模範答案
9月5日の備忘録。
午前10時半から、ペンディングにしていた「日本国憲法/現代人権論」の成績を大学のPCから最終的に入力した。
ここで、最高点を獲得した学生の模範答案を公開することで顕彰に代えたい。
(上記の答案は、比較的わたしが講義で話した内容に基づいて書かれた答案。それは、ドラえもんや遠山金さんが例として引かれていることから理解される)
以下は、わたしの講義を聴いた上で自分なりに勉強した内容をベースにして書かれたと思われる学生の答案。こちらの答案を最高点とした。
一.日本国憲法の三大原則は、基本的人権の尊重・国民主権・平和主義である。そして、この三大原則の根底にあるのは、「個人の尊重」という個人の尊厳の原理である。そのために、個人一人ひとりの考えを政治に反映させねばならないことから、国民主権が求められる。国民の民意を大切にしようとするのが国民主権であるが、日本の裁判官は、多数決原理という民主主義的な手続きで選任されるわけではないので、国民主権から最も遠い存在である。なぜこのような司法権に、法令その他の処分が憲法に適合するかしないかを審査し、その有効・無効を判断する権限である違憲立法審査権が付与されているのか。
二.憲法上で、違憲立法審査権を設けた根拠として、次の三点の理由があげられる。第一は、憲法の最高法規性の観念である。最高法規である憲法に違反する行為や法令には効力はない。そのため、法律、命令、規則、処分が憲法に適合するか判断する必要がある。第二に、憲法の下に三権が平等に併存すると考える、権力分立の思想である。すなわち、立法、行政の違憲的な行為を司法が統制し、権力相互の抑制を確保するためである。第三は、基本的人権の尊重の原理である。基本的人権の確立は近代憲法の目的であり、かつ憲法の最高法規性の価値もそれに裏付けられている。したがって憲法で保障された基本的人権を、立法権や行政権の侵害から守るねらいがある。
三.基本的人権を保障するための手段として、民主主義制度が採用されている。しかし、民主主義というのは万能ではない。そのときの多数派の意思であるから、絶対に誤りを犯さないとも限らない。民主主義が採用する多数決主義原理は暴走すると、個人の自由、基本的人権の保護規定を侵害してしまう可能性があり、現代の日本は多数決原理の暴走により、生存権さえも脅かされているのだ。憲法が最高法規であり、その憲法によって守られている国民の権利を脅かすような、憲法に違反する法令が制定されたり、憲法違反の行政行為が行われては、憲法が最高法規である意味がない。それを是正するのが、司法権の役割、違憲立法審査権である。裁判官は憲法と良心によってのみ判断すると規定されているように、司法権は独立している。司法権が独立している理由として、まず、司法権は非政治的権力であり、政治性の強い立法権・行政権から侵害される危険を防ぐこと、さらに、司法権は裁判を通じて国民の権利を保障することを職責としているので、政治的権力の干渉を排除し、とくに少数派の保護を図ることがあげられる。基本的人権について、とくに問題となるのは少数派の基本的人権である。多数派の意思で裁判が行われるようでは基本的人権を守ることはできない。そうなると、そこに多数派の意思(民意)によって裁いてはならないということが帰結される。
四.このようにして、国民の民意を反映しない、独立した司法権(裁判所)こそが違憲立法審査権をもつのである。憲法によって保障された権利や自由が、民主主義の原理によって、侵犯されるのを防ぐために、違憲立法審査権が裁判所に与えられたのだととらえれば、民主主義的正統性を裁判所がもたなかったとしても、その権限を行使して法令などを違憲・無効とすることの正当性を基盤として説明することができるのではないかと考える。
―以上―
ともに、理科教育の学生であり、法学部がないことを考えると身びいきになるが本務大学の学生のレベルは高いと評することができる。
ところで、私自身も日本美術史Ⅰのレポートを2時間でまとめてしまう。
一.まず、『源氏物語絵巻』(徳川黎明界・五島美術館)と『紫式部日記絵詞』(五島美術館他)の両者に共通することがらは、以下の点である。
第1に、両者ともに『源氏物語』と『紫式部日記』という平安時代の「王朝文学」をそのテーマとしていること。
第2に、「王朝文学」をテーマとしているので、両者ともに「詞書」と「絵」から構成されていたということ。
第3に、『源氏物語絵巻』が物語の成立から150年後の12世紀に描かれ、『紫式部日記』が物語が書かれてから250年後の鎌倉時代に描かれたものであり、両者ともにテーマとなった文学作品と、それをテーマとした絵巻物との時代的ギャップが見られること。
第4に、『源氏物語絵巻』の「詞書」も「絵」も―「絵」は藤原隆能と伝えられてはいるものの―作者不明であり、『紫式部日記絵詞』の「詞書」も「絵」も―「詞書」は京極良経、「絵」は藤原信実であると伝えられてはいるものの―作者不明であること。
第5に、両者共に全巻が残っているわけではなく、しかも所有者の保存の観点から、あるいは美術館の保存上の背理を~「詞書」と「絵」が切り離されて現在に至っているということ、等が挙げられよう。
二.『源氏物語絵巻』と『紫式部日記絵巻』の両者で異なる表現上の特徴とはなにか。
『源氏物語絵巻』は世界に知られる日本最古の女流小説である『源氏物語』を描いたものであるのに対し、『紫式部日記絵詞』は紫式部のノンフィクションたる日記である『紫式部日記』を描いたものである。このことが、「詞書」の内容のみならず「絵」の表現の差異をも生み出すことになる。すなわち、『源氏物語絵巻』の登場人物の顔は「引目鉤鼻」というように単純化、あるいみではマンガのように表現されているのに対し、『紫式部日記絵詞』の登場人物などの方がより写実的である。
次に、人物から人物を取りまく画面構成の違いが見られる。まず、『源氏物語絵巻』は寝殿造の屋台から屋根や天井を取り去り、斜め上方から室内を見下ろす俯瞰的な構図の「吹抜屋台」という描法を用いている。もう少し分かりやすい表現をするならば、リカちゃんハウスなどのドールハウスを写真で写したような感じの画面構成である。これに対して、『紫式部日記絵詞』は吹抜屋台の俯瞰角度が高く設定されているため、視点が人物に付帯するというよりは、儀式の室礼の全体を眺め渡すような画面構成をしている。これももう少し分かりやすい表現をするならば、民俗博物館や郷土資料館の建築物モデルの部分的吹抜けをのぞくといった感じがする。
最後に、両者の全体的な装飾を含めた特徴の差異は以下のものである。
『源氏物語絵巻』は、「詞書」は流麗な仮名文字で書かれ、詞をしるした料紙は金銀の砂子をまき、野毛や切箔を散らすなどの贅をつくしている。これに対して、『紫式部日記絵詞』はそのような贅をつくすというよりも、濃彩つくり絵の技法を駆使したものとなっている。
三.二の両者の違いはどこから生まれてきたのかについては、すでに述べた様に、『源氏物語絵巻』が小説をもとにして描かれたものであるのに対し、『紫式部日記絵詞』が日記をもとに描かれたものであることに起因すると思われる。ある意味においてはフィクションたる小説は理想を語ることができるし、それを絵に描く場合においては現実よりも華々しく描くことが出来る。ましてや、それが光源氏を主人公とした『源氏物語』であるならば、金銀を散りばめたような「絵巻」物になっても当然ではないか。これに対して、『紫式部日記絵詞』は日記を「絵巻」物化したものである。しかも、本来は「詞書」と「絵」が一体となって作品を構成していたとするならば、「絵」の部分のみを見てもその華美を論ずることは早急な判断ではなかろうか。日本においては、書も1つの芸術として認知されてきたという歴史も忘れてはならないだろう。
最後に、私自身の両者を比較した後での感想を述べるならば、たとえ人物の顔が極端にデフォルメされた「引目鉤鼻」であっても、平安の「王朝文学」を素材とした作品としては、どうしても『源氏物語絵巻』の方を選択してしまう。それは、ある意味では定型化された「平安貴族」のイメージに支配されているのかもしれない。
―以上―
参考資料
①五島美術館HP
@コレクション
②立命館大学「『絵巻』の世界」展HP
(コメント)2013.10.07 合格
2つの絵巻の共通点(相違点)を論ずる場合、美術史のレポートなのですからもっと表現・技法といった様式的特徴について検討して欲しかった所です。相違した背景については、単にフィクションか否かという題材のみ要因とみるべきではなく(鎌倉時代に製作された物語絵巻を検討しましたか?)、より広い社会思潮・意識の差異を考えるべきでしょう。ホームページは参考文献とはいえません(文責が明らかでないなら)。(林)
(追記)
これと関係する記事を見つけたので、URLを貼り付けておくこととする(2013.10.30.)
https://blog.livedoor.jp/naotaka8787-dickenslove/