佐藤賢一『小説 フランス革命』
1月3日の備忘録。
お年賀も三日目は配達がないそうなので、佐藤賢一『小説 フランス革命』Ⅶ~Ⅸ巻までを読み始める。ところで、この小説との出会いはわたしが二年前大病して退院した後、今のマンションに引っ越すまでホテル住まいをしていたのであるが、本務大学の配慮から後期はほとんど講義を休講にせざるをえず、することがなったので読み始めたものである(御喋り好きなので、講義が出来ないのは苦痛であった)。ただし、いつものことながらアマゾンで本を購入すると既に購読済みの巻も重複購入してしまい、年末届いた『小説 フランス革命』ではⅥ巻をまた買ってしまった。したがって、Ⅵ巻は流し読みでむしろ巻末の参考文献のところを見てみた。すると、午前中にメールしてきた教え子に対するわたしのレス・メールと共通するところ多かったので、以下、その部分を書き込むことにしたい。
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大藤君へ
了解しました。但し、研究史から見直すとなると、これは法解釈学者の立場から言わせてもらうと「方法論」の見直しということになり、それで学位論文を書くことが可能かという問題になってきます。例えば、フランス革命史であればバークを嚆矢として、ルフェーブル、ソブール、ミシュレの左翼的な革命史観を経て、近時、アメリカのW.ドイルらを中心とした、従来の革命史観から見れば保守反動的な史観ーアンシャン・レジューム肯定論ーまでの多くのバリエーションのうち改めて、どの史観を選択するのかということではないかね。君なら知っていると思うが、フランス革命の見直しからI.バーリンに批判されたJ.ド・メストールらの保守的なフランス革命批判が再評価されてきている。ある意味では、遅塚先生の「フランス革命劇薬論」は古い学説ということになりつつある。このような流れが、君の研究対象におけるドイツ・プロイセン史研究や第二帝政史にあるのかどうか。当然、ドイツではSPD史観が入るから、そこのところも注意しなければならない。それならば、M.ヴェーバーの身分論を読み直した方がよくないのだろうか。以上、専門家ではない立場から野次馬的な意見を書いてしまいました。しかし、遅塚先生も鬼籍に入り岡田与好先生や柴田三千夫先生もいまの学生では名前も知らないのではないかなどとと思いつつ、メールのチェックで学生らのレスを読みながら君のメールへの感想を書いているところである。実際、一回書き始めると長文になってしまうな~。現在、年賀状書きを終えて佐藤賢一『小説 フランス革命』ⅦからⅨまで読んでいるところ。それでは、大藤君の健闘をお祈りします。
茨城大学 中野 雅紀より
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このレスからも分かるように、佐藤氏とわたしの年齢が近いこともあり、フランス革命についての読んだ文献がほとんど同じであるということである。
小説の内容は、Ⅶ巻はロラン婦人のサロンの話からはじまり、のっけからオランプ・ドゥ・グージュの「女性の権利宣言」(1791 年)、能動的市民と受動的市民、生存権の話に入ってくるので、これは国法学者としては非常に面白い。また、ここでのルイ16世の描かれ方もステレオタイプな暗愚な君主というよりも、したたかな一面をもった人物とし描写しているところがよい。これがⅧ巻になると国王裁判に急展開するのだからフランス革命は稀に見る激流の時代であることが分かる。ま~、今年最初の個人的な仕事と関係ない読書として本書を選んだのは正解かなと思っている。