採点

2014年08月27日 12:49

8月27日の備忘録。

  10時33分、駅構内の吉野家でハム納豆定食 420円を食べる。

 

 以下、どのようなレポートが提出されたのかを二三掲示しよう。

 

社会科 女子学生

課題:これまで15回観てきたDVD,BDの中で興味をもったものを1つ選び,そこから法律・政治学との関係するテーマを設定して,小論文を書くこと。

 これまで15回観てきたDVD,BDの中から『12人のやさしい日本人』を取り上げて,「裁判制度」というテーマを設定し,まず映画内でも取り上げられた陪審員制度に関して取り上げ,次に裁判員制度も含めた現行の日本における裁判制度に関して,最後に主観主義刑法に関して述べていく。


 まず陪審員制度に関して述べる。陪審員制度とは,陪審員が裁判官から独立して,事実の判断とそれに基づく有罪・無罪を決定する制度である。陪審員は一般には,量刑に関与せず,評決は原則として全員一致であるが,国によっては特別多数決を認めるところもある。この制度を取り上げている主な国としてはアメリカが例に挙げられる。アメリカではイギリスの植民地時代から陪審制が導入され,独立後も多くの州で陪審制度が維持され続け,1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法第3編は,すべての犯罪の公判は陪審裁判によってなされなければならない旨を規定した。さらに,第5修正は刑事大陪審を,第6および第7修正は刑事及び民事事件で陪審を受ける権利を保障した。その後,陪審は連邦及び州の刑事・民事事件に広く導入され,アメリカ社会において重要な役割を果たしている。


この陪審員制度はかつて日本にも制度として存在していた。日本の政治において,政党が次第に力を強めてきたいわゆる大正デモクラシーの時期に向かい,政治の民主化を求める多くの声があったため,陪審制度導入に向けて本格的1990年代,本格的に動き始めた。大正陪審法の成立に中心的役割を担ったのは,政党・政友会の原敬である。彼は,ある2つの事件をきっかけに,陪審制度の導入をすすめようとしたと言われている。1つは1909年に起きた日糖事件といわれる疑獄事件ともう1つは1910年の大逆事件である。1910年2月,当時政友会の有力者であった原敬は,自らが中心になって「陪審制度設立ニ関スル建議案」を議会に提出した。この建議案は,全会
一致で衆議院を通過している。1918年9月,原内閣が成立し,1919年5月には,陪審制度の立法化について閣議の了承がなされ,同年11月から陪審制度についての具体的な検討が始まり,1923年陪審法として成立した。 陪審法は,5年間の施行準備期間を経て,1928年(昭和3年)から施行された。 時の司法省刑事局は陪審制度を導入した理由として,政治上の理由(民主主義)と司法上の理由(裁判への信頼の確保)を掲げている。陪審法における陪審員は,直接国税3円以上を納める日本国民の男子から無作為抽出で選ばれた12人で構成された。対象事件は被告人が否認している重罪事件であり,陪審員は有罪・無罪の結論を出し,裁判官に対し「答申」するが,裁判官は法律上これに拘束されず「答申」を採用せず審理のやり直しを命じることができた。また被告人は,陪審員による裁判か裁判官による裁判かを選択することができた。この法律の下で行われた陪審裁判は484件,無罪率は16.7%である。しかし,1943年,戦局の悪化と陪審事件数が減少したため,陪審法は停止されるに至った。この陪審法は「停止」されているため,法律としてはまだ存在している。


陪審員制度を取ることは,現在日本で行われている裁判員制度と同様,司法の透明化と司法に対する興味をひきつけるもの,また,一般市民の常識に見合った判決を下すことで司法の信頼の回復にもつながると考える。司法に関することは専門性が高く,知識を有さない国民にとっては遠い存在のように思われる。また,「事務手続きが多くて大変そうだ」といったように司法に対しての嫌悪感は少なからず誰もが一度はもつ。そこで,陪審員制度や後述の裁判員制度によって一般市民の意見を司法に取り入れるとき,分かりやすく審理を進めなければならない義務が生ずるため,よち身近に司法を感ずることができ,興味の対象になるのではないかと考えられる。また,冤罪事件が報じられるたびに,司法の信頼度は低下してしまうため,低下した信頼を回復するためにも,以上のような制度は必要であると考える。


 

 次に,現在日本で行われている裁判制度に関して述べていく。日本では,憲法第32条によって,人権を守るための権利として裁判を受けることが保障されている。裁判を受ける保障以外にも,第76条第1項により司法権は裁判所のみに属しており,同条第3項により裁判官の職権の独立を保障している。また,審理を慎重に行うため,三審制を採用している。裁判所には,5種類あり,役割分担がされている。事件の内容によって,簡易裁判所か地方裁判所あるいは家庭裁判所によって第一審が行われる。その裁判に納得がいかないときは,上級の裁判所に不服を申し立てることができる(第二審)。その裁判に憲法の違反がある時などには,さらに上級の裁判所に不服を申し立てることができる(第三審)。これが三審制である。

また,2009年5月21日に始まった裁判員制度は,地方裁判所の刑事裁判に国民のなかから選ばれた裁判員が参加する制度であり,裁判員は刑事裁判の審理に出席して証拠を聞き出し,裁判官と対等に論議して,被告人が有罪か無罪か(被告人が犯罪を行ったことにつき「合理的な疑問を残さない程度の証明」がなされたかどうか)を判断する。「合理的な疑問」とは,普通国民の常識に基づく疑問のことである。常識に照らして,少しでも疑問が残るときは無罪,疑問の余地はないと確信したときは有罪と判断することになる。有罪の場合には,さらに法律に定められた範囲内で,どのような刑罰を宣告するかを決める。この点に関しては,前述した,かつて日本で行われていた陪審制度とは異なる。陪審制は有罪か無罪かを決めるだけだったが,罪刑もこの裁判員制度では判決する。裁判員制度の対象となるのは,殺人罪や強盗致死傷罪,傷害致死罪などの重大な犯罪の疑いで起訴された事件である。原則として,裁判員6名と裁判官3人がひとつの事件を担当する。刑事裁判に対する今までの国民の信頼は,裁判官や検察官,弁護人の専門性に対する信頼に基づくものであっても,必ずしも審理や判決内容を十分に理解した上でのものとはいえない面があった。将来にわたって,刑事裁判に対する国民の信頼を確保し,その基盤を強固にするためには,国民に直接参加してもらい,刑事裁判が果たす役割を実感してもらうことが最も効果的であると,考えられる。また,参加してもらう以上,必然的に,法律専門家ではない国民にも分かりやすく,法廷での審理が中心となる裁判が行われることになり,法廷で傍聴する人にとっても理解が容易になるはずである。これによって,司法に対する国民の理解を増進させ,その信頼の向上につながること,これが裁判員制度の意義として挙げられる。

三審制をとることは,冤罪を生み出さないためには重要な制度である。また,司法権が独立していなければ,政治的圧力がかかってしまったら,適切な判決は下せない。その点に関しては,日本の司法整備は整っているように感じられる。しかし,それでも冤罪はなくならない。自白の強要や証拠の捏造など,いかにも被告人が犯人であるような証拠ばかりを提示する検察側に問題があるように思われる。また,裁判にかけられてしまったら,ほぼ有罪になる,というような認識があるのではないだろうか。裁判が始まってしまったら,将来をあきらめて嘘の自白をしてしまうかもしれない。その時には,被告人の本当の気持ちを読み取るととともに,提示された証拠のみから判断していく,裁判官の手腕が大切になってくるのではないか,と考えた。

 最後に,主観主義刑法に関して述べる。映画内では「なんとなくそんな気がする」や「あの女の人はそんなことをするような人には見えなかった」「あの男の方が悪いのだ。女の人は何も悪くない」と,被告人である女性を擁護するような個人の主観的思いやパッと見の被告人の印象で話を進めている場面が多々みられた。先日,水戸地方裁判所へ刑事裁判を傍聴した時にみた裁判では,被告人の妻が証人として法廷にたち,涙ぐみながら,夫である被告人の更生を願っていると裁判官に訴えかけていた。しかし,検察官は証拠を突き出し,求刑を求めていた。もしもこの裁判が裁判員裁判であり,かつ主観主義刑法がとられていたら,夫の更生を願う妻の悲しげな表情をみて,罪を軽くしようと,考えるかもしれない。しかし,実際には感情によって罪刑が左右されることはない。日本では,法律の定める手続きによらなければ,刑罰を科すことができない罪刑法定主義をとっているため,感情に任せて判決を下すことは認められない。裁判員は,法廷で取り調べられた証拠をもとに,起訴状に書かれた犯罪行為を被告人が犯したかどうかを判断する。被告人や証人の表情やことばによってではなく,ただ証拠によってのみ,判決を下すのである。

 戦前の日本では,この主観主義刑法に基づいた自白の強要があり,そのために冤罪が多く生みだされてしまった。冤罪を生まないためにも,主観主義刑法ではなく客観主義刑法の立場がとられるべきであり,また,罪刑法定主義に基づいて,誰が裁判官・裁判員になっても同じ判決が下せるような裁判を行うことが望ましい。

【参考・引用文献】

(1)日本弁護士連合会 世界各国の市民参加制度 アメリカ

 https://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/column1.html

(2)日本弁護士連合会 日本にもあった陪審制度

 https://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/column2.html

(3)「裁判所ナビ」最高裁判所発行,2013年10月


(4)「裁判員制度 ナビゲーション」最高裁判所発行,2010年9月

 

 

社会科 男子学生

 


ゲーム理論を考える

1.     はじめに

今回、「法と社会」という講義を受講して、私はゲーム理論という内容に興味を持った。ゲーム理論を考えるとともに、その意義について考えていきたいと私は思う。そして、その将来性について考えていきたい。

2.     ゲーム理論の定義とそれが与える影響

 そもそも、ゲーム理論とは、「一般に利害の必ずしも一致しない状況における合理的意思決定や合理的配分方法とは何かということについて考えるための数学理論」である。1944年に数学者フォン・ノイマンと経済学者モルゲンシュテルンの2人で著作した、『ゲーム理論と経済行動』の出版によりその存在が世間に認知された。その後の動向として、数学者たちによる理論展開を経て、現在では、経済学、経営学、政治学だけにとどまらず、生物学等サイエンス分野、哲学にも影響を与えるようになってきた。このように、ゲーム理論が世間に与える存在は非常に大きなものとなってきている。それらから、このゲーム理論を再考察することは意義があることであると私は考える。

 なぜこのように、ゲーム理論は現代で大きな影響を与えるようになったのか。特に経済学に関していえば、その存在はゲームであるからという結論に至る。どういうことかというと、以前のミクロ経済と異なり他社の経済状況によって自社の経済が変化するというマクロな経済に現代はなっている。そのため経済的得失は他者の経済状況も考える、つまり人の意を介する勝負(この場合は経済的利益の獲得)の場でどのような立ち回りをすることが最良であるかを考えるからである。ゲームに負ければ経済的損失を被り、ゲームに勝利すれば、経済的利益を得ることができる。このように、ゲーム理論という名前から、ゲーム理論には得るものがある以上、失うものも存在することがわかる。つまり、失うものが存在しない場合にはゲーム理論は成り立たないのである。具体的には、アメリカ対ソ連の冷戦の構造とアメリカ・ニューヨークで発生した同時多発テロを比較するとわかりやすい。他の戦争・紛争でも同じことがいえるが、アメリカ対ソ連の冷戦の構造は国家対国家のように、戦争という形を行ってしまった場合の国民の死などの国家の損失を考える必要がある。このことが、戦争を抑止させる考えに至ったとされている。このように、損失が存在している場合は先ほども述べたように、ゲーム理論が成り立つ場合である。しかし、その対象として挙げたアメリカ同時多発テロのようにテロリズムの動向は国家がテロリストに対して行動を行った場合、その反撃を受けた場合には国家の犠牲が伴う。しかし、テロリスト側には失うものはない。このような場合、テロリストは失うものがない分、自己抑止力というものが存在しない。そのため、危険を顧みず行動を起こすことができる。そのため、テロリズムは非常に危険なものであると同時に、ゲーム理論が成り立たない例として挙げられるのである。また、最近では科学部門などにも影響を与えるようになってきている。そもそもゲーム理論の前提として挙げられている者は数学分野における確率論である。これは試行回数と偶然性からその出る確率をいわば必然的に求めだしたものである。これに人の意が混入したものが現代のゲーム理論であるため、パッと見不可能に思える科学部門の応用は可能である。

3.     
ゲーム理論の意義

 ゲーム理論の定義は先ほど述べたが、具体的な事例を出してゲーム理論の意義について考えていきたい。その前にゲーム理論の基本となるルールを理解する必要がある。ゲーム理論においては、ゲームをプレイヤー、ルール、結果、利得の4つが基準となっている。各基準の説明だが、まず初めに、「プレイヤーは1人以上であること。次に、ルールとしてプレイヤーの行動の順序はじゃんけんのように同時手順か将棋のように交代手順かという状況で選択肢の集合であること。そして、結果として、各プレイヤーが行動を選択した後の最後としての社会状態をさすこと。最後に、利得はそれぞれの結果に対応して各プレイヤーが手にする利益のこと」(注1)である。また、この要素を統括するものが「戦略」であり、ゲーム理論の醍醐味ともいえる機能である。このような前提条件を踏まえ、いかに戦略が大事であるかという内容については、今回は2つの事例を検証して考察してみようと思う。そして、その2つの事例から見るゲーム理論の意義について考えていきたい。

まず1つ目の検証として先ほども挙げた冷戦下におけるアメリカとソ連の構造についての事例である。冷戦では戦争はまだ起きていない状況をさすが、この中で起こり得る事例を挙げていく。まずアメリカ側が核爆弾をソ連に落下させ、ソ連側は何もしない場合についてである。これでアメリカとソ連の得失を3:0とする。ソ連側は核爆弾を落とされ国家破滅が起きたが、アメリカは戦争に勝利し、世界のトップの座を得た。次に、先ほどと逆のパターンであるソ連側が核爆弾をアメリカに落下させ、アメリカ側は何もしない場合は、先ほどの結果にのっとりアメリカとソ連の得失を0:3と置ける。次に、アメリカ側がソ連に核爆弾を落下させ、ソ連側もアメリカに核爆弾を落下させた場合である。これはどちらも何も残らないため、アメリカとソ連の得失を0:0と置ける。最後に、アメリカ側もソ連側も核爆弾を使わず、協調路線を選んだ場合である。この場合は、どちらか1国がトップになるときよりもある程度の妥協は必要になり、アメリカとソ連の得失を1:1と置くことができる。ゲーム理論が存在するのは、最悪のパターンにならないよう、ある程度の自己抑止力が存在するということに意義があるとあらわしている。この場合、アメリカとソ連の得失が0:0である両者とも核爆弾を使用するという状況を何としても阻止したいように思える。ゲーム理論として数字化することで、こちらがこう動いたらどのような得失が得られるかを一目で理解できるようになる。こうすることで、冷戦下における第三次世界大戦の回避が獲得できたのではないかと考える。

2つ目にもう一つの事例について考える。それは「囚人のジレンマ」と呼ばれるゲーム理論を説明するうえで最も有名な事例である。ある事件において2人の容疑者が捕えられた。捕えられた囚人は尋問室である行動を起こそうとしている。それは裏切りである。1人目のプレイヤーをA、2人目のプレイヤーをBとした場合として考える。Aが裏切って情報を警官に吐き、Bが協調路線を選んだ場合、AとBの損失は5:0、反対の場合は0:5である。また、AもBも裏切って情報を吐いた場合AとBの損失は1:1、両社ともに協調路線を選んだ場合AとBの損失は3:3である。このように数値化すると自分が協調を選ぶよりも裏切り行動を選んだ場合の方が得失は上回ることがわかる。これにより、囚人は利益最大効果を考えれば、裏切りという行動を選ぶことが考えられる。しかし、それによりどちらも裏切りを選んでしまうと、2人とも強調を選ぶ方が得失は大きい。このことが囚人のジレンマという事例である。(今回はジレンマという内容ではなく、それに含まれる囚人の駆け引き、つまりゲーム理論を用いる意義を見ていく。)

これら2つの事例からわかるようにゲーム理論を用いることによりその得失がはっきりと浮き彫りになってくる。このゲームに共通していえることは、各プレイヤーは同時(もしくは相手の行動を知らない状態で)自分の行動を決定するということである。つまり、事前の情報交換は存在しないということである。これにより、ゲームとしての駆け引きが存在することになる。相手の出方を考え、自らの最善の策を練る。(この最善の策というものが先ほど数値化した期待値の最大値である。)この現象は先ほど述べた「戦略」と同義である。これは私たちの生活の中にも多く含まれていて、主に交渉術として存在している。相手の出方が強く協調路線を選んでいいものか、本当に理解したうえでその交渉を行うことが今必要とされているのかもしれない。このように、実生活で生かすことができるという点こそゲーム理論を考える意義であるかもしれない。それにより、自分がいかに有利に話を進めるか、生活を行うか。それを考える基盤はゲーム理論かもしれない。

4.     ゲーム理論の将来性

 以上のように、ゲーム理論が与える影響と、ゲーム理論を考える意義について考えてきた。それは主に、現代における交渉術を養うものとして、必要な理論であることがわかった。近年、多くの経済学者がゲーム理論でノーベル賞を受賞(1994年には3人、2005年には2人)し、新たに見つめなおされてきた考え方であることは確かである。これからの将来には更なる発展を望む。


(3581字)

引用

・注1

 ゲーム理論入門 2014年8月18日更新

 https://ha1.seikyou.ne.jp/home/yus/ecolab/game.html

・ゲーム理論入門--ゲーム理論の成り立ち 2014年8月18日更新

https://web.econ.keio.ac.jp/staff/nakayama/radio.htm

 

社会科女子学生

医師は安楽死・尊厳死に手を貸してはならないのか

 

  1. はじめに

法と社会の授業の中でみた映画は、どれも印象に残っていてもう一度見返したいと思う作品も数多くあるが、その中でも印象に残っているのは、ブラックジャックの「二人の黒い医者」というアニメで、安楽死を手がけるドクターキリコが登場し、ブラックジャックとともに一人の女性の命を救う姿を描いた作品である。最初のシーンでキリコがおじいさんを安楽死させるのだが、それがとても印象的であった。この作品を見てから安楽死といえば何となく聞こえはいいが、実際死ぬことを手助けしているのではないか、と思う一方で、ドクターキリコの手の施しようのない患者のみが対象であって、活かせる命は救うという信条を考えると、延命とは誰を幸せにする行為なのか、ということに対して疑問を持つようになった。また、医者は患者を殺すことはできない。もちろん医者に限らず、誰かの死を手助けすることは犯罪とされている。尊厳死、安楽死とは何か、どのような行為が犯罪に当たるのか、どうして犯罪なのかについてもう一度考えてみたいと思い、このテーマを設定した。

 

  1. 尊厳死・安楽死とは何か

「尊厳死」とは「人間の尊厳を保って死に至ること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて、「人間として」死に至ること、ないしそのようにして達成された死を指す。」(引用:「尊厳ある死・安楽死の概念と区分」)このように定義されるものである。このように理解するならば、倫理的に尊厳死は許されるか、といった点は問題点として取り上げられる必要もなく、「目指す死のあり方」といえるのではないだろうか。すべての死は、「人間としての死」であるべきだから、この言葉はある種の目標ないし理念をあらわす概念としてとらえられるものである。これに対して、「尊厳死を実現するためにはどのようにすればよいか・どのようにすべきか」ということが問題となる。このときに、「死」を選択する以外に「人間らしさ」「人間としての尊厳」を保つ方法がないと判断される場合に、意図的に死をもたらすことが「安楽死」と呼ばれる死である。安楽死の定義としては「苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに、意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的におこなわれる「死なせる」行為」とされている。この場合の「苦しい生ないし意味のない生」というのは、患者が「苦しい」「もはや生きる意味がない」と評価している場合のみを指していて、決して他人から生に意味があるかどうかを評価するものではない。この定義は「安楽死」という言葉自体に倫理的評価を含めないようにするためのものである。さらに安楽死には「行為の様態に関する区分」と「決定のプロセスに関する区分」とに分けることができる。前者の区分でいうと、安楽死には「積極的安楽死」と「消極的安楽死」の二つに区分できる。「積極的安楽死」とは死なせること、殺すことであり、「消極的安楽死」とは死ぬに任せることを指す。これはいたずらな延命治療はしない、というニュアンスが含まれているため、理屈としてはおおかた認められているといえよう。後者の区分でいうと、「自発的安楽死」「非自発的安楽死」「反自発的安楽死」の三つに分けることができる。「自発的安楽死」というのは患者本人の意思による場合を指し、「非自発的安楽死」は患者本人に判断能力がない場合を指す。最後の「反自発的安楽死」とは、患者本人に判断能力があるにもかかわらず、意思を問わずにあるいは意思に反して決定される場合。この場合はまれであろうし、倫理的に許されるものでもないだろうと考えられる。

 

  1. 法的にとらえる尊厳死

これらの尊厳死のあり方を現行の日本の法制度ではどのように規定しているのだろうか。尊厳死を患者の自殺としてとらえた場合、刑法202条には自殺幇助罪(自殺の手助けをすること)や嘱託殺人罪(本人に頼まれて殺してやること)という「罪」を罰する法律があり、医師が場合によっては殺人罪に問われてしまうこともあることが分かった。どういった行為までが、自殺幇助もしくは嘱託殺人に当たるのか、というのは難しい問題で、一概には言い切れない場面も数多くあることだろうが、本人の意思によって治療はおこなわれるべきものであると一般には理解されているため、刑法を適用する際にも本人の意思があったのかどうかが重要な論点となるようである。一番難しいのは、本人に意思決定する能力がない場合であろう。しかも緊急の手術や措置を施す必要があるとき、宗教上の理由などで家族が手術や措置を拒んだとしたら、本人の意思は誰が確認できるというのか。このようなことが問題となった事件がアメリカでおきたとき、裁判所は患者の生きる権利が優先し、宗教上の教義などは道を譲らねばならないとしている。患者が子どもであればなおさらである。さらに、最高裁の判決では、「親は自ら殉職者となる自由を有するとしても、まだ十分な判断能力を持っていない子どもを殉職者にするまでの自由を持っているわけではない」としている。

 

  1. ドクターキリコの行為は罪に問われるか

ドクターキリコは元軍医で、瀕死で苦しむ兵士たちを安楽死させ感謝された経験から、「治癒する見込みのない患者は苦しませるよりも静かに息を引き取らせた方がよい」という信念を持つようになり、法に触れないように安楽死を請け負うようになった医師である。このような信念を持ってはいるが、頼まれればやみくもに誰でも安楽死させる、というのではなくキリコにとっての安楽死とは「手の施しようのない患者への救済行為」であり、その信条に背く殺生はおこなっていない。また、「治せるものなら治す」とも明言していて、軽々しく自殺したがる少年を追い返すシーンもある。(参考:Wikipedia)

 このようなドクターキリコの行動をみていると、どうやら本人の意思を尊重して安楽死を手がけているように見える。法と社会の授業で観た作品の冒頭の部分でも、年老いて自ら死を望む老人を安楽死させていた。これは積極的安楽死に区分できるものであろうと推測できる。治療の方針を患者本人と話し合い、患者の決定、もしくは承諾の上で患者を安楽死させる。そもそも作中ではドクターキリコは「死に神の化身」といわれる人だから、彼を呼び寄せた時点で患者が死を望んでいることは明らかといえるだろう。しかし明らかに、薬物を投与しているシーンがみられた。これが法律上、倫理上許されるかは議論の余地があるが、尊厳死が目指される死だという価値観に基づけば、ドクターキリコの行動は法律上、倫理上問題ないということができる。

 しかしここには大きな問題が残されたままとなっている。ドクターキリコはいたずらな延命治療に価値を見いだしていない。命をつなぎとめようとすることはしないのである。これは、活かせる命をみすみす手放す選択を患者にさせているのではないだろうか。そうとなれば立派な自殺幇助罪にあたる。回復は望めないとしても、生きていくことはできる、といった状況のとき、回復は望めませんと患者に伝えれば死にたくもなるだろう。そういった方法でドクターキリコは、実は患者を安楽死する方向へ誘っているのではないか、と考えることもできよう。ここで問題となるのは、「生」の定義である。何をもって「生きている」とみなすのか、なにをもって「死んでいる」とみなすのか。その部分が作中からは読み取れず、また、植物状態などの、死の定義が難しい患者もみられなかったため、ドクターキリコが現行の法律上問題があるか否か、判断を下すことはできないといわざるをえない。

 

  1. 考察

もともとブラックジャックという手塚治虫原作のアニメは、テレビで放映されていた頃からよく観ていて、とても好きなテレビアニメのひとつだった。医者が主人公ということもあって、グロテスクなシーンや子どもからすると怖いシーンがあり、夜に思い出して怖くなったこともあった。そういった懐かしいアニメを、授業で見返してみると、当時は気づかなかったような登場人物の感情に気づいたり、ただ単にブラックジャックが患者の命を救うような単純なストーリーだけではなく、その裏に、医療問題や、生命倫理の問題、尊厳のある死やそれをどう受け止めるかといった問題が隠されていることに気づいたりと、考えさせられることが多かった。その中でも今回は、尊厳死とそれを扱う医師の法律上の問題について考えた。人間の生命について考えるとき、死ぬならできるだけ本人が望んだかたちで死なせてあげたいと今は思うし、自分の死ぬときもそうしてもらいたいと思うのだが、もし本当に家族が生死をさまよい、延命治療を施すか否かの決断を迫られたとしたら、自分が尊厳死を家族のために選べるのか、ということには自信が持てない。私もドクターキリコのように、いたずらな延命治療は本人のためにも残された人たちのためにもならないものだと考えている。実際にそういった話を実家に帰った際に両親と話してみたが、両親も私と似たような考えを持っていた。きっと死は突然やってくるもので、そのときや状況によってどんな判断を下すのかは分からないが、こうして考えてみることは、少なからず大切なことだと思った。考えて見えてくるものは、法律と倫理の衝突する部分だったり、自分の生き方のモデルだったりさまざまだと思う。こういった普遍的な問いから、社会全体を見直して自分なりの意見をもって揺れ動く世界を見つめていきたい。大学2年になった今、新しいものだけではなくて、古くから大切にされてきたものや、身近なものに焦点も当てつつより多くのものを吸収していきたいと思う。

 

<参考文献>

Wikipedia ブラックジャックの登場人物

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9

尊厳ある死・安楽死の概念と区分

https://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/cleth-dls/euthanasia/euth-def.html

基本的人権の事件簿 第3版 有斐閣選書(2007年) 

 

社会科女子学生

法と社会 最終レポート

「犬神家の一族と相続制度」

 

  1. はじめに

 私は、法と社会の講義の中で、最も印象に残った映画は一番最初に見た「犬神家の一族」である。私はホラー映画が苦手である。「犬神家の一族」は死体が出てきて、とても怖かった。また、その映画が講義の一番最初だったということもあり、ものすごいインパクトがあった。なので、私は「犬神家の一族」を取り上げようと思う。また、「犬神家の一族」では、犬神家の相続をめぐる戦いを描いた作品であったので、相続制度と絡ませようと思う。

 

  1. 相続制度の変遷について

 まず、私は相続制度について述べようと思う。

昭和22(1947)年5月2日以前の相続制度は、明治民法によって定められていた。それまでは、家督相続という制度があった。家督制度は、明治31(1898)年7月16日に施行された。戸籍上の家の長として、これまで戸主が持っていた地位を次に戸主となる者が1人で継承することである。当時は、嫡出長男子による単独相続を原則としていた。遺産相続では、共同均分相続の原則が取られていた。共同均分相続の原則とは、数人の相続人は共同で相続し、相続順位の同じ者の間では相続分を均等にして相続財産を分割することを原則としたものである。

 それが、昭和22(1947)年5月3日に大改正された。そこでは、応急措置法という制度が取られた。しかし、応急措置法は、その年の12月31日に廃止された。そのかわりに、翌年の1月1日に新民法が施行された。昭和22(1947)年の大改正では、家督制度が廃止され、死亡による遺産相続への一本化になった。また、配偶者の相続権が強化された。嫡出長男子の単独相続制は諸子均分相続制にかわった。そして、長男の独り占めはなくなった。また、祭祀財産を相続遺産から分離した。祭祀の相続は、最古の相続制度であった。祭祀とは、神や祖先をまつることである。

 昭和37(1962)年7月1日に、相続制度は一部改正された。特別失踪の期間が3年から1年に期間が短縮された。また、同時死亡の推定が新設された。相続の放棄を代襲の原因から排除した。そのかわり、再代襲の相続を明記するようにした。同時存在の原則を廃止した。同時存在の原則とは、相続が開始されたときに相続人が存在していなければ、権利義務の継承はされないという原則である。それが、廃止された。相続権を直系卑属から、子に変更された。孫以下は代襲相続となった。限定承認や、放棄の取消方法を明記するようにした。相続人は、いったん発生した相続の効果を承認するか放棄するか自由に決められるようになったのである。特別縁故者制度が新設された。特別縁故者とは、相続人がいることが明らかでない死人のことである。

 昭和56年1月1日に一部改正がされ、配偶者の相続分が引き上げになった。今までは第1順位の相続人の配偶者は1/3だったが、1/2になった。第2順位の相続人の配偶者は1/2から2/3になった。第3順位の相続人の配偶者は2/3から3/4になった。他にも兄弟姉妹の代襲相続の制限がかかった。そして、再代襲が廃止された。寄与分制度の新設がされた。年少者や、心身障害者へ配慮するために、遺産の分割の基準が明確化された。また、配偶者の相続分の引き上げに連動して、遺留分の割合が変更された。

 平成11(1999)年は、聴覚・言語機能障害者のために、公正証書の遺言に関する改正が行われた。

 平成16(2004)年は、民法の現代語化に伴なう改正が行われた。

 

  1. 「犬神家の一族」との関連するところ

 「犬神家の一族」と関連する相続制度を述べようと思う。法と社会の講義で見た「犬神家の一族」の年代設定は昭和2X年となっている。相続制度は昭和22(1947)年に大改正されているため、本当のところはどういう相続制度であったということは、特定できない。でも、以前の課題で、昭和24(1949)年の相続制度について調べてくるというのが出たので、昭和24(1949)年の相続制度なのだろうか。もしそうであれば、昭和22(1947)年の大改正の相続制度が適用される。しかし、応急措置法は適用されない。

 でも、犬神佐兵衛は遺言書を書いていたので、それが優先的に適用される。

 

  1. 現在の相続について

 私は、最近テレビなどで、相続に関する問題・対立をよく見る。「犬神家の一族」でもそうであったが、相続に関する問題・対立は激しい。とても恐ろしいと思う。私は、自分のお父さんの財産が何が何でも欲しいとは思わない。自分の家族も「犬神家の一族」の人たちのように、いやしい人間ではないと私は信じている。しかし、いざというときのためにも、相続に関することは知っておく必要があると思う。なので、最近の、相続の問題について調べてみようと思った。

 相続について、調べてみると、相続の問題や対立はたくさんあることがわかった。調べてみて驚いたことは、財産が少ない人のほうが、トラブルに発展するケースが多いということである。「犬神家の一族」を見ていたので、相続問題は財産が多い人の話だと思っていた。財産が多い人は、弁護士など専門家に相談し、早めに対策を立てやすいのと、財産が多いので、比較的分けやすいので、問題が起きにくい。

逆に、財産が少ない人は、少ない財産を分けることは難しいので、トラブルが起きやすい。また、「財産が少ないから、トラブルは起きない」と考えてしまい、何も対策をしないので、トラブルが起きやすいのだ。

正直、私の実家は財産が多いとは言えない。私も、他人ごとではないと考えなければならないと感じた。なので、トラブルを回避する方法を調べてみた。

日本経済新聞によると相続トラブルを避けるためには、5つのポイントがあるそうだ。


親の気持ちを聞くこと

   資産目録を作ること

   相続税がかかるか否かを確かめること

   法定相続人を確かめること

   「分けられない資産」の分け方を知ること

 

 「犬神家の一族」では、①の親の気持ちを聞くことができていなっかったと思う。犬神佐兵衛の子どもは、全員、母親がちがうので、困難であったと思う。全員の母親が同じで、そして生きていたら、また何かちがっていたのかもしれない。犬神佐兵衛は遺言状を書いていたが、複数の女性と子どもを作ってしまったために、トラブルが起こってしまったと考える。

 しかし、私の家は、そういうところではないし、兄弟の母親もみんな同じなので、話し合うことが可能である。だから、①から⑤を満たすこともできると思う。

 

  1. 調べた感想と「犬神家の一族」を見た感想

 相続について調べてみて、相続は自分にも関係があることがわかった。テレビ番組でやっているような相続トラブルにならないように気を付けようと思う。特に、私には兄弟がいて、私が一番上である。一番上である私がしっかりして、親が死んだとき、相続トラブルが起きないようにしようと思った。そのためにも、相続に関する知識がもっと必要だとかんじた。相続に関する知識をしっかり得ようと思った。

 「犬神家の一族」をみた感想は、怖かったということである。私は、ホラーやミステリーは見ないので、「犬神家の一族」を見たときは衝撃的だった。特に、青沼静馬は気持ち悪いと感じた。もう二度と見ないと思う。犬神家の人々は、お金にいやしい人ばかりである意味すごいと感じた。自分の親が死んでも悲しまず、お金のことしか頭にない、そんな一族が悪い意味ですごいと思った。私は、親のことをきちんと想おうと思った。

 法と社会の授業は、映画から法学に触れるということで、とてもおもしろかった。映画のあとには先生の解説もあったので、とてもわかりやすかった。

 ありがとうございました。

 

 

【参考資料】

相続制度の変遷

日本経済新聞

 


 

 14時7分、駅ビル内のえぞの味 北のしまだで日替り定食 840円を食べる。

 

 

 8時頃から就寝時間まで、久しぶりに逆転裁判2 さらば逆転をプレイする。