米長永世棋聖

2012年12月20日 10:00

 12月19日、相変わらず体調が思わしくない。原稿の執筆も遅々として進まない。

 新聞を読んでいると、大学の先輩である米長邦雄永世棋聖の死去が報じられていた。わたし自身は、木村草太氏と異なって将棋はぜんぜん得意ではない。いや、持ち駒制がなければチェスはやっていたことがあるのでそれなりに戦えるが、相手の持ち駒の使い方まで―健さんなみに不器用ですから―計算に入れると、作戦が練れずに勝てる試合も落としてしまう。ということを前提に、今日のブログの話をすることにする。

 わたしは大学時代、友達の水野氏が人物研究会なるサークルに入っていたので、毎月、ゲストを大学に招く際に候補者の選定を頼まれていた。ちょうど、米長氏が四冠王になった年だったかと思うが、米長氏は母校の先輩なので講演に来てもらってはどうかと彼にアドヴァイスした。そこでの話で覚えているのは、実は上述の持ち駒制であった。戦争後、GHQはいろいろな統制をしたが、日本将棋連盟に持ち駒制のある日本の将棋は日本軍の捕虜虐待と同じで、捕虜を兵隊として最前線に出して戦わせているから禁止せよというものであった。氏は佐瀬氏の弟子であったが、升田幸三氏に可愛がられていたから、そのとき、マッカーサーに掛け合った升田氏の説得術を話してくれた。升田氏は持ち駒制は捕虜虐待ではない、否、降伏した一兵卒であっても士官になる成駒制があるのであるから、これは西洋の騎士道にも通じるものであると主張し、マッカーサーもその勢いに飲まれて将棋を禁止しなかった、とのことである。したがって、米長氏によれば、升田氏こそ日本の将棋界の命の恩人だそうである。その次に、わたしが水野氏にアドヴァイスして講演に来てもらったのは『ミカドの肖像』で大宅壮一賞をもらったばかりの猪瀬直樹氏であった。その猪瀬氏が、先週、ついに東京都知事になるとは、その当時、思いもしなかった。これらの講演で主催者側のメリットとしては、事前交渉で自宅や事務所に伺いお話をしたり、その後、興が乗れば飲み会になって砕けた話ができることであった。

 あれから、四半世紀かと思うと時のの過ぎゆくはやさを感じざるをえない。米長先輩のご冥福をお祈りします。

 (追記)面白いもので、田舎の人は一定年齢上のお年よりは将棋も囲碁も普通に楽しんでおり、そして格段に強い。そして、これは瀬戸内に限られるのかもしれないが、将棋よりも囲碁をする人が多い。うちの親父もご多分に漏れず脳梗塞に倒れるまではゴルフに凝っていたが、右半身が不自由になってからインターネット碁にはまっている。ちなみに、マンガでいえば能條純一の『月下の棋士』からほったゆみ・小畑健の『ヒカルの碁』辺りから将棋→囲碁といったような風潮があるような気がする。お魚くんのお父さんも木谷門下の宮澤九段の息子さんだし、冲方丁『天地明察』も囲碁界の話と深く関わるから、この調子でしばらく囲碁ブームは続くのかもしれない(冲方丁氏には、第一部で中断している『ピルグリム・イェーガー』の第二部の原作を再開してもらいたい)。

 ちなみに、 『ピルグリム・イェーガー』については《ピルグリ覚え書き》を参照してください。

 https://www.aurora.dti.ne.jp/~eggs/pilgri.htm

 最後に、わたしの母校寝屋川高校は大阪では数少ない府立の全国高校野球大会の春夏出場校であり、1974年には全国囲碁選手権大会で団体、個人で優勝している。これに騙されて、寝屋川高校に進学した同級生も少なからずいた。