日本国憲法/現代人権論

2014年04月21日 10:22

4月21日の備忘録。

 8時15分、駅前のすき家で以下のものを食べる。

  牛丼並              250円

  山かけオクラTP                    130円

  お新香 セット          100円


 11時49分、駅前の松屋でオリジナルカレー並 370円を食べる。

 14時40分から16時10分まで、共通11教室で「日本国憲法/現代人権論」の講義を行う。

  今回は、先週正式履修したIくんとKさんに加えて、Yくんが2人に課したレポートを持参して参加することになった。ところで、最初の課題のレポートが非常にできていた。したがって、それを以下に掲載することにする。

「価値相対主義とはいかなるものか」

                   氏名 Y.I

  私たちは様々な価値の基準にてらされて生きている。国際化の進む現代では、異なる文化や価値観を認める動きが広がりつつある。その一方で人種差別や紛争などの価値の介入は各自が信奉する世界観を侵害している。物理的な力を使って信条を及ぼそうとすることは、多元化した価値観を統一し唯一絶対の基準を設ける動きである。このように相反する二つの流れの存在を軸に価値相対主義について考察する。

 『憲法とは何か』で例として示された「遠山の金さん」や「水戸黄門」の描く世界では何が真実で、何が正義かについて思い悩む必要がない。そこには価値観や世界観の衝突の調停と限界付けといった複雑なプロセスも存在しない。みんなが同じ価値を奉じ、同じ世界観を抱く分かりやすい世の中であれば、正義や真実をめぐって深刻な選択に直面することもなく、後でその選択について責任を追及されることもない。私たちは分かりやすい世界に生きたいと思っている。善悪の区別が一目瞭然の、人として生きるべき正しい道とそうでない道を示してほしいのである。

 しかし問題は「遠山の金さん」「水戸黄門」の分かりやすい世界ほど、近代世界は単純ではないということである。私たちを取り巻く価値観・世界観は多元化し、それぞれお互いに比較不可能なほど異なっているということである。それを比較して優劣をつける共通の物差しは存在しない。『憲法とは何か』に引用されたミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』の冒頭において、主人公は結婚をするか独身を続けるか迷い、選択の後に致命的な結末を迎える。しかし、それはそれより善い生き方があったわけではない。二つの生き方は比較できない。これと同様に異なる価値観・世界観は比較できない。

 各自が重きを置く価値観・世界観が違ったとして、それの全てを皆が受け入れ実現化することは不可能である。私たちにはそれぞれ権利があり各自の価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される私的な生活領域がある。そこに立ち入らない範囲の公共的な領域では異なる価値観・世界観の衝突や討議が必要になる。それにともなって私的な領域と公的な領域の線引きも重要となるのである。

 二ヵ月前まで受験生だった私にとって、試験の得点は私をはかる最大の価値の基準であった。学歴社会の下で学力偏重の教育を受け、実際大学入試にはそれが必要であった。テストのスコア重視の教育とは、極端に言えば、「学生は勉強さえできれば善い」というわかりやすい世界観である。示された、こなすべき課題を一律に処理し、用意されていた結論に達するか否か、私たちは比較されている。しかし現在では、学力偏重の強い上位校で推薦入試が準備されていたり、人物評価が検討されたりと、価値相対主義的な取り組みが始まり出している。

 価値相対主義の立場で肝心なことは、自分で考えることである。私的な領域と公的な領域の境界や、価値観・世界観が衝突した際にいかに中立性を保つかを考えるのである。分かりやすい世界にはそれがない。多元化した価値観、各自が信奉する世界観をお互いに尊重し合い、それを吟味し折衝を試みる考えが価値相対主義なのである。


 原則として、漢字の誤りの訂正以外は原文のままにした。他の二人のレポートも、よく書かれていた。詳細な感想は、後日補足することにする。

 

 18時1分、駅ビル内のラケルで十穀おくら 1050円を食べる。