箴言(1)

2013年01月10日 18:31

 家庭教師を付けた子供の成績があがらないのに業を煮やした親に向かって若き日 の法律学者が書いた言葉

「いかに錬金術が発達するも銅はついに金にはならず候」 
 

 「どうして、あなた達に私の話が理解できないのか?それは、私の言葉を聞こう としないからである。あなた達は、悪魔を父に持ち、その父の望みを行おうとして いる。彼は、真理において固まっていなかった。なぜなら彼には真理がないからである」 
 (ヨハネ福音書八章四三~四四節) 
 

 「人間は、その神によって一個の不滅の魂をもった神の姿に似せて創りだされ、 そうすることによってとりわけ他の被造物との差異を際立たされ、そして神の対話 のパートナー、いやそれどころか同盟者とされたのである。‥‥‥人間は、自明な こととして自らを特別な尊厳をもっているもののように考え、自己目的として、たとえば後にカントがいったような『絶対的内面の価値』をともなった『目的それ自身』として理解した。さらに、自らの精神的な能力により、自らを創造者として理 解したのである」

 ハッソー・ホフマン/古野豊秋・中野雅紀訳「ヨーロッパの視点における人間の尊厳と自然観」 ドイツ憲法判例研究会編『人間・科学技術・環境― 日独共同研究シンポジウム―』(信山社、1999年)148頁 

 

 「ユダヤの終末論―バビロニアに起源をもつ―において、ビヒモスとリヴァイアサンは 二つの怪獣で、ビヒモスが陸(砂漠)を、リヴァイアサンは海を支配し、前者は雄、後者は雌 といわれている。陸に棲む動物達はビヒモスを、海に棲む動物達はリヴァイアサン を自分達の主として崇める。いずれも混沌の怪物である。黙示録によれば、 ビヒモスとリヴァイアサンは世界の終末直前に現れることになっている。 そして彼らは恐怖の支配を確立する―が神によって亡ぼされることになる。 他の諸説によると、ビヒモスとリヴァイアサンは絶えまなく互いに相争い、 結局は同士討ちになっていずれも亡びてしまうことになっている。 かくして正義と公明の意志の日がやって来るのである。 動物達は神の王国の再現を予告する饗宴において両方の肉を食ってしまうのである」

 (フランツ・ノイマン/加藤栄一・岡田友幸・小野英祐共訳『ビヒモス―ナチズムの構造と実際―』(みすず書房、1963年)1頁) 
 

 かつてフランシス・ベーコンは、神を拒否する者は人間としての高潔さを失うと述べたことがある。 
 「なぜなら人間は疑いなく、その肉体によって野獣の同族である。そして、もし人間が精神によって 神に似ていないとしたら、卑しく下劣な生き物になる」

 (山内昌之『歴史の想像力』(岩波現代文庫、2001年)65頁)

 

 「バカとはだれのことか。とりあえずは右のような人間がその一部だが、一口でいうのはなかなか困難である。バカもなかなか複雑怪奇で多種多様だからだ。ただ、バカとは、モノを知らないといういうことをかならずしも意味しない。‥‥‥地図上で北京を指差せといわれて、ギリシャあたりを指差したりする女が実在するが、これはたしかにバカといえばバカであろう。しかし正確には、むしろ無知というべきである。だがこんな単純バカ(無知)は本書の対象とする『バカ』ではない。モノを覚えればそれですんでしまうだけの話だからである‥‥‥」 
 (勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書Y、2002年)4―5頁)

 

 「あの人ですよ 確かにヒドイ碁 を打っています」「今打った方が 格段に実力は まさっています」「ですが 彼の打つ手に 正しい手は ひとつも ありません」「相手が 弱いとみての ムチャな攻め 撹乱させるだけの 無意味な手」「慈悲のない!」「もう ガマンできません ヒカル あの人と かわって下さい」「おびえきっている あの人にかわり」「私が 打ちます」「強い者が 弱い者を いたぶる 碁なんて 私はゆるせません!」 
 (原作ほったゆみ/漫画小畑健/監修梅澤由香里『ヒカルの碁① ○棋聖降臨○ 』47―49頁) 
 

 「劇中の善悪の区別は双方の言い分の内容によって決定するわけではないというということである。つまり正義を主張する者が主人公なのではなく、主人公の主張が正義なのである。作品を観る者は登場人物の言い分の正当生、妥当性を考える必要はない。高倉が、鶴田が正義であり、彼らの言動がその映画の『任侠道』であることが理解できれば良いのである」 
 (石塚洋史「東映仁侠映画の時代―『博奕打・総長賭博』を中心に―」(掲載紀要検索中)140頁) 
  
 1961年5月のヨハネ23世による回勅「マーテル・エト・マジストラ」より 
「『人生観を同じくしない人々』と『他者の立場を理解して、自分だけの利益を求めることなく、もともとよいものか、少なくともよいものに導きうる事柄には、忠実に協力すべきである』」 
 (小坂井澄『ローマ法王の権力と闘い』(講談社+α新書、2002年)148頁)

 

 「なにかあると『議論を』というのである。いったい議論で決まることなどほんとうにあるのか。『もっと国民全体で議論しなくちゃいけない』って、いったいどうやって『国民全体』で議論するのか。暴力、権力で物事を一方的に決めてはいけない、もっと理性的にだれもが納得できるようなやり方で決めるべきだ、というのだろうが、そのためには自分の考えを真に吟味して、感情は殺して、相手の考えを虚心に検討する態度が必須である。自分に非があれば、素直に認めることができ、きちんと謝罪できる力を備えていなくてはならない。だが、議論する人間にそんな度量があるのか」 
 (勢古・前掲書194頁)

 

 「(一)兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。(二)盗賊が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。(三)人々が『無事だ。安全だ』といっているそのささやきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやってくるのと同じで、決してそれから逃れられません」 
 (聖パウロ『テサロニケの信徒への手紙一』(新共同訳)第五章第一~三節)

 

 宇宙世紀0083年11月16日のティターンズ設立を宣言するバスク・オム大佐の演説 
顧みよ!今回の事件は地球圏の静謐を夢想した一部の楽観論者が招いたのだ。デラーズ・フリートの決起などは、その具体的一例にすぎぬ。また、3日まえ、北米大陸の穀倉地帯に大打撃を与えた、スペース・コロニーの落下事故を見るまでもなく、我々の地球は絶えず様々な危険に晒されているのだ。『地球』!この宇宙のシンボルをゆるがせにしないためにも、我々は誕生した。『地球』!誠の力を再びこの手に取り戻すため、『ティターンズ』は立つのだ!」 
 (地球連邦総合大学リーア分校GUNDAM OFFICIALS:研究室編『機動戦士ガンダム公式百科事典完全対応副読本!』(講談社、2001年10月)180頁)

 

「いまやクーマエ(の巫女)による最後の予言の時代が到来する。 
 大いなる時代のサイクルが生じる。 
 今や処女神(アストレア)が戻り、サトゥルヌスの治世が再来する。 
 新しい子孫が天空より下る。 
 汝、汚れなきルキナ女神よ、生まれた少年を祝福せよ。 
 彼の時代と共に世界の鉄の種族が止まり 
 黄金の種族が興るだろう(‥・) 
 (ウェルギリウス『牧歌(Eclogue)』第四~十行)

 

 無限の神は記述することも理解することも不可能であるというあるカバリストの言葉 
 「われわれのいうところの、かのエン・ソフは、トーラーにおいても予言者たちにも、また旧約聖徒伝においてもタルムードの賢者たちの語録にも、まったく言及されていないことを知れ。すなわちただ師家たちのみが、これについてかすかな暗示を受けていたのである」 
 (アミ―ル・D・アクセル『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(早川書房、2002年2月)44頁)

 

 「ニコラウス・クサヌスは高位の聖職者であったが、それだけでなく円や多角形を研究し、後の章で取り上げる円積問題に挑んだ数学者でもあった。たとえば彼は神の知を円になぞらえ、人間の知を円に内接する多角形になぞらえた。そして、人間の知が増大するにつれて多角形の辺の数は増えていき、いずれは無限に近づくという極限論を作り上げたのである。しかしニクラウスは、人間の知がどれほど増大しようとも、ちょうど円に内接する多角形が円そのものには決してならないように、神の知には決して到達できないと論じたのだった」 
 (アミ―ル・D・アクセル・前掲書52頁)

 

 「もっと気をつけたいことは自己愛が傷つくことを恐れるあまり、不用意な自己防衛をしてしまうケースです。/たとえば、『その気になれば(勉強)できるけど、後でやればいい』といった台詞によく現れています。どういうことかといえば、勉強やらないでできなくても自己愛はそれほど傷つかないが、勉強してできなかった場合、自尊心や自己愛が傷つくことを何よりも恐れているのです。/このタイプの人は、無意識のうちに安易な心理的自己防衛をしているのです。こうした心理状態が習慣化すると、モラトリアム的言い訳を繰り返すことになるわけです。」 
 (和田秀樹『この差はなにか?勉強のできる人できない人―頭の問題か?やり方か?環境の問題?(中経出版、2002年2月)36頁』

 

 「ビザンツ時代のギリシャ語をビザンツ時代の発音で表記するのが最も論理的である。そして日本の研究者がビザンツ時代のギリシャ語を欧米諸国語とは全く異なる日本語で表記する場合に、欧米諸国語の真似をする必要がどこにあるのか。我々のビザンツ史研究は欧米の研究を手がかりにして進められてきた。そして今後も欧米の研究を無視しては行えないだろう。だからと言って何でも安易に真似をすれば良いのか」 
 (尚樹啓太郎「わが国におけるビザンツ史研究について―ビザンツ時代のギリシャ語の発音表記をめぐって―(『史学雑誌』第110編第4号、2001年4月)88頁」

 

 「どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、それとも寄せ来る怒涛の苦難に完全と立ちむかい、闘ってそれに終止符をうつことか。それが問題だ。」 
 (シェークスピア『ハムレット』第三幕第一場)

 

 「こうして、「私とは何か」という問いは「『私とは何か』と問う者とは何か」という問いに変質する。しかし、この問いも、たちまちのうちに「『〝私とは何か〟と問う者とは何か』と問う者とは何か」という問いに変質する……こうして無限に至る。誰でも、「私とは何か」と問いはじめるや否や、この問いにからめとられて、身動きできなくなるのである。」 
 (中島義道『カントの自我論』(日本評論社、2004年)2-3頁)

 

 「現代は本質的に悲劇の時代だ、と、ロレンスはいう。では、コニイとメラーズの恋も悲劇なのであろうか。そうではない。少なくともロレンスは悲劇として描こうとはしなかった。性的に不能な夫に恭順に仕える日々を送っていたコニイと、孤独な隠遁生活を送ってきたメラーズが、大自然のリズムに帰一していくような性愛の体験に力を得て、土に親しむあらたな生活のうちにみのりある将来を展望するに至る恋愛劇は、悲劇であるどころか、悲劇の時代にあって、ユートピア的なほのぼのとした温かさに包まれている。」 
 (長谷川宏『哲学者の休日』(作品社、2001年)140-141頁)

 

 「ちゃんとやれば、どんなことでも、なんとかなるものなんです。 
 どうもこのところの日本は、悪い悪いと言う風潮に踊らされているように思えてならない。 
 悪いに決まっている、と思いこんでいるから努力しない。 
 そういう空気をよしとしている。 
 そんなだから、駄目なのです。必要以上に萎縮しているんですね。 
 とにかく、まずもっと胸を張って、そして頑張るべきです。」 
 (小柴昌俊『やれば、できる』(新潮社、2003年)171-172頁)

 

  「もし両方が同じ価値を持つのであれば、いずれかの価値を増すことで、そちらの方が善いといえるようになるはずである。たとえば、すぐれたバレリーナであるだけではなく、すぐれた舞台演出家としても活動するというように。単にすぐれたバレリーナであるよりは、同時にすぐれた舞台演出家でもある方が善いことといえるだろう。しかし、それと有能な政治家として一国の政治を指導することを比べたとしても、やはり、どちらが善いとはいえない。つまり、芸術家としての生き方と政治家としての生き方とでは、両方を比べる共通の物差しが欠けている。」 
 (長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)54-55頁)

 

 「むしろ、自己を悪とすればいいのです。『自分は本質的には悪だからこそ、悔い改めるのだ』と自覚すればいいのです。『むしろ、内なる悪と共存しつつ、これを強い意志で統御してこそ、善はより善の輝きを増すのではないか』と。 生きることは悪をも生きること―それが〈実在〉するわが〈生〉です。 つまり、悪人ゆえに悪の何たるかを身を以って知っているからこそ、真の正道に立ち返ることができるわけです。」 
 (荒巻義雄『ローマ人が描いた世界地図』(青春出版社、2002年)75-76頁)

 

 「カントはヨブの誠実さと率直さにその良心を見ている。冒頭で神と悪魔のやりとりがあるが、その際、神はヨブの誠実さを悪魔に対して保証し、神は自信をもってヨブを悪魔の手にゆだねる。それは、神が良心の絶対不謬性を知っているからである。神はただそのことをヨブを通して証明しようとし、同時に人間の誠実さをも試そうとしているだけである。」 
 (石川文康『良心論―その哲学的試み―』(名古屋大学出版会、2001年)158頁)