真善美
そもそも、わたしが哲学的関心を持つにいたったは、どこに由来するのかと考えたとき以下の二つの理由が考えられる。ひとつはわたしは上高田の哲学堂公園の近くで生まれたこと、もうひとつは母校である寝屋川高校の校歌が「真善美」の追究をメインにした、歌詞であったことがあげられる。昨日、youtubeを見ていると寝屋川高校の校歌がアップされていることを見つけた。しかし、この歌詞は自分の母校であるからというわけではないが、なかなか良いものである。
真善美 そは吾等の生命(いのち). この生命( いのち) いかに生かさむ. 憧憬(あこがれ)の眸(ひとみ)の奥に. 情熱は清らに燃ゆる. 野花(やか)匂ふ河内平の一角. ほがへ学徒の幸を. うら若き吾等は学徒
歌人の今中楓渓が作詞したからではない。他の高校の校歌に見られるように学校名を連呼することなく、校訓をのみを生かした歌詞は秀逸である。ま~、高等女学校が前身だから、その歴史を残そうとした結果であることも否定できないが、わたしの通った学校の中では好きな校歌である。
いうまでもなく、真善美とはプラトンの説いた人間の追究すべき価値であるということを、この歌詞から学んだ。
昨日は、相変わらず風邪の状態が改善せず、午前11時頃に本務大学に出勤。お昼休み前後に生協の床屋さんに行って、いつものように髭の手入れと、洗髪をしてもらう。おばちゃんの話では、午前10時ごろに佐々木先生がお店に来て、散髪をしていったらしい。佐々木先生は10年程前に退職されたのだが、散髪はこのおばちゃんの店と決めているようで、15年来、この店で散髪・洗髪を行っているわたしと共に常連客である。ちなみに、佐々木先生は野口雨情の研究の第一人者である。
午後2時40分から1時間半、日本国憲法の講義。内容は、戦争には防衛戦争と侵略戦争があるということ、生物には自己保存本能があるので、それを守るために最低限の防衛戦争は国家に認められるのではないか、ということを話した。来週はゲーム理論との関係でスタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』を鑑賞することにした。
午後4時20分から1時間半、法学概論の講義。内容は、国立マンション事件を取り上げて、景観権と都市計画のバランスをどのように取ればよいのかを話した。授業の後、公開授業なので授業を履修している、わたしの親父と同じ程度の年齢の学生から、犯罪抑止の関係から処罰の厳格化をした方がよいのではないか、との質問を受けた。この話を新派と旧派の学説論争の話に遡って説明したのであるが、果たして理解してくれたのであろうか。
バスに乗って駅まで戻って、吉野家で夕食を食べた後、帰宅。午後7時過ぎから1時間程度、母親と定期連絡の電話をしてから、身体がだるいてのではやめに就寝した。