に立たれた方々であるが、本書にはそれにとどまらず、本来ならば開催校であったはずの私の本務校である茨城大学関係者、あるいは卒業生も含まれている。また当日報告された篠原永明氏が執筆を辞退されたことから、わたしの母校繋がりで後輩の木原淳氏および高崎理子氏にも原稿を投稿していただいた。法文化学会の設立の経緯から、この叢書の歴代の執筆者は一橋大学、慶應義塾大学、中央大学の出身者が大半を占めてきたのであるが、茨城大学関係者が本書に多く執筆しているのは、以上のような経緯があるからである。学会としての発展は、さまざまな大学の関係者から構成され、開かれたものであることが望ましい。その意味で、本大会間テーマに沿った一冊になったのではないかと自負するところである。いずれにせよ、本研究大会の内容が一冊の叢書として刊行されたのも、報告者・執筆者諸氏によるところであり、改めて編者としてこれらの諸氏に対して感謝する次第である。

2.さて、いま、「身分status」を問うことの意義とはなんであろうか。当然のことながら、それは封建的な身分社会を肯定し、社会における差別を公認することではない。むしろ、ヘイト、あるいはハラスメントによって必要以上に、学問的議論がしにくくなった「身分」を問い直すということである。特に、『少数者の権利』の中でゲオルグ・イェリネックも指摘しているように、「人権のプロトタイプは少数者の権利」であるとするならば、それに目をつぶることはできないだろう。むしろ、「黒歴史」を「黒歴史」として認め、そこから反省からその国家や社会で守られるべき「自由」や「権利」を評価すべきである。ヨーロッパ大陸で「信教の自由」が強調されるのは忌まわしい宗教戦争や魔女裁判といった黒歴史があったからであり、アメリカ合衆国で平等権が強調されるのは奴隷制度や、人種差別という黒歴史があったからであり、日本において憲法31条以下のデュー・プロセス条項がくどいほど詳細に規定されているのは、糾問主義に基づく刑事手続による人権侵害という黒歴史があったからである。実は、憲法を読めばその国の歴史がわかるのである。

 はなしを続けよう。開催校となった慶應義塾の祖である福澤諭吉は『学問のすゝめ』の中で、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」といった。また、『文明論之概略』の中で、彼は「フリイ・シチは自由なる市邑の義にて、その人民は即ち独立の市民なり」といっている。この考えの基礎には、アメリカの独立宣言からの影響が大きいことが知られている。であるとすれば、アメリカ独立宣言と、同時代に書かれたアベ・シェイエスの『第三身分とは何か』を連想することも、難しいことではない。では、シェイエスが否定しようとする身分制とは何か。それは、国家主権論を唱えたジャン・ボダンによれば、以下のようになろう。彼によれば、「国家とは、あまたの家に対する、またそれらに共通のものに対する、主権による正しい統治」である。ここに、フランス革命において「家父長権」を代表する「身分」の解体がすすめられた、と一般に解される。



 石川健治の優れた点は、近代国家が伝統的な中間団体を破壊・消去したことを根拠にして、伝統的な身分論の下で枢要な身分であったstatus familiaeを破砕し、基本権の再構築をはかるべきだと主張したことにある、と一般に評価されている。しかし、わたしが考えるに石川の力量はゲオルグ・イェリネックのStatusleheのStatusをあえて「地位」と訳さず、「身分」と訳したことにある。その石川ですら、その説明に際して「あえて言えば身分、身分というと若干余計なニュアンスを含みますので地位と訳されることが多いのですが」https://www.youtube.com/watch?v=-KHQHTabqvAと、ひとつ注意をいれなくてはならないことになってしまう。ある意味で、これは「身分」を問うことがひとつのタブーとなっていることを示しているのではなかろうか。

3.では、法律学において「身分」制について語る必要性はなくなったのか。そうではない。たとえば、民法における「親族・相続」はどうか。あるいは、刑法の「身分犯」はどうなのか。はたまた、憲法における「国家」と「社会」の分離の問題はどうなのか。「身分」はまだまだ論じつくされたてはいないのではないか。今回の研究大会では、「封建社会における北欧の商人の経済活動」、「プロイセンにおける軍人の地位」および「国家を過度に「敵視」する考えについての問題提起」をテーマに登壇してくれる若手の研究者が手を挙げてくれた。「第三身分とは何か?全てである!」であるとするならば、「商人」、「軍人」あるいは「国家」の「位置」づけの問題は欠かせないであろう。このような順序で本研究大会における四つの報告は好評のうちに行われ、つつがなく終了したのである。

4.実は、大会において明確にしなかったのであるが、私は日本の職人文化のことも考えていたのである。日本の歴史に身分差別がなかったとは言えないが、しかし一方で日本にはドイツのマイスター制と同じような職人を尊重するという歴史がある。その証左として、以下に写真を挙げるような「職人尽くし」絵がいくつも存在している。このような職人技が尊ばれる社会であった日本においては、一方においては「職業に貴賤なし」ということばが、本当に妥当する社会であったのではないか。そのような側面からも、「身分」や「職能」も考えてみたくなった。