論文

2014年05月13日 22:29

5月13日の備忘録。

「人間の尊厳」あるいは「人間理性」は、人間の「万物の霊長性」を基礎づけることが可能か

第一章 問題の所在

 第一節 国際的な太地町のイルカ追い込み漁、あるいは日本の調査捕鯨批判

 第二節 なぜ、われわれ日本人はこの批判を甘受できないのか

  『白鯨』と『ピノキオの物語』におけるクジラの位置付けの変化

   中世《ベスティアリBestiaire》(キリスト教動物寓意譚)

     『白鯨』悪魔の化身→『ピノキオ』キリストの復活(ヨナ記)

  しかし、その根底にあるのは以下の思考枠組みだったハズ

 「また、中世以来ヨーロッパに成立した〈存在の連鎖〉という発想にしても、一見すれば人間と動物の格差を縮める考えであるようにみえた。なぜなら、上は天使から下は微生物まで地上の全存在が完成度の高い順に途切れない階層をなして並ぶ、との発想につづくのは、当然ながら〈人間と動物の連続性〉を認める議論だからである。ところが、〈存在の連鎖〉が実際に教えたのは、地上の優劣だけであり、天使にもっとも近い人間がふたたび動物を超える存在であることを誇示したにすぎなかった。」(荒俣10頁)

それを根拠付たのが、神の似姿、人間の尊厳、個の自律、功利主義といった思想

この近代立憲主義につながる思想自体に準拠することはやぶさかではないが、この枠組み内の概念や象徴の欧米の都合の良い理論操作には納得できない。←これを如何に反証し、反撃を加えるのかが論文の狙い。当然のことながら、「人間の尊厳」、あるいは「人間理性」は、人間の「万物の霊長性」を基礎づけることが可能か、と 

はわたしは基礎づけることが可能だと思うが、シーシェパードのみなさんは、自分自身の主張に拠って立つ基盤に破綻を来たさないのかという意味である。

 第三節 論文構成

 哲学史的考察を編年体で批判的に概観し、そしてその具体的応用編をロバート・ノージックらの考えを借りてSF的仮想事例を設定することで検証する。だだし、一週間前にエリザベート・ド・フォントネ/石田・小幡・早川訳『動物たちの沈黙 《動物性》をめぐる哲学試論』(彩流社、2008年)を読んで、これと被らないようにそれぞれの時代の代表的思想をどう取り上げるのか、検討を必要とすると思っている。


第二章 古代ギリシア思想からキリスト教思想全盛期までの生物の位階

  第一節 古代ギリシアの思想―アリストテレスの性質説(目的説)とその周辺

  第二節 ヒエラルキーの源泉―ディオニュシオス・アレオパギデスの『天上位階論』と『教会位階論』とその周辺←オリジナリティーの発揮の場

  「(被造物の)発出の過程が一性から多性への分化、分割という下降の弁証法であり、その逆の多性から一性への還帰の過程が一化、統一という上昇の弁証法である。この二種類の弁証法によって、最高の普遍的一性においてある神性の根源……から最低の特殊的多性においてある被造物に至るまでの一切がヒエラルキーを成す構造的関連において理解される」(今347)

  第三節 ルネサンス前期の天使と人間と動物《獣》の位置関係―ジョバンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ『人間の尊厳について』とその周辺←オリジナリティーの発揮の場

 「そこで、造り主は人間を、不定な姿をした作品として受け取り、世界の中心に置いてこう話しかけられた。「われわれは定まった座も、固有の姿形も、おまえ自身に特有ないかなる贈物も、おおアダムよ、おまえにあたえなかった。それというのも、おまえの願い、おまえの意向にしたがって、おまえが自分で選ぶその座、その姿形、その贈物を、おまえが得て、所有せんがためである。他のものたちの限定された本性は、われわれによって規定された法の中に抑制されている。おまえは、いかなる制限によって抑制されることもなく、その手のなかにわたしがおまえを置いたおまえの自由意志にしたがって、自分自身に対して自分の本性を指定するであろう。世界のなかにあるものすべてを、いっそう都合よくおまえがそこから見まわせるように、わたしはおまえを世界の中心に置いた。われわれはおまえを、天のものとも地のものとも、死ぬべきものとも不死なるものとも、つくらなかった。それというのもおまえが、あたかも専断的な名誉ある造り主であり形成者であるかのように、自分の選り好んだどんな姿形にでも自分自身を形作りえんがためである。おまえは、獣であるところのより下位のものに堕落することもできるであろうし、おまえの意向しだいでは、神的なものであるところのより上位のものにも再生されることもできるのである。」(佐藤三夫206-207)

  第四節 小結


第三章 近代国家成立期から啓蒙思想期までの生物の位階

 第一節 獣に対する支配権は自然の権利である―あえて、『リヴァイアサン』と『ビヒモス』ではなくてDe Civeにおけるホッブズとその周辺

 「ユダヤの終末論―バビロニアに起源をもつ―において、ビヒモスとリヴァイアサンは 二つの怪獣で、ビヒモスが陸(砂漠)を、リヴァイアサンは海を支配し、前者は雄、後者は雌 といわれている。陸に棲む動物達はビヒモスを、海に棲む動物達はリヴァイアサン を自分達の主として崇める。いずれも混沌の怪物である。黙示録によれば、 ビヒモスとリヴァイアサンは世界の終末直前に現れることになっている。 そして彼らは恐怖の支配を確立する―が神によって亡ぼされることになる。 他の諸説によると、ビヒモスとリヴァイアサンは絶えまなく互いに相争い、 結局は同士討ちになっていずれも亡びてしまうことになっている。 かくして正義と公明の意志の日がやって来るのである。 動物達は神の王国の再現を予告する饗宴において両方の肉を食ってしまうのである」(フランツ・ノイマン/加藤栄一・岡田友幸・小野英祐共訳『ビヒモス―ナチズムの構造と実際―』(みすず書房、1963年)1頁)

  獣に対する支配権は自然の権利である

 「我々は、非理性的な動物に対する権利を、我々が人間の法的な人格に対して行ったことと同様の方法、すなわち、武力や自然的な力で得ることができる。というのは、自然状態においては、それが万人の万人に対する戦争状態なので、全ての者にとって彼らが善であると思われる時はいつでも他者から奪い殺害することが合法的であって、このことは野獣に対してはより以上に合法的になるからである。つまり、それらの野獣を、使役のために飼い慣らし、適応させ、行動の自由を隷属の状態に落とすこと、その他には危険で有害な絶え間ない戦争によって、虐げ滅ぼすことである。したがって、動物に対する我々の支配権は、その起源を「神の実定的な権利」からではなく「自然の権利」から持つ。というのも、もしそのような権利が聖書の出版以前には存在しないとしたら、聖書において神の意志が明らかにされた者を除いて、いかなる人も権利によって食物とするために野獣を殺すことができず、野獣は侵害なしに人間をむさぼり食うが人間はそれらを倒すことができないという、人間にとって実際のところ最も困難な状況となるからである。したがって、野獣が人間を殺害することが自然の権利から生じるように、また、同じ権利によって人間も野獣を殺害することができる。」(伊藤・渡部訳916-917)

 第二節 人間と動物の相違は、動物の誇りと卑下の原因が精神ではなく、身体にだけあることによる―ヒュームの『情念論』とその周辺

 「これらの情念の原因は、われわれ人間が動物より優れた知識と知性を持っているということを〔以下のように〕割り引いて考えるならば、動物の場合にもわれわれの場合にもほぼ同じである。〔人間の優れた知識と知性ゆえに生じる動物との相違は以下のようなことである。〕たとえば、動物は徳や悪徳の感覚をほとんど、あるいはまっく持っていない。彼らは、血縁の関係をすぐに見失ってしまうし、権利や所有の関係を持つことは不可能である。以上の理由で動物の誇りと卑下の原因は、ただ身体にだけあるに違いない。つまり精神にも外的対象にも原因が置かれることはあり得ない。しかし、身体に関するかぎり、人類の場合と同じ性質が動物においても誇りの原因となる。すなわち、この情念に基づいているのは、常に〔身体の〕美しさ、強さ、速さ、およびその他の有用な、または快い性質なのである。」(石川・中釜・伊勢訳62-63)

 第三節 人間が人間たる所以は、人間(人類)が道徳を完成させるという、その使命の完遂のために絶え間なく接近する道を歩むことにある―カントの『人間学』

 とその周辺

 「人間は一方でその本姓〔自然〕に駆り立てられたえず幸福を得ようと努力するが、他方理性は幸福を抑制する製薬として、その前に(幸福であることに値する尊厳を体現すること)つまり道徳性を守れという条件を課するので、〔性欲や科学の場合と〕同様に幸福の実現に関しても人類は、その使命を果たすことはほとんど覚束ないように思われる。―自然状態から敢然と脱出しようとする人類についてルソーは心気症的な(ご機嫌斜めの)描写を描き記しているが、必ずしもこれを彼の本心と見なして再び自然状態へ回帰して森のなかに戻りましょうという呼びかけと受け取る必要はないのであって、ルソーはあのように描写することによって人類が〔道徳を完成させるという〕その使命の完遂に絶え間なく接近する道を歩むことがいかに困難であるのかを表現したのであった。彼の真意がどこにあったかを勝手にでっちあげてはいけない。―〔ルソーでなくても〕どんな思想家であれ、古代から現代に至る経験を顧みる者はみな、われわれ人類にいつの日か〔道徳的に〕いっそう善なる状態が訪れるのであろうか、という問題に取りくんだ末に、これに懐疑的になることは避けられないのである。」(渋谷・高橋訳319-320)

 第四節 小結


第四章 19世紀から現代に至るまでのポップな思想

  第一節「キリンの首はなぜ、長い」―ダーウィンの進化論とその周辺

  第二節 「最大多数の最大幸福」は『ソラリスの海』か―ベンサムの功利主義とその周辺

 「つまりここでは、我々が他者の快苦を自らのものとは等しく計算しないことにによって、人格を通じた快楽の最大化が失敗しているのだ。現在の自分にとって見れば、将来の自分も現在の他者も、現に経験することのない存在であるという点では異なるところがない。にもかかわらず、我々のそれに対する態度の差から、両者に対する幸福の最適化に違いがもたらされるのである。だとすれば―自らの原理に忠実な功利主義は言うことになるだろう―そのよう障害は取り除かれるべきではないか。すべての人格のあいだの境界を取り除き、他者の快苦に対して自らの感覚とまったく等しく配慮できるようにすれば、そのような失敗は発生しなくなるのではないか、と。つまり、この構想が実現する一つの姿は、我ら人類がすべてソラリスの海へと溶けていくことにある、ということになろう。」(大屋198-199)←エヴァの人類補完計画か、生物都市のような

   第三節 「博士の異常な愛情」とゲーム理論の周辺(ノイマンか、ゴーティエ)

  第四節 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』―アラン・チューリングの「人間と電子頭脳の見分け方」とその周辺

  第五節 小結

第五章 ノージックの例を使ってSF的な仮想事例で人間の「万物の霊長性」を検討してみよう

  第一節 ロバート・ノージック概説

 第二節 ジョージ・オーウェルの『動物農場』の検証

  すべての動物は平等だが、あるものは他のもの以上に平等なのだ

 第三節 『ドノヴァンの脳髄』あるいは「マトリックス」の素材たる「経験機械」の検証―あるいは邯鄲の枕

 第四節 『幼年期の終わり』あるいは『進撃の巨人』の検証―人間と動物だけではなく、人間以外の人間よりも優れた生物に対する我々の自己防衛

 第五節 『冷たい方程式』―生き残るための戦略、それは功利主義かゲーム理論

 か

第六章 結びにかえて