王の二つの身体

2014年05月10日 21:12

5月8日の備忘録。

 

 9時50分、駅前のすき家で牛小鉢たまご朝食 302円を食べる。

 

  13時24分、大学近くのガストでQUOカードを使ってバーグ2  499円を食べる。

  16時20分から17時50分まで、B203で「法と社会」の講義を行う。

  先週に引き続き、「イワン雷帝」の第二部を学生たちと一緒に鑑賞し、講評を加える。

  先週、学生に課したレポートがよく書けていたので以下に内容を書き込む。

 教育学部社会   A・T

   今回、私は『王の二つの身体』(作者:エルンスト・H・カントロヴィチ)と『イワン雷帝』の関連性について考えてみたい。私がこの著書と『イワン雷帝』がつながっていると考える場所が二こほどある。まず、p.224l11-13の「キリストがその頭であると同時に夫でもある、超個人的なキリストの集団的身体たる教会は、その正確な対応物を、君主がその頭であると同時に夫でもある、超個人的な君主の集合体たる国家の中に見出したわけである」という部分だが、これは『イワン雷帝』でイワン皇帝が大貴族による多頭政治を否定した最初のシーンにつながると考える。イワン皇帝はロシア全土を統治する専制政治が必要と半ば強硬に周囲の人々を従わせていたが、上記の著書の内容が中世の政治思想としてあるならば皇帝の行いは当然の流れであると考えられる。君主は「その(国家の)頭であり、同時に夫でもある」ということから頭は必ず1つであるし、夫も必ず1人であるために多頭政治は否定されて当然であり、1人の君主が専制政治をすることは当たり前だとイワン皇帝は考えたのではないかと私は思う。次にp.237l3-4の「世俗国家は―これに対する対型を確立することによってこれに処すべく―ほとんど否応なしに教会の模範に従うことを余儀なくされた。」という部分で、これは、映画のほぼ全てにわたって教会が多大なる権力を握っている様子が描かれていたことにつながると私は思う。この著書を読んで感じたことはキリスト教の考え方が先に発展しており、国家での統治についての政治の考え方はだいたいキリスト教の教会の考え方を模倣したものであるということがわかった。王の二つの身体(生身の肉体と、政治的身体)という考え方もキリスト教の教皇のあり方からできた考えであるということも知り、ヨーロッパ世界での教会の持つ権力に改めておどろかされた。このような経緯から中世のヨーロッパ社会では教会の力は絶大であったことがよくわかった。そしてイワンがロシア皇帝に就任する際も、神から認められるということであくまで教皇が皇帝を任命するという形がとられていたのではないかと考えた。

 以上2つが私がこの著作から『イワン雷帝』につながっていると考える部分としたい。

 18時59分、駅構内の吉野家で牛丼並 300円を食べる。