ラーメンと愛国
5月13日の備忘録。
先週の金曜日から読み出した、速水健朗『ラーメンと愛国』を読破する。この本の面白さは、ラーメンを通じて吉見俊哉ばりの日本都市文化論を展開しているところである。ただし、このブログにおいては小麦粉食がアメリカの経済戦略として日本に入ってくるまでの「日本人は、一人あたり年間140キログラムの米を食べていた」(p.46)ということと、ラーメンは拉麺にあらずして日本の「国民食」となっていることの指摘のみを書いておくことにしよう。その証拠として、札幌ラーメンと博多ラーメンはそれぞれ別ルートで日本に伝わり、別々の進化を遂げ、日本に復帰が遅れた沖縄では「沖縄そば」という名前のままでいたことがあげられる(第四章)。若干、論点が広がりすぎた感じがしないわけではないが、ラーメンに疎いわたしにとってはなかなか面白い新書であった。
当然のことながら、この新書ではいわゆる「二郎系ラーメン」のことが書かれている。「二郎はラーメンではない」というのは、わたしが慶応義塾大学に内地留学していたときにO君などから聴いていたが、あれから8年たった今、さらに二郎人気が高まっているようである。わたしは、O君に誘われて内地留学期間の最後の一週間になったときに二郎三田本店でラーメンではない、二郎を食したのであるが、これは決して美味しいものではない。茂木健一郎がどこかで言っていたが、二郎を食べることはこの決して美味くないてんこ盛りの二郎なる食べ物を克服したという満足感にあるのである。ちなみに、O君の師匠の小山氏に聴いたのであるが、彼は研究会の二郎係、すなわち「鍋二郎」であったそうである。これもまた、昔の話になってしまった。
午後2時40分より、共11教室にて「現代人権論/日本国憲法」の講義をおこなう。前半は「エリザベス ゴールデン・エイジ」の残りの部分を学生に鑑賞させて、後半の40分間で第5講の「国民主権」について説明をおこなう。まず、主権とは「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権限が誰に帰属するのか」ということを覚えてもらい、それに基づいてデモス、アリスト、テオス、モナルコがくっつくことで「国民主権」、「貴族政治」、「神権政治」、「君主主権」になることを解説した。次に、間接民主制と直接民主制の間には原則-例外関係があり、その理由として物理的制約と能力的限界があることを解説した。そして、国民主権下においては君主との距離ではなく、国民との委任関係の距離が問題になることを理解してもらい、そこでは国会が国政の最高機関になるとして、立法の説明をしようとしたところでチャイムが鳴った。
夕食を生協食堂でとり、午後9時まで西原理恵子『毎日かあさん カニ母編』を読んでから帰宅。
自宅に帰宅後、藤田和日郎『月光条例』22巻を読んで、ネットサーフィンをした後に就寝。