東京オリンピック開催決定
9月8日の備忘録。
まずは、東京の2020年のオリンピック開催が決定して素直に日本人として嬉しい。実直な感想としては、どうせ当たるはずのない宝くじを買ったら1万円以上が当たったとか、どうせC評価だろうと思っていた試験がA評価で帰ってきたといったようサプライズ的な嬉しさである。しかし、人間というものはこのサプライズ的なものが実は嬉しいものである。誰も覚えていないと思っていた誕生日にメールでお祝いのメッセージが来ると、「もう誕生日を祝われるような歳ではない」とか言いつつ、内心は非常に喜んでいるものである。また、自分の高校を同窓の連中と悪口を言っていても、それが無関係な高校の出身者からのものであるならば「愛校心」が沸いてきて、「お前らの高校より伝統校だ」とか、「進学校だ」とか言ってしまうものである。「愛国心」もそのようなものであるとわたしは解している。
しかし、それをさかなでする行為を隣国は日本に対して行った。このような隣国の態度は感心できるものではなく、このようなルサンチマン(=恨)に凝り固まっている隣国には態度を改めてもらいた。これではネット右翼(ねとうよ)だけでなく、中道の思想をもつ日本人もこの隣国を色眼鏡で見ることになることは避けられない。投票で敗れた直後のトルコやスペインの関係者が日本に見せた態度と比べ、隣国の態度は醜いものに映らざるを得ない。そもそも、彼の国は「愛国無罪」などと言っているが、保守主義と愛国主義の区別がついているのであろうか。このことが少なくとも、ネット上で白熱しているので、折角のグッド・ニュースにケチが付いたようで残念である。上述の話と関連付けるならば、彼の隣国は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で政治問題と別次元において、素直に隣国であるわが国におめでとうとは言えないのであろうか。すなわち、彼の国は常時、国粋主義的「愛国心」に拘束されているとしか思えない。わたしとしては愛国心は空気のようなもので普段は意識しないが、わが国の国民がみんなハッピーな状態において「日本人として楽しい」とか、シリアスな状態において「日本人として悲しい」といったように自然に感じるものであると思う。その意味では、彼の国の反日教育は間違っているだろうし、教育を以って「愛国心」を植えつけなければならないのであるならば、それは近代国家の体をいまだなしていないと処方せざるをえない。勘違いしてもらうと困るが、このような狂信的愛国者は彼の国でも平均値以下の知能と感性しかない輩だけに過ぎないと思っている。それは、わたしが大阪育ちで、高校でも大学でも友達に在日や彼の国の留学生がおり、少なくとも彼らは常識人であったことから確かであると言える。