大鑑巨砲主義
6月26日の備忘録。
午後2時40分から、法学演習の講義を開始する。
指定テキスト『カール・シュミット入門講義』の輪読で、今日はP.109-116まで読み進む。ペースはゆっくりだが、丹念に読解していこうと考えている。今日の問題は、「二項対立」の脱構築と「高次の第三者」およびスピノザとバークリーの思想読解である。ハッキリ言って、バークリーは原文で読んだ著作が一作もないので、<「存在しているこことEsse」は、私が「知覚するpercepi」と同じことである>という理解は十分ではない。ま~、知覚されるのは「観念」だから、バークリーが経験の蓄積によって形成された「観念」をわれわれが受動的に受容するということはなんとなく理解できる。しかし、これってヘーゲルに繋がるよりも、デカルトの「われ思うゆえに、われ在り」の延長ではないのか。さらに、バークレーの考えは知覚を受動的に捉え、観念→認識とするからいいものの、仮にそれが誤謬、すなわち認識→観念とするならば「私の認識できないものは観念として存在しない」という独我論に陥る危険性があるんじゃないか。それを回避するための安全装置として、西欧においては神を中心とする「高次の第三者」を持出さざるをえないように思う。わたし自身はテオジストなので問題はないが、そうでない多くの日本人にとって納得のいくものではないのでは。
(参考文献)
伊藤邦武『物語 哲学の歴史 自分と世界を考えるために 』(中公新書、2012年)p.154-158.
いずれにせよ、今回輪読してきた箇所は、話が入り組んでいて仲正氏やシュミットは博覧強記であるとは思うが、論の進め方としては議論が入り組みすぎてスパッと理解しにくい。もっとも、『政治的ロマン主義』も大久保訳しか読んでいないし、わたし自身の文章も入り組んだ内容だから、人のことはとやかく言うことはできないのであるが。
講義終了後に、盛況にて夜ランチでさんまメインの定職を食べる。
ニコニコ生放送で以下の番組を視聴する
庵野監督は艦隊ものの醍醐味は艦隊決戦にあると言っていたが、それについてはわたしも同感である。航空機に対して戦艦が無力であるということが判明したからこそ、フィクションの世界においてだけは現実的でない「大鑑巨砲主義」で戦艦と戦艦が砲撃戦を繰り広げてもらいたい。しかし、庵野さん、マイティー・ジャックをやりたいんだネ(アニメでか実写でかとの質問に対して、現在のCG技術では両者でやっていることはほぼ同じになるので、アニメで作りたいそうだ)。
(追記)
特別出演していた出渕裕監督によると、欧米の艦船マニアの間では日本の戦艦のゴチャゴチャした艦橋が美しくないという人が多いそうである。しかし、機能面面を度外視するならば、あの三本マストを改装のたびにゴチャゴチャしたものにデコレートしたところにこそ、そこはかとない造形美があり、そしてそれが日本の戦艦の雄姿を醸し出しているのである。このごろプラモデルは作らなくなったが、日本の戦艦が現在のフリゲート艦のような容姿であるならば作る気がしない。