集中講義第二日目
9月18日の備忘録。
とにかく、リアクション・ペーパーに書かれた質問に一々律儀に回答すると、少なくとも午前中の講義がまるまるそれで潰れてしまうことが判明した。この方式は、受講生が100名を超えると授業進行に支障をきたすかもしれない。ただし、以下のような意見もみられるので判断に迷う。
「リアクションペーパーについての解答では、自分と同じような考え方だったり、違う考え方だったりし、様々な考え方を聞くことができ非常にためになった。いろいろな人の考え方を今後に生かしていきたいと思った」(Nくん)。
「まず、前回の質問に答えていただき、ありがとうございました。なんとなくもやっとしたままだったのですっきりしました」(Hさん)
お昼休みに、またもや宝島に行って、カルビランチを食べて昼食を済ませる。なぜ、このような食事記録を残すのかというと、わたしは病気のため食事をした後に薬を飲まなくてはならず、しかも、病状が悪化した時に備えて、なにを食べたのかを把握しておかなければならないからである。
午後1時から午後5時50分まで、適度に休憩を入れて第6・第7・第8講をこなす。教えているこちらは、しゃべっているので眠気は吹っ飛ぶのであるが、ただ黙って講義を聴いている学生は眠くなるにちがいない。雑談としては、ダンテの『神曲』における宗教的解釈の問題と、日本のロケット開発史についての知っているところを話した。
またもや、リアクション・ペーパーに受講者が大量の書き込みをしてくれたので、帰りのバスの中で全部を読み切れず、結局、帰宅後午後9時までリアクション・ペーパー120通に目を通すことに。
外食で夕食を済まして帰宅したら、午後8時近くになっていた。明日は、受講生も退屈するであろうから、映画鑑賞時間を設けて、それに解説を加える予定である。
今日の講義内容については、以下の学生のリアクション・ペーパーを挙げることで足りよう。以下、養護コースの学生さんと美術科の学生さんのリアクションペーパーの内容です。
(リアクションペーパー1)
国家機関の中で法律を作ることができるのは国会だけであり、法律には形式的意味の法律と実質的意味の法律がある。この二つの条件を満たしているものを「法律」と呼んでいるという基本的なことを、改めて知った。国会が作った「法律」を執行するのが内閣であり、行政の仕事というのは、ごみ処理からロケット打ち上げまでという幅広い活動を行っている。この仕事を簡潔にいうと全国家権力から立法と司法をとったもののことをいう。今まで“行政の仕事”とかいわれても難しい、というか考えたくない…というかとっつきにくい印象があったけど、このように考えると(いわれると)大まかではあるが、分かりやすかった。
権力を三つに分けて(三権分立)抑制と均衡の関係に置く、民主制の体制がとられている。でも効率がわるい。独裁制の方が効率がいい。それなのになぜ国家権力を一つの機関に集中させないのか…。その理由として独裁者に権力を前面委譲してしまうと、誤った法律を作ったり、執行を誤ったりした時に独裁者に苦言を呈するものがいなくなってしまうことがあげられる。また、のび太の例でいえば弱い立場であるのび太(国民)が意思を伝えるためには、スネ夫(国会)とジャイアン(内閣)と出来杉(裁判所)の中を悪くして、三人がぶつかり合えばのび太(国民)が有利になることがあげられる。私は社会が苦手ですが、ドラえもんの例を用いて説明してもらえると言っていることのイメージができて、理解しやすかった。今までは三権分立のことについて学んできたけれど、なんで分けるのか…ということを考えたこともなかったので、知識が増えたような感じがして良かった。
(リアクションペーパー2)
人権について重点を置かれた授業であり、とても勉強になることが多くありました。さらに、後半では、権力について立法・行政・司法と改めて詳しく学ぶことが出来ました。今までの高校生活上の現代社会や倫理は学んできたと思うのですが、忘れてしまっている部分も多くあることを自覚しました。
三権分立についても、権力を前面委譲すると、政治家が誤った法律作成をし、法律執行を誤ったりなどの様々な問題が発生します。そのような問題に対して積極的に反対意見が言われなくなった時こそ危険であると言われたので、確かに独裁政治が行われてしまうなと思いました。先生の雑談の中では裸の王様に対して、「王様はなんで裸でいるの?」や、王様の耳はロバの耳でも「なんで王様の耳はロバの耳なの?」という疑問が出ずに、当たり前のように受け入れてしまう世界を想像すると怖いものがあります。小学生などに説明する時に話題にしやすい!と思いました。
法律を学ぶときにも、私達が生活の中で多く使用されている民法を中心に学ぶことで、多くのことに気付けました。(特に自動販売機と買い手が契約関係を結べることには、驚きました。)一日の中で契約を行わない日が存在しないということが分かりました。学生はよく飲み物やコンビニ、生協で買い物をすることが民法に関わっていると知りました。
最後に自己保存本能には、正当行為、正当防衛が入っていることは知っていたのですが、緊急避難が入っていることは初めて知りました。
少々、「て、に、を、は」が乱れているが、そのまま漢字間違えの訂正以外はリアクションペーパーに書かれたことをそのままワープロ打ちした。
追記するならば、もっとも国民主権から離れた権力である「司法権」が違憲立法審査権を持つことにの可否を問う問題についての説明として、すでにこのブログで掲載した前期通常講義の「日本国憲法/現代人権論」の期末試験における最優秀答案たる学生の模範答案をレジュメ資料として配布した。これに対しては、多くの受講生が一種のショックを受けたようで、いい刺激を与えることができたと思っている。なかには、この学生と「友達になりたい」といった、本学の学生らしい感想が書かれていてリアクションペーパーを読みながら心和んだ。
ex.「また、模範答案として示されたものが、ある種ショックでした。このような疑問を持ち、答えていくことができる授業内容だったのにもかかわらず、私はそのようなところまで至っていませんでした。授業を聞き、考え、疑問を持ち、考えるというプロセスをもっと積極的にやっていかなければならないと感じました」(Hくん)。
「そして、数学の女の子の解答を見て、またおどろいた。私は、あのような文章はとうてい書ける自信がない。是非、彼女に会ってみたい…」(Oさん)。
「前期にこの授業をとった人の解答をみて、自分も勉強がんばろうと思いました」(Hさん)。
ちなみに、その模範答案を再度UPしておく。
模範答案
一.日本国憲法の三大原則は、基本的人権の尊重・国民主権・平和主義である。そして、この三大原則の根底にあるのは、「個人の尊重」という個人の尊厳の原理である。そのために、個人一人ひとりの考えを政治に反映させねばならないことから、国民主権が求められる。国民の民意を大切にしようとするのが国民主権であるが、日本の裁判官は、多数決原理という民主主義的な手続きで選任されるわけではないので、国民主権から最も遠い存在である。なぜこのような司法権に、法令その他の処分が憲法に適合するかしないかを審査し、その有効・無効を判断する権限である違憲立法審査権が付与されているのか。
二.憲法上で、違憲立法審査権を設けた根拠として、次の三点の理由があげられる。第一は、憲法の最高法規性の観念である。最高法規である憲法に違反する行為や法令には効力はない。そのため、法律、命令、規則、処分が憲法に適合するか判断する必要がある。第二に、憲法の下に三権が平等に併存すると考える、権力分立の思想である。すなわち、立法、行政の違憲的な行為を司法が統制し、権力相互の抑制を確保するためである。第三は、基本的人権の尊重の原理である。基本的人権の確立は近代憲法の目的であり、かつ憲法の最高法規性の価値もそれに裏付けられている。したがって憲法で保障された基本的人権を、立法権や行政権の侵害から守るねらいがある。
三.基本的人権を保障するための手段として、民主主義制度が採用されている。しかし、民主主義というのは万能ではない。そのときの多数派の意思であるから、絶対に誤りを犯さないとも限らない。民主主義が採用する多数決主義原理は暴走すると、個人の自由、基本的人権の保護規定を侵害してしまう可能性があり、現代の日本は多数決原理の暴走により、生存権さえも脅かされているのだ。憲法が最高法規であり、その憲法によって守られている国民の権利を脅かすような、憲法に違反する法令が制定されたり、憲法違反の行政行為が行われては、憲法が最高法規である意味がない。それを是正するのが、司法権の役割、違憲立法審査権である。裁判官は憲法と良心によってのみ判断すると規定されているように、司法権は独立している。司法権が独立している理由として、まず、司法権は非政治的権力であり、政治性の強い立法権・行政権から侵害される危険を防ぐこと、さらに、司法権は裁判を通じて国民の権利を保障することを職責としているので、政治的権力の干渉を排除し、とくに少数派の保護を図ることがあげられる。基本的人権について、とくに問題となるのは少数派の基本的人権である。多数派の意思で裁判が行われるようでは基本的人権を守ることはできない。そうなると、そこに多数派の意思(民意)によって裁いてはならないということが帰結される。
四.このようにして、国民の民意を反映しない、独立した司法権(裁判所)こそが違憲立法審査権をもつのである。憲法によって保障された権利や自由が、民主主義の原理によって、侵犯されるのを防ぐために、違憲立法審査権が裁判所に与えられたのだととらえれば、民主主義的正統性を裁判所がもたなかったとしても、その権限を行使して法令などを違憲・無効とすることの正当性を基盤として説明することができるのではないかと考える。
―以上―