ga080 memento mori-死を想え-
11月5日(月曜日)
中野雅紀です。久しぶりに、gaccoの講義ga080 memento mori-死を想え-に参加していたのですがー二週間遅れでー、今日、最終レポートを提出して無事終了しました。法学概論の講義を終えて、レポートの採点を見てみると、○×問題と合わせて88点を超えたので、無事修了ということになります。ちなみに、レポートは以下のようなことを書きました。
(テーマ)死者にわれわれ生者は拘束されるのか
一. 鈴木先生は、柳田国男の戦前の思想に対して否定的であった。おそらくは、よほど田舎で、因習が強い地域に住む若者でもなければ、先祖供養をはじめとして亡き者、そしてその祭祀者である家族に拘束されるという考え方は、都市に住む若者にとっては、実際には少ないことではなかろうか。しかし、戦前の柳田は、ことさらに「イエの永続」を望み、その学説において主張した。反対に、アラフィフを迎えたわたしは、ちょうど柳田が戦後、「イエの寿命」に、その主張を変えた端境期に生まれ、育った。否、この端境期は、田舎から大学・短大に進学し、そのまま東京で就職し、生活した両親にこそ妥当する。死者は、生者を拘束するのであろうか。そのことを中心に、以下簡単ではあるが論述していくこととする。
二. 直感的にも、人の死は、「生存本能」や「自己保存本能」等という難しい言葉をつかわなくても、恐れるべきこと、怖いことであるという点は理解することはできる。また、家族制度においては、パターナリスティクな意味も含めて自分をこれまで守り育ててくれた、両親をはじめとする年長者の死は、その存在の欠乏や、これまでと同じように死んでも残された家族を守ってくださいとの念を発生させる原因となる。また、なにか死者に対して後ろめたい感じをもつと、それによって祟られるのではないか、祟らないでくださいとの思いを生むことになる。これを拡張すると、国家・社会の最小単位である個人や社会、ひいては社会・国家にまで及ぼされる原因となる。そこまでの議論は、このわたしでも理解できないことではない。しかし、死者は、死してもわれわれ生者を拘束し続けるのであろうか。先達を軽視することは駄目であるが、であるからといって生者が死者を中心に生きるということもまた、本末転倒なのではないか。イエスが、ユダヤ教に対して批判したのは、まさにこの「ユダヤ人にとって近親の死者を葬ることは、あらゆることに優先する務めであった」点ではなかったか。また、長男である父と喧嘩するとき、母がよく言ったように「わたしは、○○家の墓守の嫁として結婚したのではない」との主張も、よく聞かれる話題ではなる。
三. 鈴木先生のこの講義において、先生は「イエの永続」を説く戦前の柳田の主張に対して否定的である。しかし、それではお祖父ちゃん・お祖母ちゃんに対して薄情ではないか、あれほど一生懸命育ててくれたお父さん・お母さんに対してどう思っているのだということになりはしないか。しかし、鈴木先生の説明は、以下のように反語的にであるが、納得のできるものである。
最終講において、鈴木先生は「死者の記憶」は永遠かということについて語っている。
親愛の情をもつ対象の死者が いたとしても、もしも親愛の情がなくなれば 「一般的死者」になるし、あればそれがさらに 対面経験があるかないかでまたちょっと微妙な差が出てくる というふうに考えています。つまり 会ったこともない死者に対して 「意味ある死者」と思えるかどうかという部分ですね。...去る者日々に疎し」ということで、記憶の隅からだんだん抜けてくるところもあるわけですね。つまり、いつもいつも死者を忘れないという状態ではない ということですね。そうなってきたところで、「弔い上げ」で 先祖とか何かそういう○家先祖代々といった脱個性化した名称になるわけですね。「個の死者」だったのが「群の死者」になってしまう。...その裏に 今申し上げたように「去る者日々に疎し」というそうしたことがあるし、「個の死者」から「群の死者」へ というふうに考えた時、「個の死者」の記憶は薄れて「個の死者」は忘れちゃう。
四 人の肉体は滅びても、その精神は、人の心のうちに記憶されている限り生き続けるという考え方がある。鈴木説は、「死者の記憶」の強制を避けつつ、そこに個人の「死者への記憶」を考えている。