火曜日

2013年10月21日 14:09

 10月22日の備忘録。

 

 
 

リ・リアクション・ペーパー(Ⅰ)                 2013.10.23

文責 中野 雅紀

 

(教育・増山さん)

 「赤や青で書かれているところがありましたが、あそこは重要なところととらえて良いのでしょうか?先生の板書のルールやポイント等があれば教えてください。」

(回答)

 別にルールやポイントがある訳ではありません。ただ、書きやすいマジックインキがあったらそれを使っているだけです。重要なポイントは、括弧にくくったり、アンダーラインを引くことにします。

 余談ですが、かつて埼玉大学で教えていたとき、同じように使いやすいマジックインキを使っていたら、埼玉大学の学生が翌週に12色の色鉛筆を持ってきていました(笑)。ただし、他の学生からのリアクションペーパーでも赤マジックは読みにくいと書いていましたので、極力使わないようにします。

 

(教育・杉浦さん)

 「正直なぜ平等の話が出てきて説明されたのか、全体的なつながりが分かりませんでした。また授業もこのあとどのように進んでゆくのか分からないので予習をどのようにしてよいのか分からなくなりなやんでいます……。」

(回答)

 まず、オリエンテーションとして「平等原則」の判例を取り上げて、いわゆる「憲法判例」の概略を掴んでもらおうと、非嫡出子相続分違憲決定を説明しました。これは、別にどの判例でも構わないわけですが、今年9月の最高裁違憲決定なので取り上げました。唐突に、個別的テーマの判例で「大法廷」と「小法廷」の違い、「判決」と「決定」の違いを説明するよりもこちらの方が理解しやすいからです。

 全体的な授業の流れは、これから配るレジュメの内容に沿って行います。あなたは予習をしたいそうですが、わたしの講義は予習を必要としません。ひとつには、妙な色がつかない白紙の状態で講義に臨んでもらいたいことと、もうひとつには、予習の時間を復習の時間に回してもらいたいからです。講義を聴いてみて分からなかったことを、自分なりに調べて、自分なりのことばで理解することが重要です。だから、ノートはこの時間に採ったノートで満足するのではなく、さらに調べたことを書き加えたノートを作成してください。このようにすれば、最低でも三時間以上の自宅学習が必要です。

 

(教育・永瀬さん)

 「裁判の「判決」といえば、口頭弁論のイメージしかなく、「決定」という書面主義のものもあると知り、変な感じがした。裁判ドラマ等で繰り広げられるのも「判決」の方なのだろうか?」

(回答)

 あなたの理解で正しいです。そもそも、書面で審理される裁判を裁判ドラマにしても誰も観ません。対審構造を採り、検察と弁護士が丁々発止で争う「口頭弁論」だからこそ、裁判ドラマは観ていて楽しいのです。

 

 

 

 

(教育・永瀬さん)

 「平等権が初めて出てきたのはヴァイマール憲法(1919年)……?

  たしか、生存権だったような気もするが。

  だとしたら、生存=平等という考え方なのだろうかと少し疑問に思った。」

(回答)

 初等・中等教育の教科書的な回答であるならば、あなたの理解で充分です。しかし、生存権を最初に唱えたのは厳密に言えば、ヴァイマール憲法が最初ではありません。

 ジャコバン憲法(1793年)は、ロベスピエールの求めたように1789年のフランス人権宣言の内容を修正し、「人民主権」「抵抗権の政治的保障」および「生存権」を唱っていました。また、ジャコバンは平等思想を志向していたわけです。であれば、生存=平等ではありませんが、きわめて近い関係にあるといえます。

 

(教育・鴨志田くん)

 「質問があるのですが、①目的テスト、②手段テストというものがあるとおっしゃつていましたが、これらは国会で法律などをつくる際に実際に行われていることなのでしょうか。」

(回答)

 法律は国会で作られるわけですが、法律の第1条は、その目的が規定される場合がほとんどです。したがって、実際に国会で目的テストが審査されないということはないでしょう。昨日も、衆議院の国会中継がありましたが、そこはそもそも「世界征服」を目的とする法律案など通るわけがないので、たいてい、野党はその手段の相当性を問うことが多くなります。余談ですが、このような立法過程を審査に取り入れる議論としては「立法事実」論というものがあります。

 

(教育・長谷山くん)

 民主主義の国は相対的平等がとられるべきという理由は分かりましたが、逆に共産主義をとる国は絶対的平等がとられているのでしょうか?

(回答)

 原則的に民主主義国家は自由の尊重を基盤とし、共産主義国家は平等の徹底を基盤とします。したがって、あなたの理解は原則的に正しい。ただし、旧ソ連においても「ノーメン・クラツゥーラ」という特権階級が存在し、権力の腐敗が起こっていたことは有名です。

 

 

(農学・神宮寺さん)

 「先生は、合理性のバランスがとれていない例として、生類憐れみの令を出しましたが、私はこれは合理性があると思います。先生は手段テストで、刑や罰があまりにも苛酷すぎるということで、バランスがとれていないとおっしゃっていましたが、当時は日本統一してまだ間がなく、戦国と平安の間の時代だったと習いました。そして、綱吉は、戦国の命を大切さを無視した風潮を正すために、あえて苛酷な刑を設定したと聞いています。これは合理的ではないでしょうか。」

(回答)

 NHKの「歴史ヒストリア」では、あなたの理解のような解釈をしていましたね。しかし、そもそも「生類憐れみの令」自体が近代立憲主義思想に照らして法律ではないが、仮に現在の法律として妥当するとしてという仮説で、わたしは話を進めています。あなたの見解を採っても、生類憐みの令の目的:「戦国の命を大切さを無視した風潮を正す」ということは「正当」ということになり、次の手段テストの段階で見解が異なるわけです。

 ところで、近代立憲主義憲法の原則として「刑の権衡」という考え方があります。すなわち、江戸時代のような「10両盗んだら首が飛ぶ」ということは前近代型の「野蛮な量刑」であり、少なくとも「死刑に処するためには人の生命を奪っていなくてはなりません」。そう考えると、生類憐みの令は「動物」を殺すことに対して、殺した「人間」を死刑にするという点でバランスがとれていません。このような思想を学ぶためには、ヘーゲルの哲学を自習してください。このように、この事例はバランスがとり得ないゆえに、近代立憲主義に違反し、それゆえに「平等原則」に違反するわけです。

 ちなみに、あなたのリアクション・ペーパーに対応する別のリアクション・ペーパーがあったので参考までに引用します。

 

(教育・長尾さん)

 「生類憐みの令、久しぶりに聞きました。あれは手段の過激さ故に悪法と見なされていますが、近年では結果として、捨て子や華傾者の減少に繋がったとして、評価が見直されているようです。でもそれは要は結果論だし、目的と手段のバランスはつりあっていないので、やはり悪法だなと思います。」

 

 

 

 

 

(教育・木村くん)

 「平等権がなぜ平等権とあまり言われないのかがよくわからなかった。権利があるなら平等権と言うべきではないでしょうか。」

(回答)

 「平等権」を個人的な、つまり一人で侵害を主張できる「請求権」として構成することが出来ますか。たとえば信仰の自由であれば、侵害された個人が憲法20条の「信仰の自由」を侵害するなと主張することが出来ますが、「平等」は自分と比べて他者が優位に取り扱われているという自分以外の対象を必要とします。近代立憲主義は、個人主義を原則とするので、このような相対的な権利は「権利」とは言いません。

 もう少し分かりやすく言うならば、平等自体は「等しいものを等しく、等しくないものをその等しくなさに基づいて取り扱え」という要請であり、それ自体は内容的に「空虚」なものです。この内容を埋めるために、外部からたとえば、ある人には1時間立会演説する自由があるのに、自分には30分しかその自由が与えられないという他の人権の基準を導入する必要があるわけです。でも、この事例でのメインの権利は憲法21条の表現の自由であり、平等はその原則としてしか働いていないわけです。(分かりにくければ、ある人には投票価値が2票分与えられているのに、自分には1票分しか与えられていない場合を考えてください。この場合、たしかに平等原則違反ではあるけれど、権利としては憲法15条の選挙権の侵害を主張するべきです。)このあたりが、理解できないと法律学としての憲法を理解することは難しいと思います。ま~、それはおいおいこの講義を聴いて、復習を繰り返すことで身に付けていってください。

 

(教育・前田くん)

「もし、海外で無宗教と言った場合、葬式や婚礼といった文化が欠如した、人ということになるのでしょうか。」

(回答)

 葬式や婚礼といった文化が欠如した云々は、儒教的、あるいは葬式仏教的な発想に基づくものであると思いますが、おそらく、信仰がないと言えば「理性的ではない」と思われることになるでしょう。というのも、人間のみが抽象的概念を想起し、それを伝達し、コミュニケートすることの出来る動物だからです。そして、この抽象的概念の集積した最大の思想が宗教・神学ということになるからです。

 

 

 以上の観点から、なぜ、まどマギの最終回でまどかがみんなの記憶の中から消去されてしまったのかを考えてみるとおもしろい。

「さあ、鹿目まどか――その魂を代価にして、君は何を願う?」 
「――!」 
「その祈りは――そんな祈りが叶うとすれば、それは時間干渉なんてレベルじゃない!」 
「因果律そのものに対する反逆だ!」 
「はっ」 
「――君は、本当に神になるつもりかい?」

 

「まどかがもたらした新しい法則に基づいて、宇宙が再編されているんだよ」 
「そうか――君もまた、時間を越える魔法の使い手だったね」 
「じゃあ一緒に見届けようか――鹿目まどかという、存在の結末を」

 

「あれが、彼女の祈りがもたらしたソウルジェムだ」 
「その壮大過ぎる祈りを叶えた対価に、まどかが背負うことになる呪いの量が分かるかい?」 
「一つの宇宙を作り出すに等しい希望が遂げられた」 
「それは即ち、一つの宇宙を終わらせるほどの絶望をもたらすことを意味する」 
「当然だよね?」

 

「まどか」 
「これで君の人生は――始まりも、終わりもなくなった」 
「この世界に生きた証も、その記憶も、もう何処にも残されていない」 
「君という存在は、一つ上の領域にシフトして、ただの概念に成り果ててしまった」 
「もう誰も君を認識できないし、君もまた、誰にも干渉できない」 
「君はこの宇宙の一員では、なくなった」

 

「ふうん――なるほどね」 
「確かに君の話は、一つの仮説としては成り立つね」 
「だとしても、証明しようがないよ」 
「君が言うように、宇宙のルールが書き換えられてしまったのだとすれば、今の僕らにそれを確かめる手段なんてない訳だし」 
「君だけがその記憶を持ち越しているのだとしても――それは、君の頭の中にしかない夢物語と区別がつかない」 
「まあ確かに、浄化しきれなくなったソウルジェムが、何故消滅してしまうのか――その原理は僕たちでも解明できてない」 
「その点、君の話にあった『魔女』の概念は、中々興味深くはある」 
「人間の感情エネルギーを収集する方法としては、確かに魅力的だ」 
「そんな上手い方法があるなら、僕たちインキュベイターの戦略も、もっと違ったものになっただろうね」 
「君が言う、『魔女』のいた世界では、今僕らが戦っているような魔獣なんて、存在しなかったんだろう?」 
「呪いを集める方法としては、余程手っ取り早いじゃないか」 
「ふうん――」 
「やっぱり理解できないなあ、人間の価値観は」

 

「今夜はつくづく瘴気が濃いね」 
「魔獣どもも、次から次へと湧いてくる――幾ら倒してもキリがない」

 

 

 

 
 

 少し考えてみよう

 「このように、絶対的理念の正体は空無であり、したがって絶対的理念を主張すること自体が『絶対的理念の行動』であり『絶対的否定性』の威力の下に支配されることであるが、このことは一見近世の時代的条件の下での出来事のようにみえながら、実は人間存在固有の思考条件に深いかかわりをもっていることを知らなければならない。それはこの絶対的理念がいかなる『場』において成立するのかということを考えるとき、非常にはっきりする。絶対的理念が成立するのは、実体としての主観の場においてである。ところがこのような思惟の主体になっているものは、概念に化している『私』である。要するに、絶対的理念の実体をなしているものは、概念と化している『私』であり、絶対的理念とは、概念と化している『私』以外の何物でもなく、したがって結局は、絶対的理念とは、私そのものということになる。これは大変おかしいことであるが、このことの真のおかしさは更に次のことである。既に述べたように、絶対的理念は、『無い』ことにおいて『ある』のであり、抽象的な空無である。そうすると、絶対的理念になった『私』は、同時に『私』ではないのである。即ち、私が絶対的に私であろうとして、絶対者に私がなったと思った瞬間、それは私ではなくなっているのである。つまり、私は絶対的に私であろうとして、絶対者としての私に出会うことが起こったが、その私とは、何と『無』だというのである。つまり、近世の人間が、抽象的自己主張を何がなんでも絶対的になしおえてそこで出会うものは、空無としての自己であり、孤独な自己であり、『無』である。何という巨大なアイロニーであろう。このアイロニーが生ずるのは、人間の思惟における『有』にかかわってくる『無』は、その実体からいえば否定の威力…そのものであり、即ち、『無限にして絶対的な否定の威力』そのものであることによる。このように『無』の『絶対的否定の威力』を知らないで『絶対的理念』の自己主張をなし、その否定の威力の餌食になって空無としての自己としか出会えない状態にあるのが、近世の思弁主義である』(大谷・池上・小松『現代倫理学の諸問題』(慶應義塾大学出版、1995年)p.86-87)。

 補助線として

 ①「人間は、自らを全知全能なる者と信じ込むようになったのである。こうして神の座につき、自らを絶対者、全体者、神にした人間は、その高みから、自然と歴史と世界の全体を一望のもとに見晴そうとし、その壮快な気分を、こよなく愛好した。このようにして人間は、自らを、『見る側の席』に着け、自らを、『見る者』となしたのである。即ち、人間は自らを『主観』(subjectum)となしたのである。元来、主観(subject,Subjekt)という言葉のもとをなすこのラテン語のsubjectumという言葉には、いわゆる今日いう主観という意味はなく、『基体』とか『実体』という意味をもっていた。したがって中世の基本的な考え方によるなら、subjectumといえば、自然や神の方をさし、今日の言葉でいえば客観の方であった」(同書p.57)、

 しかし、独我論を撮らないとするならば以下の問題に直面する

 ②「個々人の主観的な意識のはたらきから現れているこの私的な世界は、既に単なる私だけのものではなく、他我の世界、この世界には精神―身体的要素として現れている他者の世界でもある。私の構成する意識の主観的な領野における他者の出現は、私の生活世界を、相互主観的な文化の世界となさせる。……他者とわれわれの共同生活は、そのあらゆる局面が、単にわれわれの生活世界のなかで起こっているだけでなく、その世界の本質的な構成要素なのである。それだから、社会的世界のすべての形態が、生活世界の構成についての調査の枠組の中で、調査されうるし、またそうされるべきである」(同書p.215-216)。

 この補助線の下に、上述の文章の「私」に「まどか」を当てはめれば、なぜ、女神まどかが世界の中で認識されえないかということがわかるような気がする。絶対者は孤独なのである。

 

 その他の質問

 一番多かった質問は、「遡及」について分かりづらかったというものでした。前回は漢字を度忘れしたので、わたし自身の説明の仕方が歯切れよくなかったと反省しています。しかし、ここで「遡及」の説明の反復はあえて控えます。というのも、この後の判例の解説で何回かまた出てきますので、その都度、説明した方が教育上の効果があると考えるからです。