『国法学講義ノート』第3講

2013年01月10日 14:30

第3講 日本国憲法の三大原則―国民主権と平和主義―

                    茨城大学教育学部准教授 中野 雅紀

 

 

はじめに

 

 第2講で、日本国憲法の三大原則の序列について説明しました。そこで、わたしはカントの理論を援用して「目的と手段」の関係から①国民主権主義、②基本的人権の尊重主義そして③平和主義の順番に並べるのが妥当ではないかと説明しました(みなさんに考える機会を与えるため、敢えて①と②の順番についての説明は理由しました)。それでは、日本国憲法の三大原理の一番目に挙げた「国民主権」とはいかなるものであるのでしょうか?本講においては、この「国民主権」の説明をメインにして権力分立制と基本的人権が密接不可分の関係にあることを説明していきたいと思います。

 

1. 「国民主権」とは?

 

 まず、最初に主権の定義をしておきましょう。一般に主権とは「国家の意思や政治のあり方を最終的に決定する権利で、領土・国民とともに国家の三要素をなす。……最初に主権論を体系的に主張したのは、フランス人のボーダン(Jean Bodin 1530∼96)で、彼は国王の権力が最高の権力であり、不可分・不可譲であるとの君主主権を展開、君主国家の理論的裏づけを行うという役割を果たしたのである」と言われています

https://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennppoukokuminnsyukenn.htm)。

ジャン・ボーダン(1530~1596年)

 

 しかし、ここでは最初に思考経済を考えて主権の定義を覚えてください。つまり、主権論とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力の所在がだれに帰属するのか」という理論のことです。したがって、この定義に従えば「国民主権」とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは国民」ということになります。また、上記で引用したボーダンの説く君主主権とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは君主」ということになります。くどいようですが、このように定義していくとアリストクラシー(貴族政治)とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは貴族」ということになります。このように、主権の定義を覚えていればあとは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは○○」であるという定義の○○に国民、君主および貴族といった言葉を代入するだけということになります。ところで、これに加えて二つ以上の主権の担い手を採用する「混成政体」も存在しますが、わが国は憲法の前文及び第1条によって国民主権を採用しているので国民主権だけを覚えておけばいいことになります。まさに、「国民こそが政治の主役」であると言われる所以(ゆえん)です。

 

 このように言うと、わが国は天皇制を採用しているのではないかという反論が出てくるかもしれません。しかし、憲法第1条をよく読んでみてください。

 

第1条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

 この条文の重要な部分はいうまでもなく前段ではなく、後段の部分です。つまり、戦前の日本の主権者であった天皇も「現在の主権者たる日本国民の総意」に基づいて根拠を有している「象徴」に過ぎないということです。わたしは装置としての天皇制支持論者ですが、もし将来憲法が改正され天皇及び皇室制度が「主権者たる国民の総意」を失い、憲法典および皇室典範から排除されるようなことになったとするならば、その場合には残念なことですが天皇制は廃止され、完全な国民主権制に移行することになるでしょう。反対に言うならば、ナポレオンの皇帝就任やヒトラーへの全権受任に見られるような、国民主権に基づいて国民自身が国民主権を放棄して、君主主権に変更するという自殺行為は、憲法改正権の限界と抵触し理論的に不可能です[1]

 

2.間接民主制と直接民主制

 

 ところで、国民主権は「デモクラシー」の名前で呼ぶ方が正確でしょう。しかし、みなさんもご存知のようにデモクラシーには「直接デモクラシー(民主制)」と「間接デモクラシー(民主制)」が存在し、わが国は原則として「間接デモクラシー」を原則とし、それを補完するかたちで「直接デモクラシー」を採用しています。具体的には、以下のように分類することができるでしょう。

 

(1)間接民主制(議会制民主主義=間接的参政権)には、

①国会議員(衆・参両議院の議員)の選挙

②地方自治体の首長(都道府県知事と市町村〔特別区〕長)の選挙と、地方議会(都道府県議会と市町村〔特別区〕議会)の議員の選挙の2種類があります。

 

(2)直接民主制(直接的参政権)には、

①地方議会(都道府県議会と市町村議会)の解散や議員の解職要求の直接投票

②地方の特別法制定に関する住民投票

③最高裁判所の裁判官に対する罷免(ひめん)の国民審査

④憲法改正の国民投票

⑤住民投票条例制定による住民投票(住民投票一覧)の5種類があります。

参照(https://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennppoukokuminnsyukenn.htm)。

 

 しかし、国民主権が前述のように「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは国民」であるとするならば、「直接デモクラシー」が原則で「間接デモクラシー」こそが、それを補完するものではないかという疑問が生じるかもしれません。この問題についてはフランス革命期(1789年〜)以来、「ナシオン(国民)主権」説と「プープル(人民)主権」説の間で激しい論争が行われてきたところですが、一般教養の「日本国憲法」の講義でそこまで説明することは憚(はばか)られますので、以下の二点から日本国憲法は原則的には「間接デモクラシー」を採用するしかなかったということを説明したいと思います。

 

*ただし、わが国は「プープル主権」ではなく、「ナシオン主権」を採用したと考えるべきだと思います。というのは、以下の理由からです。一般にプープル主権の主張は「主権者は、社会契約参加者=成年者の総体(人民)であり、人民は国家の意思決定に参加する固有の権利を持つばかりでなく、国家意思の決定には全人民の参加が不可欠」とするのですが、後述のように「物理的制約の側面」と「政治的判断能力の側面」から全人民の政治参加は現実的には不可能です。そのために、ルソーなどは仮想の「一般意思」を想定してそれを全国民の意思とするわけですが、この存在が確かではなく、また確定も困難な「一般意思」を濫用して為政者が独裁を行ったことは枚挙する暇がありません(例えば、ジャコバン独裁による恐怖政治を思い出してください。ジャコバン独裁政治体制下のロベスピエールとダントンの思想的対立を鋭く描き出した映画として、アンジェ・ワイダ監督の『ダントン』がお勧めです)

https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=14359#COMMENT

 

 第一に、直接民主制の起源となった古代ギリシャの都市国家、特にアテネと比べてわが国の国民の人口が比較にならないほど多いということが挙げられます。つまり、アテネというような都市国家(ポリス)において人口はたかだか数万人単位であり、また女、子供そして奴隷には投票権が与えられていないので「アゴラ αγορά」というトポスで有権者が一堂に会して国家の政治の在り方を最終的に決定することができるのです。すなわち、市民=政治に直接参加する国民と単純に割り切ることができるのです。しかし、日本は1億2500万人以上の人間がいます。そして、後で述べるように「定住外国人」の問題はありますが、まさか奴隷制度を採用するわけにもいきませんし、女性と子供は国民ではないと言うこともできません(憲法14条・24条)。では、これらの国民を古代ギリシャの都市国家のように一同に会せるような施設があるのでしようか。東京ドームでも5万5千人の集客能力しかないのです、このように考えるならばまず物理的に不可能なことが理解できると思います。このように言うと、現代っ子のみなさんはインターネット投票やテレゴング投票で決めればいいと言うかもしれませんが、本当にそれで大丈夫でしょうか?集計の途中に恣意的な操作がなされたり、自分が少数派に転落することを恐れてテレビ画面に写る統計の多数派に雪崩をうったように駆け込み投票する人が後を断たないのではないでしょうか?たとえば、戦前ナチス・ドイツの快進撃を見て、政治家や軍部のみならず国民までもが「バスに乗り遅れるな!」とばかり第二次世界大戦に突入していった歴史を思い出す必要があるでしょう。

 

 第二に、1億2千万人のなかには政治的判断を行うだけの能力を持っていない国民がいます。例えば、「サザエさん」のタラちゃんとイクラちゃんを考えてみてください

https://www.fujitv.co.jp/b_hp/sazaesan/)。

 

 古代ギリシャの都市国家ではないので、わが国ではタラちゃんもイクラちゃんも日本国民であることは否定されません。しかしながら考えてみてください、タラちゃんに「日本国憲法改正の投票権」を与えてもその意味が分かるしょうか?もし、小泉純一郎内閣総理大臣がタラちゃんにお菓子を与えて、「タラちゃん、このペロペロ・キャンディーをあげるから今度の憲法改正の投票用紙に○を付けてよ」というと、タラちゃんは「いいでシュ」と言っていいなりになるのではないでしょうか?あるいは、シスプリの亞里亜なら小泉氏が「兄やがいっているから、○をつけてね」と言えば考えもなしに、「亞里亜も、兄やと一緒に○を付ける……」と言ってなんの疑いも持たずに憲法改正の投票用紙に○を付けてしまいそうですね(https://www.tenhiro.net/)。すなわち、主権の行使にはそれなりの判断能力が必要とされるのです。さらにタラちゃんよりも幼児のイクラちゃんならどうなるのでしょうか?みなさんもご存知のように、イクラちゃんは「はーい」、「ぱぷー」そして「ちゃーん」の三語しかしゃべれません。このような幼児のために、公職選挙法を改正して字の書けない幼児には聞き取りで投票を認めるとしたらどうなるでしょうか?イクラちゃんに「日本国憲法改正の投票権」を与えて、「はーい」と言った場合には「イエス」と答えたと解釈することが出来ますが、「ぱぷー」あるいは「ちゃーん」と答えた場合、それはどのように解釈することが出来るのでしょうか?おそらく、それは「死票」とカウントされることになるでしょう。では、みなさんに政治参加が認められるのはなぜかと言えば、それは高校を卒業した段階でそれなりの社会的経験を積み、ちゃんとした政治的判断ができるからと見なされているからです。政治家を批判できる自由がなければその国家は独裁国家であり、デモクラシー国家ではないということになります。そのことらからすると、年々国政選挙や地方自治体の選挙において投票者が減少傾向を見せているのは嘆かわしいことです。

 

 以上のことから、わが国は物理的制約の側面と政治的判断能力の側面から代表民主制というかたちの間接デモクラシーを採用しています。しかし、一方では間接デモクラシーに直接デモクラシー的契機をあらたに組み込もうとしている学説もあります(例えば、国会議員の解職(リコール)請求権(せいきゅうけん)や国民による法律案提出権の導入などが挙げられています)。

 

3.憲法41条の規定する「国会は国権の最高機関である」という意味—あるいは、三権の序列について—

 

 まず、ここでは第一講で説明したように日本国憲法の三大原則は①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義であったということを思い出してください。そして、わが国は前述のように間接デモクラシーを原則とする国民主権を採用するために、国民が国政選挙で選んだ国会議員から構成される国会が「国権の最高機関」であるということを理解してください。すなわち、国民との近さから①国会、②内閣および③裁判所であり、この順番は絶対に間違えてはいけません。このことを深く理解するためには、旧憲法の下では天皇主権であったことから、国民との近さとは関係なく天皇との近さから序列が付けられていたことを考えてみてください。たとえば、元老院や枢密院はいまの三権分立制度のどこに分類されるのか疑問です。しかし、主権というものが「国の政治のあり方を最終的に決定できる権力」のことを言うならば、天皇主権から国民主権に替わったとは「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権力を持つのは国民」ということになり、その代表者である国会議員から構成される国会が「国権の最高機関」(憲法41条)と言われることは容易に理解できるかと思います(いわゆる、これを民主的正当性の契機と呼びます)。

 

 しかしこのように説明するとみなさんのなかには、小さなころからテレビで

『大岡越前』(https://www.cal-net.co.jp/oooka/)

や『遠山の金さん』

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%87%91%E3%81%95%E3%82%93)

を見慣れているので、なるほど国会はデブや禿のおじさんやおばさんの国会議員から構成されていたとしても、われわれが選んだ代表者だから「国権の最高機関」だということは理解できるが、なんで「悪代官」

(https://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20020405/gae.htm)の末裔である官僚から構成される内閣が正義の執行者である大岡越前や遠山の金さんの末裔より上位に来るのか分からないと言う学生さんがいても不思議ではありません。しかしよく考えてみてください、わが国は議院内閣制度を採用することによって間接的ではあれ国民が官僚を統制しているのです。一般に、「議院内閣制は行政を担当する内閣が民主政治によって選出された構成員による議会によって形成され、その存立が議会に依存する制度」とされています(https://pol.cside4.jp/theory/5.htm)。具体的には、日本国憲法は1.内閣総理大臣は国会議員の中から国会によって指名(第67条)、2.国務大臣の過半数は国会議員でなければならない(68条)、3.内閣は国会に対して連帯責任を負う(第66条)、4.内閣は衆議院の信任が必要(第69・70・71条)、5.内閣は国民の審判が必要と判断したとき衆議院を解散できる(第7条3項)とすることで、キャリア官僚の首根っこを押さえつけているのです。すなわち、エリート官僚の出世の最高ポストは事務次官ですが、その上に各省の大臣、副大臣、政務官が位置するのです。このように、間接的ではあれ議院内閣制度を採用しているので、われわれが官僚を統制しているということになり、国会の次に内閣が位置付けられるのです。

 では、どうして裁判所が三権のなかで一番最後に位置付けられるのかは簡単に理解できますよね?それは、裁判所は司法試験を合格し、司法修習で優秀な成績を修めた裁判官から構成されているからです。すなわち、われわれ国民は裁判官を任命することもなければ、罷免することもできないのです。言い換えるならば、裁判官ほど国民主権、あるいは国民から遠い存在はいないわけです。

 

なるほど、

79により 

1 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。


2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。


3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。


4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。


5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。


6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。

 

と規定されており、最高裁判所判事の国民審査を制度化しています

(https://roppou.aichi-u.ac.jp/joubun/s22-136.htm)。しかし戦後50数年の歴史においてこの国民審査で罷免された判事は一人もおらず、事実上は最高裁判所判事任命の国民の「追認」投票であると揶揄(やゆ)されています。そんな中で、裁判所の民主化、すなわち国民参加という要請から生まれたのが「裁判員制度」です

https://www.moj.go.jp/SAIBANIN/)。

*ところで、国会の仕事とはなんでしょうか?国会は「立法府」です。ということは、国家機関の中で法律を作ることが出来るのは国会だけということになります。さらに、法律を作ると言ってもその法律とはいかなるものかみなさんは説明できますか?そこで、法律の定義の問題について説明したいと思います。まず法律を定義するに際して、法律を①形式的法律と②実質的法律に分けてください。それでは、形式的法律から説明しますと「国会が作った法規」ということになります。これは、当たり前なのでこれ以上説明する必要はないでしょう。では、「実質的法律」とはなにかといえば、―これは複雑ですので面倒でも覚えてください―「国民の権利・自由を拡張したり、あるいは国民の権利・自由を制約する、具体的にはあたらしい義務を課す法規」ということになります。われわれは、この二つの条件を満たしたものを「法律」と呼んでいるのです。

 

 さて、国会が作った「法律」を執行するのが内閣です。では、みなさんは内閣、つまり行政府の仕事とはいかなるものであるのか説明することができます?道路建設、上下水道の整備、ごみ処理、警察、各種の社会保障、はたまた自衛隊の海外派遣、なんども失敗するロケット打ち上げなど行政府の仕事は数限りなくあります。昔は、それでもこの行政府の行う仕事=行政を積極的に定義しようとした学者がいましたが、いまは以下のような消極的な定義づけで学説は我慢しています。そもそも、科学技術が進展しそれに対応するために内閣の仕事が拡大する以上、かりに行政の定義ができても数年しかその定義は持ちこたえることは出来ないでしょう。そこで、現在は行政=全国家権力立法−司法という控除説が通説・判例になっています。なるほど、この定義では「行政」自体は積極的に定義はされていませんが、絶対王政から権力を国民に移譲してきた過程を明確に説明するのに便利ですし、また行政が「ごみ処理からロケット打ち上げまで」という幅広い活動を行っていることを明確にしてくれています。反対に言えば、立法は法律を作ることですし、司法は公正な第三者が具体的な事件を通じて、原告および被告の主張・立証の言い分を聞きつつ、法律を適用して事件を解決するということに変更は考えられないですから、その他のものは内閣のお仕事とするわけです。

 

 次に、内閣と国会の関係を見てみることにしましょう。一般に、国会と内閣の結びつきは①イギリス型の国会と内閣の結合の強い「議院内閣制」と②アメリカ型の国会と内閣が厳格に分離された「大統領制」の二つに分けられています。言うまでもなく、わが国はイギリス型の議院内閣制を採用しています。すなわち、国会の最大与党の党首が内閣総理大臣となり、内閣を構成する閣僚の過半数以上を国会議員から任命しなくてはならないからです。これに比べて、アメリカ型の大統領制はずいぶんと違いますよね。まず、大統領は大統領選挙で選ばれますし、また閣僚は大統領の専権で決まっています。さて、議院内閣制の最大のメリットは前述のように官僚の首根っこを国民の代表が押さえ込むということに尽きるでしょう。つまり、各省内でキャリア・エリート官僚の就ける最高の地位は事務次官ですが、その上にわれわれの代表である国会議員から各省大臣、副大臣および政務官が就くのです。そうすることによって、試験で選ばれたのであって、われわれが選挙で選んだわけでもまたリコールも出来ない官僚に間接的ではありますが民主的コントロールを加えることができるのです。

 

 最後に、議院内閣制をそのままにして、首相公選制を導入することは果たして可能でしょうか?たとえば、安倍信三首相が「自分は大統領のように国民に選ばれた総理になりたい」と言ったとき、それを認めてしまっていいのでしょうか?その場合に生じるであろう、危険性についてはこの講義の中で詳しく説明したと思いますので、もう一度自分なりに考えてみてください(https://www.polib.net/shushokosen/)。

 

*最後に、国会が作った「法律」が「憲法」に違反していないか、あるいは国会が作った「法律」を執行する内閣の行為が「法律」に違反しているのかどうかをチェックするのが裁判所です。このことからも理解できるように、裁判所は他の国家権力に比べて受動的な機関であることが理解できます。裁判所及び司法権の説明は、このあと基本的人権の判例を紹介・解説する際にたびたび言及することになると思いますのでここでは佐藤幸治先生の司法権概念を引用するだけにとどめておくことにします。「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するという、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である」(『憲法 第3版』(青林書院、平成7年)、295頁以下。(司法制度改革推進委員座長を務めた佐藤先生の意見が反映されてか、裁判員制度には「理をつくして真剣に争う」という理念が随所に見られます。以下を参照してください。

(https://www.gov-online.go.jp/pdf/cabinet/20031201/cabinet_18_21.pdf)

 

 以上のように、国会が法律を作り、内閣がその法律を執行し、最後に裁判所がそこから発生した紛争を解決するというプロセスが存在することを理解する必要があります。いずれにせよ、日本国憲法の三大原則の第一原則たる国民主権主義から三権の序列だけは国会、内閣そして裁判所という順番だけは間違えてはいけないということだけは分かってもらえたと思います。

 

4.『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」の意味いわゆる「ジャイアン」理論について

 

 意外に思うかもしれませんが、優れた指導者がいれば独裁制の方が民主制よりも効率がよく、場合によっては民主制よりも国民全体にとって利益になることもあります。なぜならば、プラトンが『国家』のなかで説く、哲人政治家が統治する国家においては哲人が優れた法律を作り、哲人がその法律を直ちに執行しそして、もしなんらかの問題が発生したら哲人が直ちにそれを解決してしまうからです。それに比べると多くの場合、権力を三つに分断し、しかも互いに抑制と均衡の関係に置くという権力分立制を採用する民主制は非効率このうえないものです。しかも、民意が成熟していなければそれは「衆愚政治」と化す危険性も指摘されています。しかし、わが国は国民主権を採用し、あきらかに『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」という近代憲法の精神に倣って三権分立(ぶんりゅう)を採用しています。では、なにゆえに国家権力を一つの機関に集中させないのか、ということから説明していきましょう。それは簡単で、独裁者に権力を全面委譲してしまうと、もしその政治家が誤った法律を作ったり、その法律の執行を誤ったり、そこから発生した紛争を公正に裁けなかったとき、独裁者に苦言を呈するものがいなくなってしまうからです。また、国家と個人の力量の差を考えてもらったらいいでしょう。独裁国家が悪政を行ったとき、個人がそれを糺(ただす)すことが出来ず、返って反乱として抹殺されてしまう危険性があるからです。前節でも説明したように、現代国家は「ごみ処理からロケット打ち上げまで」という幅広い活動を行う権限を有しています。そこには当然、軍隊と警察が入っていることは言うに及びません。独裁は効率がよいが、われわれはその効率性よりも個人の自律性空間の確保を選んだわけです。

 

 では、なぜ『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」ということになるのでしょうか?なるほど、日本国憲法の三大原則の第二原則は「基本的人権の尊重」ですから「権利の保障が確保され」ていなければ、もはやそれは日本国憲法の体を成していないということになります。しかし、「権利の保障」と「権力分立」が直結するのでしょうか?そこでここで、ドラえもんのいないのび太君を想定してみましょう(https://www.dora-world.com/)。しかもこの世界ではドラえもんはいないのですが、ジャイアン、スネオおよび出来杉は存在し、ジャイアンの号令一家の下にのび太は「のび太のくせに生意気だ!」という理由になっていない理屈で毎日百発づつ殴られていたとしましょう(ところで、「のび太のくせに生意気だ!」という台詞はのび太の人格を無視した問題発言です。「メガネをかけているから生意気だ!」と言うのならば、のび太はコンタクトにしたりして改善することができますが、「のび太のくせに生意気だ!」と言われてしまえばのび太はのび太以外のなにものかに成らなければならないことになります。しかし、そんなことは不可能なのでジャイアン達は暗にのび太に「死ね!」と言っているわけです)。そこで、腕力の強いジャイアンは「内閣」ということにしましょう。お金持ちで小ずるいスネオは「国会」ということにしましょう。お勉強のできる出来杉は「裁判所」ということにしましょう。この三人が徒党を組んでのび太であるみなさんを毎日殴るだの蹴るだのしたい放題を行ったならば、みなさんは「これじゃ生き地獄だ、サヨウナラ」と遺書を書いて自殺すると思います。すなわち、強大な力を持つ、この三人の「いじめっ子集団」が「国家」てあり、この「国家」に弾圧されるのが「弱い存在である国民」であるみなさん達「のび太」なのです。では、みなさんはどのようにしてサバイバルを試みればいいのでしょうか?仮にわたしが遅ればせながら未来からやって来たドラえもんなら、「ジャイアンと、スネオと出来杉を仲違いさせるんだ」(大山のぶ代)と入れ知恵をするでしょう。たとえば、ジャイアンがスネオから借りたラジコン飛行機を返さないことを理由として、ジャイアンがのび太を「殴りに行こうぜ!」と言ってもスネオが「ラジコン飛行機を返さないならボクは行かない!」と言い出したら、おそらくジャイアンのことですから「言うことを聞かないならおまえも殴ってやる」と言ってスネオを何十発か殴るでしょう。これでだけでも、みなさん達「のび太」はスネオから殴られる分を回避することが出来ますし、スネオを殴った分だけジャイアンの体力が消耗しサバイバルの可能性が高くなります。あるいは、ジャイアンがあの下手くそなジャイアン・コンサートに無理やり出来杉を連れ出したため、ジャイアンがのび太を「殴りに行こうぜ!」と言っても出来杉が「ジャイアン・コンサートのため耳がおかしくなったからボクは行かない!」と言い出したら、おそらくジャイアンのことですから「言うことを聞かないならおまえも殴ってやる」と言って出来杉もまた同じように何十発か殴るでしょう。このようにして、みなさん達「のび太」はスネオおよび出来杉から殴られる分を回避するだけではなく、スネオと出来杉を殴った分だけジャイアンが体力を消耗し、もしかすると「今日は疲れたのび太を殴るのはやめた」と言うかもしれません。このようにして、弱者は強者を仲違いさせることによってサバイバルを計るのです。ローマ帝国の法諺に「分割して統治せよ」というものがあります。まさに、イタリア半島のギリシャ殖民都市に過ぎなかったローマが世界帝国へと発展した理由がここにあります。すなわち、みなさんが「強い人間観」を採用しない限り、「弱い個人」である国民は自らの生命・自由・プロパティーを守るために「強い国家権力」同士を仲違させ(「抑制と均衡」、あめいは「チェック・アンド・バランス」)ることが必要なのです。このことを端的に示してくれたのが、『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」という条文なのです。

 

 以上で、本講の「国民主権」についての解説を終了します。次回は、もう一つの日本国憲法の三大原則である「平和主義」について講義を行います。時間のある人は、「警察予備隊違憲訴訟」(https://www.geocities.co.jp/WallStreet/7956/han/han56.html)と「恵庭事件」(https://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg98x085.htm)を下調べしてくれると理解しやすくなると思います。



[1] 一般論として、国民主権と基本的人権の保障が改正の限界をなすことについては異論はないが、具体的に人権条項について見れば、そのすべてが改正不可能であると断定することはできないであろう。平和主義については、平和主義そのものと、憲法9条2項の非武装規定とを区別し、平和主義の立場を守りながらも、非武装規定は改正しうるとする多数説と、9条1項の戦争の永久放棄から2項の非武装規定まで改正不可能と解する説とに分かれている(芹沢斉「憲法改正行為の限界」『憲法の争点』329頁)。