フランス革命史観についての一考察

2013年01月18日 21:52

文責 茨城大学准教授 中野雅紀

Ⅰ. おそらく、法律学的観点から純理論的に考察した場合において石川健治の理解は正しい。しかし、現実の歴史は常に理性(合理)的であるとは限らない。以下、わたしの理解するフランス革命史研究を概略する。

Ⅱ. まず、いち早くAncien régimeとフランス革命の関係を論じたE・バークは『フランス革命に関する省察』(1790年刊)においてフランス革命とイギリス名誉革命の類似性を否定し、そのためにフランスの新しい制度と不当にもそのモデルの一つとされたイギリスの諸制度を対比させることを試みた。彼によれば、イギリス人は過去から継承してきたさまざまな制度を信頼してきたのに、フランス人はフランス革命によって本質的に健全で正常であった一つの国家、社会、宗教的権威を破壊してしまった。なるほど、旧体制の改革の必要はあったかもしれないが、それを破壊してしまうことはなかった。当初、フランスでのバークの評価は、ド・メーストルやボナールはバークの著作を読み、その著作の力に敬意を表しながらも、摂理史観あるいは本質的に反動的な有機体論的な神権政治、Ancien régimeへの憧憬やあらゆる刻印、理想化された絶対主義という彼らの教理の本質的な点で、彼と根本的な合致を見なかった。19世紀になって、H・テーヌがバークのフランス革命の抽象的理念主義と形而上学を対立させ『現代フランスの起源』に意味を与える、政治的または社会的な自然主義の確認を彼に見出すまで時間がかかった(F・フュレ、M・オズーフ・河野他監訳『フランス革命辞典2』(みすず書房、1995年)1335頁)。いずれにせよ、バークのフランス革命批判論も、革命家もどちらの見解も1789年がフランス革命の歴史における本質的切断をなしているという推定に依拠している。

Ⅲ. Ancien régimeについての本格的な学問的研究は、A・トックヴィルによって物された『アンシャン・レジュームとフランス革命』(1856年刊)をもって開始された。まず、彼は復古王制期の自由主義歴史家よりも1789年の断絶を最小限に見ようとした点で先進的であった。彼によれば、「革命とは、フランス社会に長いこと以前から伏在していた多くの趨勢を、ただいっそう強め、完結させただけのものであった。近代社会の流れは不可避的に平等へと向かっている。……危険なのは、それによって専制政治への道や自由の破壊への道が開かれてしまうという当初点である。この危険は革命によって計り知れないほどに高まってしまった。革命は、自由を確立するどころか、自由が機能すべき制度の大半を一掃してしまい、それによって歯止めのきかないナポレオンの独裁への道を開いてしまった」。彼や同時代の自由主義者たちは19世紀フランスの諸悪の根源として非難していた中央集権体制は、すでにAncien régimeの基本的な特徴であった。しかし、同様にこのAncien régimeにおいては中央集権の機能に対する障害が存在していた。すなわち、中世においてはもっと完全であった自由が、Ancien régime下では残滓として存在し、特権とか、義務の免除、慣例による権利あるいは聖職者身分の法廷のような独立的な制度(中間的諸団体)という形をとっており、専制政治さえもそれらを完全に排除することに成功しなかった。この排除こそがまさにフランス革命の歴史的任務であり、革命の推進力、革命へと向う衝動という歴史そのものの推進力であったはずなのにである。もっとも、テーヌの『現代フランスの起源』(1875-93年刊)によればAncien régimeは自由の残滓ではなく秩序であり、有機体の成長の結実ということになるのだが、社会はそれぞれ独自の変遷の産物であるが、過去からの遺産を全体として放棄することはフランス革命で見られるような無秩序という不幸を招くことになる。テーヌもトックヴィルと同様にAncien régimeは多くの不正や不平等、非効率を内包しつつも、それは自然的成長であり、秩序が保たれていたとした。

Ⅳ. ここではあえて、ブルジョワ革命論を唱えるマルクス主義歴史家、G・ルフェーブル、レヴィジョニストあるいはポスト・レヴィジョニストの議論には立ち入らない。私見によれば、石川の身分の構造変換の理論的分析は極めて優れたものであると思っている。しかし、ではそれが革命当時に実際に実現されたのか、少なくともフランス革命前後の歴史的記述からは読み取れない。とは言え、後付の説明であるブルジョワ革命論を唱える上述の論者たちの議論を鵜呑みにすることはできない。特に、わが国ではルフェーブルの影響が大き過ぎる。少なくとも理解できたのは、上述のバーク、トックヴィル及びテーヌにおいてはいわゆる社会の最小単位とされる「家族」の問題は重要視されていなかったということである。 

                                                                                  ―以上―

                                                                                                  2013.1.18