松花堂弁当
11月28日の備忘録。
12時9分に、駅構内のK書店で以下の本を購入した。
12時42分に、庄やで久しぶりに松花弁当 680円を食べる(23卓番)。
5時限目の授業が始まるまで、教育社会学のレポートをまとめる。
(1)について
一.はじめに
本レポートの課題は、(1)「社会階級・階層と学歴の関係」について説明することと、(2)現代社会において「社会階級・階層と学歴の関係」がなぜ問題として取り上げられなければならないのか説明することの二つから成る。以下においては、二で(1)の説明を行い、三で(2)の説明を行うこととする。
二.社会階級・階層と学歴の関係
まず、ここにいう「社会階級・階層」とは社会学でいうところの「社会階級」あるいは「社会階層」概念の両者の長所を生かして、「社会階級・階層」としたものである。では、この概念がいかなる場合に使われるのかといえば、経済的に「豊かな層」と「貧しい層」、あるいは「高学歴層」と「低学歴層」、または「資本家層」と「労働者層」を説明するために使用される。1970年代以降から、日本社会は「新中間層」の多い相対的に均一な「一億層中流社会」であったが、近年の貧困や格差の広がりのなかで、この「新中間層」が富める階層と貧しき階層に二極化し、さらにはワーキング・プアなどの広範な貧困層が生みだされ、この現象は「格差社会」と呼ばれている。そして、この二極化は以下のようなかたちをもって学歴に、そして学力に影響を与えている。つまり、就学援助率が高い=貧しい層が多い学校ほど、子どもの学力テストの平均点が低い一方で、高い教育費を支払え、私立中学を受験する=豊かな層もまた拡大しているという現実がある。このことは、富裕層はあまりにステレオタイプないい方になるが「いい高校→いい大学→いい企業」という教育上の「再生産」を行う一方で、そうではない貧困層は「よくない高校→よくない大学・専門学校→フリーターやワーキングプア」という負の「再生産」を行うということになる。すなわち、家庭状況によっては学校での成功・不成功が決定されるということになってしまう。このような二極分解化が、「社会階級・階層」と「学歴の高低」の相互に起こっているからこそ、「社会階級・階層と学歴の関係」についての説明が求められるのである。少なくとも、両者の関係においては因果関係があるかのように思われる。したがって、まずは(2)の問題に入る前にこのことについての説明が必要なのである(久冨善之・長谷川裕編『教育社会学』(学文社、2008年)144-148頁、152頁)。
三.なぜ、社会階級・階層と学歴の関係が問題として取り上げられなければならないのか
なぜ、この問題が取り上げられなければならないかというと、学校を「社会移動の装置」として捉える学説と、学校を「再生産装置」として捉える学説の対立が研究史上見られたからである。
まず、前者の考え方は以下のようなものである。
「「社会階層と社会移動」研究では、近代社会の産業化が進展すればするほど、人々の自由な職業間移動や階層間移動が実現されると考えられていた。「社会移動」が多い社会は「開放性」の高い社会と呼ばれ、それが「平等な社会」の実現とされた。これを「近代化・産業化仮説」と呼ぶ。この仮説では、学校制度は「社会移動」装置だと想定されているといえよう。「教育と社会階級・階層」研究の歴史は、学校が社会移動を促進する制度として、もっといえば、貧困を解消し、社会の平等を実現する「平等化」装置としての力を発揮するか否かが問われた歴史だったといえる」(前掲書・148頁)。
しかし、1960年代半ばに、「補償教育政策」の成果を判断するために調査が行われ、この調査の結果は「コールマンレポート」と呼ばれることとなったが、それによれば、学業達成の成功・不成功は教育環境よりも、子どもの人種や出身階級などの社会的背景によって制約されているという結論が下された。つまり、この調査結果は、学校での学業達成の成功・不成功の背後には、教育環境ではなく、家庭要因が大きくかかわっており、成功できない仮定には文化的な「欠陥」があるという「文化的剥奪論」という考えを促進することになる。1972年には、これを再分析したジェンクスらによりこの仮説は失敗したと結論づけられた。この失敗を背景にして、教室内部で階層的不平等を発生させる要因を検証する「教室研究」が盛んになってきたのである」(前掲書・148-149頁)。
では、後者はいかなる考え方なのであろうか。それは、小澤によれば以下のようになる。
「「文化的再生産論」とは、学校は生徒の文化的差異や社会的差異を再生産する装置であり、またそのことを通じて、社会階級やそれに基づく不平等が再生産され、正統化されるという学説である」(前掲書・149-150頁)。
ここでは紙面の制約もあり、ブルデューの文化的再生産論のみを取り上げる。彼は、①学校内部の仕組みそれ自体のなかに、文化的不平等を増幅する要因があるとし、とくに、学校が教えられる知識には階級的なバイアスがあるとする。次に、②「文化資本」が多く、学校文化に「親和的なハビトゥス」をもつ生徒は学校で成功=同化することが相対的に容易であり、文化資本が少なく「非親和的なハビトゥス」をもつ生徒は学校で失敗=排除される傾向が相対的に高いとされる。最後に、③学校での文化的不平等の再生産を通じて、社会の階級的不平と階級的な支配関係が再生産され、正統化されるとする(前掲書・150頁)。
このように、前者は失敗に終わり、結果として「文化的剥奪論」を促進するだけにすぎず、後者は学校こそが社会階級・階層の不平等を再生産している制度であることを明らかにしただけで、その解消の具体的な処方箋を提示したとはいいがたい。日本型新自由主義政策によって促進された「日本型大衆社会の再収縮」を見るとき、その教育における影響を看過するわけにはいかない。ここに、社会階級・階層と学歴の関係が問題として取り上げられなくてはならない意義があると考える。
-以上-
(2)について
(1)で十分に論じることができなかった、ハビトゥス、特に「文化資本」あるいは「文化的資源」について、自らの体験について論じよう。
私は某大学で教えているのであるが、ある機会に学生に「大学生である間、できれば教養を身につけるために一日一冊本を読むことをおすすめします」というようなことを講義の冒頭で言ったことがある。この時、あとで学生が一日一冊読むことは、本に対する支出上文句を言う学生が出てくるのではないかと思ったのであるが、リアクションペーパーを読むと、それとは別の文句が出てきたので、それを明記する(学生のプライバシー保護のため、大学名、学部名、氏名、性別は記述しない)。
「先生は大学生は本を1日1冊は最低でもよめ、とおっしゃいましたが、そんなにひまだと思っているのでしょうか。
私は本を読むのは好きな方だと思います。大学生になって高校のときよりも時間的によゆうができると思いました。しかし、バイトや家事があり、ひまな時間はありません。私は実家からかよっているのですが、本をよむひまがあるくらいなら、家事をやれとよくいわれます。もし先生が大学生のときに1日1冊の本をよむ時間があったなら、また今もそのような時間があるならば、生きていくために必要な家事はだれかにまかせて、そのような時間がとれていたのかなと思います。
月に1冊なら可能ですが1日1冊はむりです。
(以下、講義の内容について)」
ここで、ブルデューの「文化資本」の説明が想起される。彼によれば、それは①身体化された様態(たとえば、読書習慣や美術館通い)、②客体化された様態(本や辞書などが家に多くある)、③制度化された様態(学歴や資格)の三つの様態からなるとされている。
とすれば、私は①の読書習慣を大学生につけてもらいたいと、学生に言ったのであるが、学生の側には①の習慣がないということになろうか。もちろん、学生の中にはかなりの読書家もおり、また母子家庭でありながら休日には美術館巡りをするという学生も私のゼミ生にはいた。そこで、わたしが考えるのはこの「文化資本」については学生とその家族におけるプライオリティの比重の置き方の相違が重要であるということである。明らかに、彼(女)および彼(女)の家族は読書よりも家事にプライオリティを置いているということが理解できる。また、1日1冊本を読むことは流石に無理があっても、1月1冊の読書をもって「私は本を読むのが好きな方だと思います」とは一般にいえないのではないか。
反対に、私自身の学生時代をかえりみるとき、私の両親は教員であったこともあり、バイトするぐらいなら仕送りを多目にするから、その分は勉強にいそしめということで、かなりの読書をした。もちろん、そこにおいては生活費の問題も度外視することはできないが、それ以上になににプライオリティを置くのかということが重要であろう。このようなことは、本課題での「社会階級・階層と学歴」の問題にマッチした事例であると思い、あえて例とさせてもらった。もちろん、ここでいう学歴とは大学以上の高等教育を受けているかどうかという問題とは別レベルの問題だと考える。
-以上-
<参考文献>
久冨善之・長谷川裕編『教育社会学』(学文社、2008年)
(追記:2014年1月30日)
採点(竹○先生) 合格
コメント
(2)の自らの体験は、文化資本=ハビトゥスについて示されている例であるが、社会階級、社会階層という視点が弱いのが残念であった。
(1)については、良好です。
18時48分に、駅構内の吉野家で牛すき鍋膳(並) 580円を食べて帰る。