天皇と統帥権について
5月10日(木曜日)
憲法学者 意向調査
読売新聞社は5月3日の憲法記念日を前に、憲法学者に対する意向調査を実施しました。調査対象は、憲法に関する重要判例を解説する専門誌「憲法判例百選」I・II第6版(有斐閣、2013年発行)の執筆者210人のうち、故人や連絡がつかなかった人を除く203人で、3月26日に質問・回答用紙を送付し、4月24日までに59人から回答(匿名を含む)を得ました。回答の概要は5月2日付読売新聞朝刊に、分析は5月10日発売の月刊誌「中央公論」6月号に、それぞれ掲載しています。ここでは、中央公論に掲載した回答の全文を紹介します。
【設問】
Q.憲法改正の是非に関する主な意見Q.自衛隊の合憲性に関する主な意見
Q.自衛隊は合憲という世論に対する主な意見
Q.自民党の「自衛隊」明記案に対する主な意見
Q.憲法改正の是非に関する主な意見
今の憲法を改正する方がよいと思われますか、改正しない方がよいと思われますか。また、その理由やご意見について、記入欄にお書き下さい。
1.改正する方がよい
確かに制定から70年以上経過しているがゆえに、現在において十分とは言えない箇所もある(憲法上の権利保障や国家組織の在り方において)。ただ、時代遅れであるから改正、というのではなく、もう少し細かく改正の必要な条文を検証していくことは重要だと考える。9条ばかりに焦点があてられるが、日本国憲法そのものの規範内容をしっかり認識・理解したうえでの改正論議は、現実に照らして柔軟かつ積極的に展開してもよいと思っている。
形式的意味の憲法も含めて法は現実(社会)を規制するための手段であり、目的それ自体ではない。日本国憲法の制定以来、戦後の日本社会が激変した以上、それに合わせて日本国憲法を改正するのは当然である。
日本国憲法と現実(社会)の間に大きなズレが存在するにもかかわらず、これまで日本国憲法が一字一句改正されてこなかったのは異常であり、この異常さがこれまで存続しえたのは、国会・内閣・裁判所などによる有権解釈によって日本国憲法と現実(社会)のズレが緩和されてきたからである。その結果、主権者である国民はこのズレを解消する作業から解放されてきたわけであるが、この事態ほど日本国憲法が立脚する国民主権の原理に反するものはない。
しかも、日本国憲法はそれ自体として決して完全なものではなく、戦後かなり早い時期からさまざまな欠陥が指摘されてきた(例えば、一読して意味不明の前文第1文や解散権の帰属主体に関する規定の欠如など)。以上のことから日本国憲法は改正しなければならないが、すべての改正に国民投票を要求する96条の改正手続には限界がある。
したがって、十全な改正を実現するためには改正手続の改正が必要であり、国民が直接介入することなく国会内部のみで完結する改正手続の導入が望まれる。すなわち、国民投票のための国会の発議の要件は衆参両議員の1/2の賛成としたうえで、国会内部のみでの改正についてはその2/3ないし3/4の賛成を必要とするとすべきである。ところが、改正手続の根幹にかかわるこのような改正手続の改正を理論的に正当化することは難しい(法律によって立法手続の根幹を改正することはできない)。
憲法の研究者としていえることはここまでであり、これ以上のことは主権者である国民の決断に拠るしかないであろう。
現行憲法は制定からかなりの期間を経ていて、そのなかで、見直すべきところや、追加すべきところも出てきている。例えば、近年問題となった臨時会の召集期限が条文上明示されていない問題(憲法53条)などは好例であろう。もっとも、憲法改正は、必要性と合理性があり、かつ大半の国民に異存のない事項から始めて行けばよいのであって、大いに疑義のある国家緊急権などを初めに提起しようなどというのは正常なことではない。
なお、憲法改正に関しては、日本国民は現在に至るまで主権を直接的に行使したことは一度もないという問題がある。現行憲法は明治憲法の手続によって制定されており国民投票は行われていない。憲法改正は、国民が主権を直接的に行使でき、また国民が自分たちが主権者であることを実感できる機会である。このような主権行使の経験を経ることで、国民主権という理念が本当に日本に根付く可能性がある。一方、国民が自律的・理性的に判断することを、心の中では恐れている為政者は、国民投票の際、全身全霊をかけて情報を操作し(印象操作という今の為政者がよく使う言葉もある)、世論を自分たちの都合の良い方向に誘導するであろう。このとき、日本国民が、どの程度、自ら正しい情報を把握し、真っ当な判断ができるかが問われるであろう。
一般的な改憲必要・不要の質問には意味がないと思うが、現行憲法は、〈1〉分量の少ない小さい憲法、〈2〉改憲経験がなく社会状況に対応していない憲法、〈3〉制定時に国民投票を経ていない憲法、という三つの客観的な特徴をもっており、上記の観点から現行憲法の規定を国民の承認を経て補充して、立憲民主主義をより充実させるという方向に向かうべきではないか。
「改憲=悪いもの」という考え方が強いが、必ずしもそうではない。現在の憲法や統治制度は唯一絶対的なものではなく、立憲民主主義を実現する制度構想は様々であり得る。日本の状況を踏まえて、どのような統治制度が望ましいかを常に考えて構想することが必要ではないか。フランスでは、1999年の憲法改正によって、10%台だった女性の下院議員の割合は2017年総選挙で約39%まで上昇した。
最初の1回だけでなく、5年~10年かけて、その都度テーマを決めて段階的に憲法の規定を拡充する方法をとるべき(地方分権改革、憲法裁判所、二院制改革など)。
2.改正しない方がよい
今、改正が必要と主張される根拠となっている問題については、今の憲法のもとで対応できると思いますし、人権保障や国際平和の確立のために有効な憲法だと考えています。
改憲について、それ自体を否定するつもりはないが、安倍総理・総裁が提案する改憲案については、まったく賛成できない。安倍首相は、施政方針演説では、繰り返し、人権と民主主義という普遍的価値を共有する国々との連携というような言い方をしてきているが、その首相自身が人権と民主主義を普遍的価値とする「立憲主義」についてどれだけ理解しているのか、疑わしく思う。
強行採決された特定秘密保護法や共謀罪法が、報道の自由や言論・表現の自由についてどれだけ暗い影を落としているか、ほとんど自覚がないし(国境なき記者団の報道の自由度ランキングで日本は22位から72位にランクを落としている)、従来政府が公式見解としてきた集団的自衛権の行使は違憲であるという立場を180度くつがえし、閣議決定により集団的自衛権の行使を容認したり、それに合わせて安保法制を強行採決したりしてきている。
また、憲法53条の規定に基づく臨時会の衆議院の4分の1以上の要求にも関わらず、臨時国会の召集を拒否しつづけ、その理由として法案の準備が整わないためとしていながら、臨時国会の召集をしたとたんに冒頭で衆議院の解散をするなどの挙に出たり、また、「民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」(公文書管理法)である公文書の不作成、改ざんや隠匿を繰り返したりするなど人権や民主主義を毀損する行動を積み重ねてきている。
自民党の2012年「日本国憲法改正草案」も同じで、国民に憲法遵守の義務を負わせるなど、およそ「立憲主義」について理解しているとは思えない。
そもそも憲法を守ろうという考え方がない人たちが、憲法を変えようということに、非常に違和感をもつ。憲法改正を論じる前提を欠いていると思う。
いまこの瞬間に改正する必要があるかどうかを尋ねる趣旨であると理解したうえで、回答すれば、「改正しない方がよい」と言える。
現在の日本において、憲法を改正しないと直ちに対応できないような事態は存在しない。憲法改正を推進する人たちも、党是であるとか、憲法学者が自衛隊を違憲と言っているからとか、長年の悲願であるとか、いろいろと説明がなされるが、国民生活において憲法を改正しないとできない具体的な施策があるのであれば、それを明示し、そのためには憲法を改正することが必要であることを弁明すべきである。少子高齢社会の到来、グローバル化の進展などなど、いまさら言うまでも、さまざまな要因で多くの政策的課題が山積している中で、憲法改正それ自体を目的とした議論に時間を費やすべきではない。
憲法改正は「重大事項」であることからすると、憲法改正はそれを必要とする十分な理由があり、それに関する必要かつ十分な情報が共有された上で、必要かつ十分な議論を経てはじめて議事日程に上ることである。一般的・抽象的に憲法改正の必要性を論じるのは適当ではない。
とくに憲法第9条について、「改憲」を党是に掲げながら、憲法改正の発議を行わず、いわゆる「解釈改憲」を繰り返し、日本の立憲主義・法治主義を危機に晒してきた自民党に改正を語る資格はないと考える。つまり、憲法改正という自己の主張を正面から提示せず、迂回させる形で押し通してきた欺瞞が事実としてある以上、その欺瞞は「改正後」にも、さらに続けて行かれかねない。自らの主張と合わないものは換骨奪胎し、それを自己の意図に合うように変更する、という過程を正当化することは、立憲主義そのものを破壊することであり、もはや憲法改正の議論ではない。すなわち、現在行われている議論は憲法改正の議論ではなく、憲法という制度の破壊と判断する。
日本国憲法の基本原理(国民主権、基本的人権の保障、平和主義)を発展させる憲法改正には賛成です。しかし、いま自民党など改憲党派が進めている改憲の方向性はそれとは正反対であり、到底賛成できません。
1789年のフランス人権宣言は憲法院の判例によって、少なくとも現行1958年フランス共和国憲法の下で法的効力を持つ規範として適用されており、その意味で憲法上の価値を有する法規範である。日本国憲法が「不磨の大典」でないことは言うまでもない以上、日本国憲法のテキスト全てが1789年人権宣言に等しい普遍性を獲得し、200年後も法的効力を有しているであろうと想像することは困難であろう。したがって、論理的には将来にわたって憲法改正がタブーであるとは考えられない。
回答者個人の考え方からすれば、「憲法改正」反対ではなく、「憲法改悪」阻止が妥当だと思われる。憲法第9条に代表される平和主義の原則、すなわち戦争を永久に放棄し、武力による解決を選択しないという方向性がフランス人権宣言の基本的人権と並ぶ普遍性を持ちうる日が来ないとは限らない。その可能性を「観念論」と否定することは「現実的」ではなかろう。それがあくまで可能性の問題であったとしても。
しかしながら、昨今の行政文書改竄や「存在しなかった」はずの日報の「発見」等、およそ国会、貴紙を含むマスメディア、および世論を欺かんばかりの、不誠実極まりない政府の対応が民主主義の根幹を掘り崩しうることは、貴紙も含めて指摘されているところであろう。例えば、3月30日の貴紙社説は、安倍首相に「失われた信頼を取り戻さなければ、政策遂行は、おぼつかない。首相は、指導力を発揮すべきだ」と妥当な注文を付けている。このような公文書に関わる不祥事が後を絶たない政権の下で、しかも、依然として信頼回復の実績が見られない現状で、最高規範である憲法改正に手を染めようとするのは、いかにも拙速の譏りを免れないであろうし、貴紙社説指摘のとおり、「政策遂行は、おぼつかない」と見ざるを得ないであろう。
Q.自衛隊の合憲性に関する主な意見
今の憲法のもとで、自衛隊の存在は、合憲だと思われますか、違憲だと思われますか。お考えに近いのはどちらでしょうか。また、その理由やご意見について、記入欄にお書き下さい。
1.合憲
自衛力の存在は現実に必要であり、また、自衛隊が合憲であるという解釈は可能であると考えます。
自衛のための必要最小限度の実力の保持さえ憲法違反だという解釈は合理的なのかという疑問がある。自衛のための必要最小限度の実力保持という枠の中で長期的に平和を確保しようとしたら自衛隊の存在は必要で、合憲と解釈するのが合理的だ。それが平和主義を実質的なものにすることになる。
例えば、絶対的な非武装という戦略をとると、かえって外敵を挑発するという考え方もできる。いくらでも干渉できると思われてしまうこと自体が緊張をもたらす可能性がある。(取材への回答)
国会は憲法を解釈する法的権限を与えられた機関(有権的憲法解釈機関)である。自衛隊は、その国会が制定した法律に基づいて存在している。国会による憲法解釈も対象として最終的に有権的憲法解釈を行うべき機関=最高裁判所が当該法律を違憲と判断していない以上、これを「違憲」と認識することは不能。(参考:藤田宙靖「覚え書き 集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」自治研究2016年2月号)
憲法9条にいう戦力とは、相対的概念である。それは、有効に現代における戦争を遂行するにたる武力をいうものと考える。武力とは、単に武器に代表される物的リソースに尽きるものではなく、それを有効に行使するにたる人的リソースを含む。そして、人的リソースには正面ばかりでなく、これを支えるリソースを含む。この定義に照らした場合、現状においては、三自衛隊のいずれもその水準に達していない。したがって、合憲と考えている。
2.違憲
世界有数の軍事力を備えていると評価されていることから考えると、自衛隊の軍事のレベルは「戦力」に該当すると考えざるを得ない。
専守防衛の枠内にある自衛隊であったとしても、憲法が戦力の保持を禁止している以上、自衛隊は違憲である。
自衛力の保持は合憲であるとの立場に立っても、今の自衛隊は専守防衛の枠を超えて集団的自衛権を行使することが許されていると安倍内閣が解釈している以上、今の自衛隊は、自衛力を超え戦力であるから、違憲である。
〈1〉自衛隊の存在の憲法適合性は、その任務・権限と無関係に議論することはできない。その点にふれない問題は、問題の出しかたが適切でない。
〈2〉現在の自衛隊の任務・権限で考えると、自衛隊は集団的自衛権まで含めた武力行使の権限を与えられており、それは憲法9条に違反する。武力による問題解決は、北朝鮮問題に見られるように、現在の国際環境のなかで不可能である。
自国に対する武力攻撃を防ぐための組織を有することが、すぐに違憲となるとは考えない。しかし、現状の自衛隊、とりわけ安保法制によって集団的自衛権行使の道をひらかれた自衛隊は、米軍と一体となって武力を行使することを予定しており、2項が保持を禁ずる戦力に当たると判断せざるを得ない。
まず、憲法9条2項の解釈として、同項により保持を禁じられる「戦力」とは、一切の軍事的実力を指すと解すべきであり、〈1〉仮に「自衛隊」が「自衛のための必要最小限度の実力」にとどまるとしても、憲法はその保持を許していないと考える。〈2〉仮に、政府解釈のごとく、「自衛のための必要最小限度の実力」は、9条2項が保持を禁じる「戦力」には該当しないと解するとしても、現在の「自衛隊」は、米軍などとともに海外で軍事行動をする軍事組織であるため、「自衛のための必要最小限度の実力」とは言えず、違憲と考えざるを得ない。
日本国憲法前文が平和的生存権を謳っているのは、平和を国家の安全保障という視点から考えるのではなく、個人の人権保障の問題と捉えていることを意味する。個人の自由と生存には、平和による裏づけが必要であるという認識に加え、国家の防衛という美名の下に、人々の命を犠牲にすることを否定する考え方が存在する。9条は、平和的生存権を保障するため、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を国家に課したものと解される。現行9条の下では、たとえ、武力攻撃を受けた場合でも、武力による自衛は認められていないという覚悟が求められる。したがって、武力による自衛を前提とする自衛隊の存在は、憲法に反すると考える。武力を持つことができないという前提に立った場合、外交努力等により、他国から攻撃されない、テロの標的にならない国づくりが必要とされていると理解している。
Q.自衛隊は合憲という世論に対する主な意見
自衛隊の存在は合憲だと思っている国民が多いことについて、ご意見をお書き下さい。
正しい認識だと思う。災害救助や海外での献身的な活動ぶりが信頼を勝ち得ているのだと思う。いかなる国家も国家である以上、自衛権は固有の権利として保持しており、憲法に書かねばならないと考えるのは誤りである。(当たり前のことは法文には書かれない。)この自衛権の行使のため自衛隊のような存在が必要だと考えることは健全な常識に属すると思う。ただし、ここでいう自衛権は個別的自衛権のことであり、国連憲章で創設された集団的自衛権とは異なる。多くの国民も自衛隊の存在を合憲と認め、必要と考えているであろうが、それは集団的自衛権を行使できる実力組織としてではないと考える。
既成の事実と厳しい国際環境から自衛隊を容認する気持ちは十分理解できる。しかし、国民の生命、自由等を守るための武装力の必要性と現在の自衛隊の現状を冷静に区分して熟議することが必要であろう。メディアには現状をあおるだけではなく、冷静なオピニオン・リーダーとしての役割を期待したい。
国民は、自衛隊が東日本大震災などの災害の場合に大変な活動をしているから合憲だとしているのではなく、北朝鮮のミサイルに備えたPAC3の配置やイージス・アショアの導入などのニュースを聞いても合憲だと考えています。これは、国家・国民の平和・安全が脅かされたときには、わが国が主権国として有する自衛権の行使としての必要な防衛行動をとることが憲法上当然許されていると考えていることを示しています。憲法9条があっても、それとは切り離して、こうした国家固有の自衛権は当然有していることとそのための一定の装備も持ち得ること、国家・国民を防衛する必要な行動をとることも受け入れているとみることができます。
この国家の自衛権は、砂川事件判決においても「これ(9条)によりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」とされており、9条の例外としてというものではなく9条とは別の次元で主権国として当然に有しているものです。今回の憲法改正により目指すものは、国民も自然に受け入れているこの国家の自衛権の行使を国民の期待する内容で十全に行使できるよう憲法上整理することにあると考えます。この十全な行使のためには憲法にどのような規定が必要となるのか議論し、改正することが国民の期待に応えることになるのではないかと考えます。
侵略戦争に大敗北した結果として、現行憲法が「戦力」を否定していることを踏まえたうえで、自衛隊について、憲法ではあえて明記せず、法律レベルで控えめな存立を認めるという選択の現実的で効果的な意義を認めている結果ではないか。国民の多くは意識していないかもしれないが、賢慮に満ちた健全な感覚といいたい。この「大人の判断」を理解できず、「欺瞞」としか感じない法哲学者やら何やらがいるのは実に嘆かわしい。9条削除論など、石川健治がいうように、子供じみた破壊衝動の表れとしか思えない。
自分の身を守るのは当然の権利です。国民は、政府が戦争をすることが国民の安全に危害を加える最大の問題だと考えたので9条を置きました。現在、専守防衛の自衛隊であれば国民に危害を加えるものではないというところまでは、国民のコンセンサスがあると思われます。
改憲の目的はアメリカの要請に従って、アメリカ軍のために動ける自衛隊にすることにあると思われますが、それは国民を危険に曝すというデメリットの方が大きいと思われます。憲法を維持した上でアメリカと交渉するのが、国民にとって一番安全な方策だと考えます。安保条約のもと、日本の主権が蹂躙されている問題を政府はまず解決すべきではないでしょうか。
私は、憲法の意味を決めるのは国民であると考えています。憲法を憲法たらしめているのは国民の憲法意識以外にありません。その意味で、多くの国民が自衛隊を合憲であると考えていることは重要だと考えます。これを私の先生(橋本公亘)のように「憲法の変遷」というか「生ける憲法(living constitution)」と呼ぶかはともかく、9条は自衛隊を許容していると考えるべきだと思います。
国民の多くが「合憲である」と思っている「自衛隊」とは、どのような任務をもつ「自衛隊」を考えているのでしょうか。たしかに、一連の安保法制によって「集団的自衛権」を付与される以前の「自衛隊」の存在については国民の間に一定のコンセンサスが存在することは否定できないと思います。しかし、安保法制の下での「自衛隊」についての国民のコンセンサスについてはさらに検討することが必要ではないかと考えます。逆にいえば、もし、安保法制の下の「自衛隊」についても多くの国民が合憲であると思っているのであれば、憲法改正の必要はないのではないでしょうか。
Q.自民党の「自衛隊」明記案に対する主な意見
憲法第9条について、戦争の放棄や戦力を持たないことなどを定めた今の条文は変えずに、自衛隊の根拠規定を明記する条文を追加することについて、お考えに近いのはどちらでしょうか。また、その理由やご意見について、記入欄にお書き下さい。
1.賛成
不毛な戦力論争に終止符を打つという点からすれば、2項の改正ということになるが、国家の安全保障に関する9条をいわば、わが国憲法の尊厳条項(the dignified clause)と解し、この理想宣言的な規定を踏まえつつ、現実に対応する実効条項(the efficient clause)として新たに9条の2を設け、そこに対外防衛を主たる任務とする実力組織である自衛隊を書き込むことにはそれなりに意義がある。ここらで戦後憲法体制の調整を図ってはどうか。
2.反対
「自衛隊の根拠規定」の書き方により、現在の自衛隊を合憲とするだけにとどまらず、集団的自衛権も無制約に行使できるようになる。また、武力行使の根拠規定により、日本国憲法は戦争をしうる憲法となり、もはや平和主義に立脚する憲法とはいえないものに変質するおそれがある。
1.自衛隊の根拠規定を置いても、自衛隊が戦力であるか否かの問題は残る。
2.自衛隊が憲法上明記された場合、自衛隊の諸活動に対する憲法的制限は効かなくなると思われる。集団的自衛権行使の憲法的抑制機能は低減する。
安倍首相の提案理由は、自衛隊の違憲論に決着をつけ、合憲とすることにあるとしているが、9条2項の政府見解では、「自衛のための必要最小限度の実力」=自衛力としていることから、自衛隊を憲法上規定に明記したとしても、「自衛」についての解釈論議は残り、問題の解決にはならない。
憲法の規定と、自衛隊をめぐる現実との間にズレがあるのは事実であり、そうしたズレを解消するために根拠規定をおこうという考えは、理屈としては理解できないでもありません。ただ、〈1〉国民の間から生じてきたのならまだしも、政権与党がいささか強引に改正を主導していること、〈2〉今の9条は、現実との間で矛盾を孕んではいるが、時代を先取りする内容を有しており、それを逆行させるような「改正」をわざわざ今になってする理由に乏しいこと、〈3〉現実の自衛隊も、陸自日報問題に象徴されるように多々問題を抱えていること、等からすると、やはり「賛成」ということはできません。
「自衛隊」の文言を入れただけで「自衛隊」が合憲になるわけではない。その装備の程度が「戦力」を超えるか? その活動の範囲が「専守防衛」を超えるか? の違憲論争は変わらず続くことになる。現2項を変えない限り違憲論争は続く。
憲法9条1項、2項の規範内容が不明確である状況下において、自衛隊を憲法に規定することは、憲法による有効な統制をもたない。しかも、憲法上の一定の自律的権限をもつ軍事的国家機関をもつことと同じだと思われるので。