平和主義

2013年06月03日 12:12

 6月3日の備忘録。

 午後2時40分から、共通11号室にて現代人権論/日本国憲法の講義を行なう。その内容は、以下のレジュメの通り。

 

現代人権論/日本国憲法(担当 中野 雅紀)        2013.06.03

 

第4講 平和主義

 

はじめに 

 憲法9条で自衛隊を国防軍にするために、安倍政権は憲法96条の憲法改正手続の規定をはじめとする現行憲法条項を改正しようとしているが、これは法解釈上問題ないのか。しかし、現在の通説的見解によると日本国憲法の三大原則は改正権の限界に抵触し、これはできないとされている。そうであっても、個人が自らの生命・自由・プロパティーを守るために設立された国家が、他国から攻撃を受けても反撃もできないというのでは社会契約論上、国家そのものの存立の基盤が掘り崩されることになろう。とすれば、まずは戦争の定義を行い、どの程度、国家に防衛権(自衛権)の行使が許されるのかを検討する必要があろう。

 

  • 戦争の定義

 言うまでもないが、憲法9条の規定は「戦争の放棄」ではなく、「平和主義」を規定したものである。往々にして、前者を説く論者は憲法解釈論というよりも理念論に終始し、教条主義的なイデオロギー論を振りかざすだけであった。そこには、わたしの見るところ法解釈論の展開する余地はない。したがって、ここではそれを避けるために、まず憲法9条は「平和主義」の理念を実現するため、どのような範囲で「戦争を行えるのか」を考えてみる。

 次に、「平和主義」を実現するためには、ネガティブで受動的に他国に攻められてもガンジーのように無抵抗主義に徹して、侵略軍のなすがままにされるという選択肢と、ポジティブで能動的に、アメリカのように世界の警察官として「無法者国家」を攻撃するという選択肢が想起されるが、このうち、どちらを選択するのかが問題となる。考えるに、そのどちらも極論であり、国家は、その設立目的から国民の生命・自由・プロパティーを保全するために、最低限度の防衛権の行使は前提として認められているとすべきである。であれば、戦争には①侵略戦争と②防衛戦争の2種類があり、前者は否定されるが、後者は承認(受容)されるということになる。しかも、憲法を体系的に解釈するならば、たとえば刑法において正当防衛や緊急避難が認められているように、他者の急迫不正の侵害に対しては自己防衛が認められていると解釈でき、当然のことながら、国民のために創設された国家は海外からの急迫不正の侵略行為に対しては反撃できるということになる。これを否認することは、国民が生命体として有する「自己保存本能」を承認せず、あるいは聖人君主のような高いモラルを国民に課すことになり、法律の実効性の観点から疑問と言うしかない。もちろん、自衛隊の力を借りず個人で侵略軍に竹槍で抵抗するという論者の心意気は買うが、少なくともわたしは高い税金を支払っているのだから自衛隊に外敵を追い払ってもらいたい。

 

  • 侵略戦争の否定の論拠

 わたしは自衛隊が憲法9条に違反しないと考えているし、またそれを公言するから右翼と考える人がいるが、それは勘違いであり、侵略戦争の遂行可能な軍隊に自衛隊を再組織化することに賛成しているわけではない。また、国際貢献のためのPKOやPKFなども日本国民の生命・自由・プロパティーの保障とどこまで関係するのか分からないから、なにもアメリカの言うなりになる必要性はないと考えている。ましてや、国連などまったく信用していない。アメリカや国連の言うことを聞いていれば、それは当然のことながら現在の軍事予算からすれば日本のポジティブで能動的な平和実現ということが求められ、かえって、それは「大東亜共栄圏」の悪夢の再現となろう。

 ところで、侵略戦争によって領土を得た場合、その領土は植民地ということになるが、果たして植民地経営は侵略戦争としての対価として割に合うのか。しかし、ウォーラスティンなどが指摘するように、19世紀の後半において植民地経営はもはや採算の合わないものになっていたとされる。そもそも、スペイン・ポルトガル型の収奪式植民地経営ですら、諸刃の剣で、この両国の没落を招いたといわれている。ましてや、前世紀の移り目においては植民地経営のためには、植民地のインフラを調えなくてはならず、収支のバランスを得るためには100年以上の長期的な支配が必要であった。

Ex.ボーア戦争(1899-1902年)、石橋湛山の植民地不要論

 

  • 防衛(自衛)戦争

 まず、生物には「自己保存本能」があることを確認しなくてはならない。したがって、聖人君主ではない限り、国民に自国に攻め込んできた外敵に対してレジストすることを禁止することは、不可能を強いることであり妥当ではない。

 次に、近代戦時国際法においては軍隊ではなく、パルチザンやゲリラの抵抗活動は、軍事法規の適用から除外されるので、自衛隊に頼らずに抵抗活動をおこなわなかった場合、捕虜になれば即刻死刑にされても文句は言えない。また、ホッブズをメインに社会契約論のところで説明したが、国家が国民の暴力を独占することで、自らが「暴力装置」となっていることも重要である←戦争における個人責任ではなく、国家責任。

 意外と、軍隊という組織は規範意識が高いので、個々人のレジスタンスのような無法状態を回避することができる。

 ここで重視したいのは、往々に左翼・タカ派の解く自衛隊違憲論が人間も動物であり、動物である限り、「自己保存本能」を有していることを度外視している点である。

                          (続く)

 

 午後8時過ぎに、自宅マンションに帰宅。

 一応、先週に続き、渡鬼2時間SP後編を観賞する。

 

 そのあと、逆転裁判5の体験版を少しやってみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 御剣は少し顔を出すようだが、糸鋸刑事と狩魔冥は出ていなさそう。当然のことながら、綾里真宵も出ていないみたいだ。