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2014年11月25日 12:5211月12日の備忘録。
19世紀から21世紀の大陸国法学の研究
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大会委員長 山田八千子(中央大学)
1. 近時、我が国では、立法の質・量共に著しい増加現象が見られると同時に、立法過程における専門家の役割の変化など、立法現象の大幅な変容がみられる。前者については、たとえば、刑事法、民事法、行政法等の各領域の重要で抜本的な改正やいわゆる基本法の増加などが挙げられる。後者については、専門家としての法制審議会の役割の低下が典型的である。こうした我が国における立法現象をふまえた上で立法システム全体のあるべき姿を構想する学としての「立法学」の確立が求める動きが加速化している。そこで、本年度の学術大会統一テーマにおいては、法哲学の視点から、立法をめぐる原理的で根元的な検討をおこない、立法学の再定位を試みたい。
従来、立法現象を扱う立法学は、一般に立法過程・立法政策・立法執務等に分類され、政治学、法学、経済学などの交錯する学問領域として位置づけられてきた。日本における立法の規範理論を構築しようという動きについては、古くは末廣厳太郎の実用法学における解釈法学と立法学との区分提示、先駆的業績としての平井宣雄の法政策学、近時の政策法学などが挙げられる。しかし、総体的には、そういう動きは一般化されてこなかったと言えよう。他方、法概念論の領域に目を向けると、1990年代頃から、規範的法実証主義の論者たちから、社会秩序形成における立法の役割への検討へと繋がる重大な問題提起がなされている。さらに、最近の立法に関する規範理論構築の動きとしては、国際的にはレジスプルーデンス(legisprudence)運動が挙げられ、日本国内でも、レジスプルーデンス運動に対応し、あるいは日本政治の現状を受けて、民主社会におけるより良き立法システムの構築に向けての動きが加速化している。
以上のような状況の中で、立法に関する規範的な理論構築という、いわば立法の哲学の領域で、法哲学がなすべきことは多い。しかし、立法をめぐる問題状況は日本法哲学会全体に十分に共有されているとは言えないだろう。そこで、2014年度の大会においては、規範理論としての立法学、立法の法哲学としての立法学の可能性を探究し、法哲学がなすべき問題群を拾い上げて検討することで、法哲学が、立法の哲学としての立法学の構築にとって今後なすべきことの豊かさを提示したい。この際、日本の立法実践に定位するものの、個別立法自体の立法政策としての正当性や立法過程・立法実務の実証的分析には留まらない形での規範理論の在り方を探ることとする。
2. 本シンポジウムにおける各報告・コメントの位置付けを確認しておきたい。前述したように、従来の立法学の領域は立法過程・立法政策・立法執務等に分かれており、本大会では、より原理的なアプローチをするものの、こうした領域区分にも一定の配慮をして報告を配置した。まず、横濱第一報告とこれに対する嶋津コメントは、統一テーマ全体の総論となる報告・コメントである。規範的法実証主義の立場からの整合的で有意な立法優位論を展開しようと試みる横濱報告に対し、嶋津コメントは、立法優位論の基本的立場である、立法を用いて社会を設計するという立論自体への疑問をまさに多種多様な視点から提起する。藤谷第二報告は、公法学の視点から、統治過程における立法の位置を探究する報告であるが、藤谷報告もまた、嶋津コメントとは異なる角度から、横濱報告の立法優位論・議会優位論への批判を含んでいる。藤谷報告への松尾陽コメントは、藤谷報告の問題提起を受けて、法哲学の立場から統治システムや民主政論の再構築を試みる。民法学・開発法学を専門とする松尾弘報告は、開発プロセスにおける立法実践・立法政策を素材とはしているが、正当性と正統性の法動態に着目して、グローバル化の中での良い統治のあり方と立法との関係を検討するものであり、 進行中の債権法改正にも言及する。濱コメントは、松尾弘報告を受けて、法哲学の立場から、立法府・司法府との関係や立法におけるintegrityについて再構成を試みる。この濱コメントおよび松尾陽コメントは、各主報告へのコメントであると同時に、横濱報告の立法優位論を基礎づける規範的法実証主義に向けての各自の法哲学的な立場からの批判も含んでいる。大屋報告は、議会への法案提出前の審議・調整過程までも視野に入れて立法の品質管理の問題を論じ、民主的正統性と立法の品質管理との緊張関係を示した上で、立法過程における内閣法制局などの「専門家」の意義や限界を問う。この大屋報告もまた、横濱報告の立法基盤の民主的正統化の限界を確認し、さらに補完しうる報告である。対する川崎コメントは、立法の品質保証が要請される現状とその実現の困難性を実践的な観点から明らかにする。最後の井上達夫総括コメントは、立法の法哲学構築を目指す本シンポジウムの試みについて、立法の哲学を再定位するという視点からおこなわれる。なお、時間の制約上「立法をめぐる法思想」が統一テーマ報告で扱えなかったため、関連ワークショップとして、「立法をめぐる法思想―19世紀におけるドイツとイギリスを中心にして―」を企画委員であり統一テーマシンポジウムの司会でもある村林聖子会員に企画していただき、緊密な連携をとりあった。また、立法過程に関わるテーマの一つである熟議民主主義についても大野達司会員によるワークショップが開催される。
3. さて、このように各報告・コメントのアプローチの仕方や扱う領域は異なっているが、共通する重要な問題関心がある。一つは、多様な対立している正義構想のうちいずれが正しいかについての「正当性」の問題とは区別される、ある法の「正当性」を認めない人々に対しても法への「忠誠」を要求できるような「正統性」の次元への関心である。もう一つは、我が国の議会民主政における〈法的なもの〉と〈政治的なもの〉との相剋の中での〈法的なもの〉の意義の検討である。これは、「立法ないし立法過程とは統治構造の中でどのように位置付けられるべきか」あるいは「立法における専門的知の役割とは何か」という論点として、各報告の中に現れている。
4. 以上のように各報告・コメントは、いずれも、何らかの形で立法システム全体の在るべき姿を構想するという点を共有しているものの、この在るべき姿には、実は、議会民主政を軸としての集合的な秩序形成によって新たな法を創ることができるという立法モデル(「創る法」)自体を批判するという立場も包含する。制定法すなわちlegislationとしての立法には、民法、刑法のような社会における基本的な法律から、近時ますます増加している基本法にいたるまで、性格も成り立ちも異なる多種多様なものが含まれるが、この立場によれば、法の基本モデルである私法(たとえば債権法のような)の定立領域では、法とは市場を中心に自生的に発生し裁判を通じて確立されるものであり、法は社会の中から成るという立法モデル(「成る法」)こそが「創る法」モデルより優位するべきだと主張される。そして、実は、この立場は、前述した「立法学」の動き自体を否定することにつながる破壊的な契機さえ含んでいると言えよう。本シンポジウムでは、こうした「立法学」自体の意義までを根元的に問い直すような立場も含めて、多様な視点や立場から、立法の法哲学構築へ向けて活発な討論がなされるようにできればと願っている。
11月8日(大会第1日)
[午前の部]
〈個別テーマ報告〉
《A分科会》内藤淳・赤間聡・堅田研一・髙橋 秀治
《B分科会》近藤圭介・太田雅子・椎名智彦・宍戸圭介
[午後の部]
〈ワークショップ〉
《Aワークショップ》
「立法をめぐる法思想
―19世紀におけるドイツとイギリスを中心にして」
(開催責任者・村林聖子(愛知学泉大学))
「へーゲルと市民法学・立憲主義・共和主義
―「マルクス主義市民法学」でもなく「近代主義市民法学」でもなく」
(開催責任者・酒匂一郎(九州大学))
《Bワークショップ》
「性風俗と法秩序」
(開催責任者・陶久利彦(東北学院大学))
「熟議民主主義と現代日本政治」
(開催責任者・大野達司(法政大学))
〈総会〉
[懇親会]
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第1章のつづき
ホッブズ著『ビヒモスーあるいはイングランドにおける長期議会―』扉絵初版より
カバのような怪獣がビヒモス、ワニのような怪獣がリヴァイアサン
*ところで、聖書をお読みになった人ならばご存知のことと思いますが、リヴァイアサンもビヒモスも旧約聖書に出てくる怪獣(フランツ・ノイマン『ビヒモス-ナチズムの構造と実際-』(みすず書房1963)1頁によれば、ユダヤの終末論においてビヒモスとリヴァイアサンは二つの怪獣で、ビヒモスは陸を、リヴァイアサンは海を支配し、前者は雄、後者は牝であるとされている)のことです。ちなみに、リヴァイアサンは海の怪獣であり、ビヒモスは陸の怪獣です(特に、リヴァイアサンは『ヨブ記』において神様が千年王国実現の際に千年の饗祭の食べ物として与えるとされた怪獣です)。このことから、ホッブズが「大陸からの国家侵略戦争、すなわち海からの戦争」の恐怖を『リヴァイアサン』で描き出し、「同じ国民が信じている宗教の宗派が違うからといって殺し合いを続ける内乱」を『ビヒモス』で描き出したのはまさに的(まと)をえたタイトルの付け方だと思います。付言するならば、デビット・フィンチャー監督の『セブン』(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=28593)、アニメの『鋼の錬金術師』(https://gangan.square-enix.co.jp/hagaren/) あるいはマンガの『ピルグリム・イェーガー』(https://www.kh.rim.or.jp/~tow/pilgrim-j/indexs.html)などで有名になった七つの大罪のうち、リヴァイアサンは「嫉妬」の罪を司り、ビヒモスは「大食」の罪を司るとされています。まさに、侵略戦争を『リヴァイアサン』で描き出し、内乱を『ビヒモス』で描き出したトマス・ホッブズは17世紀の思想的巨人と評価することができるのではないでしょうか?
John Locke1632~1704
それに比べれば、ジョン・ロックやルソーの社会契約論は楽観的です。このような違いが生じたのは、彼らが生きた時代がホッブズに比べると幸福な時代であったからかもしれませんし、また未来に対する希望が持てた時代であったからかもしれません。なにせ、ホッブズより50歳ほど若いロックの時代にはイギリスはアメリカに殖民都市を作り、無限のフロンティアを開拓して自らの努力で生活を改善・向上するという夢が持てたのです。ある意味では、すでに「アメリカン・ドリーム」の原型が出来ていたのかもしれません。ロックの主著『政体二論』は鵜飼信成先生が『市民政府論』(岩波文庫)という名前で翻訳をしていますので、大学生ならば1回は目を通しておいてもらいたいものです(現在は、加藤節先生の完訳版がでています)。このことは、両者それぞれが、ホッブズと異なる市民の抵抗権を想定している点とも係わってきます。
あまりにも、話がわき道に逸れてしまったのであとは簡単にルソーの評価をしておきます。私見によれば、ルソーは能天気なほどの理想論者でした。「一般意思」なる抽象的な概念を生み出すことによって、「公的なるもの」と「私的なるもの」の垣根を取っ払おうとしましたが、それがやがて共産主義などの全体主義思想の源になったことは消極的にしか評価できません。その意味では、わたしはホッブズほどルソーを高く評価していません。
さて以上の説明からも理解できるとおもいますが、17世紀的、あるいはホッブズ的悲観主義的人間観からに日本国憲法の三大原則を並べるとしたら、①平和主義、②君主主権(ホッブズはスチュワートの側近)および③基本的人権の尊重という順番になるでしょう。なぜならば,ホッブズが生きていた前後のイングランドは百年戦争、バラ戦争、宗教改革、無敵艦隊の来襲、ピューリタン革命といったように平和な時代がなかった世紀でした。平和というインフラが整備もされていないのに、国民主権や基本的人権の尊重を説いてもそれは理想論に終わってしまいます。しかし、現在の日本をホッブズの生きたイングランドの歴史とシンクロさせていいのでしょうか?これについて、わたしは違うと応えたいと思います。次章では、その理由を啓蒙期の哲学者イマニュエル・カント(Immanuel Kant 1724~1804)の「目的と手段」の関係から説明したいと考えています。
Immanuel Kant 1724~1804
定言命法「信条(格率)が普遍的法則となることを、当の信条を通じて自分が同時に意欲できるような信条に従ってのみ、行為しなさい。handle nur nach derjenigen Maxime, durch die du zugleich wollen kannst, daß sie ein allgemeines Gesetz werde.」(A421)
定言命法の第一定式「自分の行為の信条が自分の意志によって普遍的自然法則になるべきであるかのように、行為しなさい。handle so, als ob die Maxime deiner Handlung durch deinen Willen zum allgemeinen Naturgesetze werden sollte.」(A421)
定言命法の第二定式「自分の人格のうちにも他の誰もの人格の内にもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。Handle so, daß du die Menschheit sowohl in deiner Person, als in der Person eines jeden andern jederzeit zugleich als Zweck, niemals bloß als Mittel brauchst.」(A429)
定言命法の第三定式「おのおの理性的存在者の意志は普遍的に法則を立法する意志である。Demnach muß ein jedes vernünftige Wesen so handeln, als ob es durch seine Maximen jederzeit ein gesetzgebendes Glied im allgemeinen Reiche der Zwecke wäre.」(A431)
まず、わたしが①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番に並べるべきだという見解を採用するのは、啓蒙期の偉大な哲学者イマニュエル・カントが彼の『人倫の形而上学原論』で示しめした定式(定言命法の第二定式)を採用すべきだと考えているからです。そこにおいては、あるものごとを考えるに際して、つねに「目的」と「手段」の関係を配慮することが強調されています。では、カントはどのようなことを言っているのかを見てみることにしましょう。
定言命法の第二定式「自分の人格のうちにも他の誰もの人格の内にもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。」(A429)
うむむ、これは難解だとみなさんは思うかもしれません。しかし、このことは以下のように簡単にしてしまうことはできます。「人間はそれ自体がつねに目的として取り扱われるのであって、決して手段として取扱われてはならない」ということです。具体例を出して説明してみると分かりやすいでしょう。たとえばみなさんが第二次世界大戦の末期に生きており、招集令状を受け取り航空部隊に配属され、飛行訓練を続けていたとしましょう。そんなとき、上官から呼ばれて「明朝、戦闘機に乗って敵航空母艦に神風攻撃をしてくれ。おまえの死は無駄ではない、それによって戦局が逆転しわが国は絶対に勝つ」と言われたらどうしますか?みなさんはこの命令を聞けば、そんなばかな命令は聞けるかと言うに違いありません。なぜならば、功利主義的な計算を除いたとしても、自分が国家存続のための道具(手段)として死ぬことは御免であるという感情を持ち合わせているからです。つまり、国家なるものは自分たちが自分たちの生命・自由・プロパティー(所有権)を守るという目的のための権力装置(手段)として設立されたはずなのに、なぜ主客が転倒して手段のために目的たる自分の生命・自由・プロパティーを犠牲にしなければならないかという疑問を抱くことができるからです。さてここまでくれば、カントの「人間はそれ自体がつねに目的として取り扱われるのであって、決して手段として取扱われてはならない」という言葉が、われわれにとっては既に自明の理として身体にインプットされていることが分かりますよね。(だから、わたし以外の憲法学者は教科書や講義であえて三大原則の順番を説明しないのかもしれません。)
とするならば、闇雲に「平和!平和!」と声高に叫んでいる人たち(例えば、昔ならば土井たか子、今ならば福島みずほさん)はなにか胡散臭いような感じがしますよね。平和の中には、恐怖により支配された所謂(いわゆる)「奴隷の平和」もあることを忘れてはいけません。たとえば、ホッブズの部分で書いた『北斗の拳』のラオウによる恐怖の支配というものも、核戦争後の混乱状態を暴力によって押さえ込もうとしていることからすると一種の「平和」と言えるのかもしれません。でもみなさん、そんな恐怖の支配のもとで生きていたとしても決して幸福を感じられないでしょう?
であるとすれば、「平和主義」を主張する際にはかならずその目的を明確にしておくことが、あるいはさせる必要があることが理解できると思います。以上のことから、わたしは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段であると考え、日本国憲法の三大原則は①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番がもっとも理論的に優れていると思っています。もちろん、この順序に疑問を覚える人もいるかと思います。かりに「日本国憲法の三大原則に序列を付けよ」という問題が出題された場合には、その人はわたしの説明にきちんとした理由を付けて反論をしてくださって結構です(ただし、どこかの党の元党首が言っていたような「ダメなものはダメ」式の記述をしてはいけませんよ。「『ダメなものはダメ』はダメなのです」)。教員のなかには、自説を攻撃されると不当に試験の点数を低くする度量の小さな人もいますが、わたしはかえってそのようなハネッ返りものの屁理屈を読むのが好きなので、どんどん反論をしてみてください。研究者というものは反論されてなんぼのものですから。反対に言うならば、自分の学説を発表してもなんのリアクションもないようだと、それはある意味でその人物の学者人生も終わりに近づいたということです。ただし、みなさんのなかには学説の批判と個人攻撃の区別がついていない人がかならずなん人かいます。わたしは法律の専門家ですから、当然のことながら個人攻撃は絶対に許しません。みなさんも大学生になったのだから、もう少し「おとな」になりましょう。ところで、わたしは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段であるとして、「平和主義」よりは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」が優先することは示しましたが、実は「国民主権」と「基本的人権の尊重」のどちらが優先するのかについてはこの講義のなかではまったく触れていません。私見としては、どちらが優先するのかということについて一応の考えを持っているのですが、まだ最終的な結論を出しているわけではないのです。死ぬか、ボケるまでには結論を出せればいいかなと思っています(とはいっても、このごろ若年性アルツハイマー病の発症率が高くなっているようだし、わたし自身物覚えが悪くなってきているので内心「これはヤバイ」と思っているのですが)。専門の学者だからその分野のことをすべて理解しているというのは大きな幻想です。みなさんは若くて、時間的余裕があるのですから、寝る前に「国民主権」と「基本的人権の尊重」のどちらが優先するのかな?とか、都合三つの原則の組み合わせは3×2ですので、日本国憲法の先生が言っていた順番より優れた順番はないかな?といったことを考えてみてください。
詳述したように、一般に日本国憲法の三大原則は「国民主権」、「基本的人権の尊重」および「平和主義」とただ名前を挙げればそれでよしという訳ではないことを理解してもらえたと思います。さらにまた、その順列によってその国家の時代背景や目指される国家目標までも明確にされることから、キチンとした体系に基づいた論理構成が必要であるということも併せて理解してもらえたのではないでしょうか?高校までの勉強だと、社会は暗記科目だとばかにしていた人も、パウロの如く大学の学問は暗記科目ではないと「目から鱗」が取れてくれたならば幸いです。ところで、今回は相当に力を入れてこのレジュメを作成しました。そこでみなさんに理解してもらいたいことは、このレジュメでは、わたしが第1講で答案の書き方で示したように「起承転結」に則って書かれているということです。わたしの講義が高校の先生の講義と違う点を挙げるとするならば、少なくともわたしは講義においても「起承転結」のしっかりした講義構造を採っているということに由来するかもしれません。前回の講義の後、ある学生さんから「先生、憲法を理解するために世界史を勉強しなおします」という言葉をもらったのは正直言って嬉しかった。できれば、世界史だけではなく哲学、倫理学、社会学、政治学、論理学も勉強しなおしてくれれば教師冥利に尽きます。今回の講義の内容としてのレジュメは以上です。
一般に、カントと言えば三大批判書が有名ですが、哲学者にでもならないかぎり『人倫の形而上学』を熟読すればカントの思想はマスターできると考えてもらってよいです。参考までに、『カント全集7実践理性批判人倫の形而上学の基礎づけ/ カント〔著〕』(https://www.bk1.jp/0000/00003948.html) が最近出たもので、翻訳もこなれていて読みやすいです。ちなみに、わたしは高校一年生のときに岩波文庫の篠田先生の翻訳を読んだのですがチンプンカンプンで、大学三年生の時に原書と突き合わせて読んで少しだけ分かったような気がしました。ちなみに、哲学では「意志」という言葉が使われますが、法律学では「意思」という言葉が使われますので注意してください。また、ホッブズについては福岡安都子『国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗―』(東京大学出版会、2008年)という大作が刊行されています。
(さらに考えてみよう)
無批判にわたしの見解を採用するようだと、批判精神が養われないので以下の文章を読んで、さらに日本国憲法の三大原則の序列を考えてみよう。
「政治学者のジャン=ジャック・ルソーは、その遺稿「戦争および戦争状態論」で、ホッブズの描く国家設立による平和の実現という議論に批判を加えている。ホッブズの社会契約論によれば、国家が成立する以前の自然状態では、万人の万人に対する戦いが現出し、人々は惨めで孤独で束の間の人生を送ることになる。こうした問題を解決するために、人々は集結してその自然権を主権者に譲り渡し、国家を設立することで、社会の平和を実現したというわけである。
ところが、ルソーによれば、このホッブズが描くプロジェクトは見事に破綻している。人々がその自然権を譲り渡して主権者に服従したにもかかわらず、その主権者たちは互いに並存して、互いに争いを続けているため、自然状態では想像もつかなかった大規模な殺戮が生起している。国家間の対立が大規模な殺戮をもたらす一因は、生身の人間と異なり、国家が社会契約に基づく人為的構成物であり、自然によって与えられた限界を持ち合わせていないことにある。生身の人間であれば、自然の欲求には限りがあり、いずれは満足を知るものだが、人為的構成物である国家の場合、限りなく欲求を拡大することが可能であり、その反面として、周辺で起こるあらゆる事態が、自国の平和と安全に関わるものとして懸念の材料となる。」(長谷部恭男『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)38-39頁)
このように考えると、万人の万人に対する闘争を終結させるために設立された国家が、かえって嫉妬と大食を司る悪魔リヴァイアサンやビヒモスとしての本領を発揮することにならないのだろうか?
さらに、カントの『永遠平和のために』における目的と手段の関係を考えてみよう。
14時5分、大学近くのガストで和膳 646円を食べる。
16時20分から17時50分まで、A534で「法学概論」の講義を行う。
授業の範囲は、『基本的人権の事件簿』の事件1と事件2のまとめと、事件3についての解説。
14/11/09 20:02 登録
法学概論4
講義の実況録音です。
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詳しい内容は、以下の学生のリアクションペーパを掲載することによって代えることにします。
・「原告が主張している部分しか審査することができない」という裁判の性質によって、裁判の公平性が保たれていることが理解できた。事件1と事件2の違いによって、その性質をより深く理解できたと思う。(社会・♂)
・法廷で裁判をする場合、弁護士の腕のよさが大切だと感じた。もし、自分が裁判するような場面になってしまった場合、腕のたつ弁護士を見分けるにはどこがポイントになるのだろうと思った。裁判はゲームと言っていたが、策を何重にもはってどのようになっても自分側が勝てるように仕かけていておもしろいなと思った。法律を使った頭脳戦のゲームである。(教育基礎・♀)
・今日の授業でA子さんとA君の判決の違いについて扱いましたが、間接適用という次の手を持っているかどうかで、もしかしたらA子さんも勝てたかもしれないということにおどろきました。内容でいうと(感情をはさんではいけないけれど)あきらかにA君の方がすくいの手をさしだすべきだと感じたけれど、A子さんも復学していたかもしれないのかと思うと、弁護士さんの力量をおもいしりました。
公序良俗や健全な青少年、思っていなかったけれどたしかにあいまいなことばだと思いました。あいまいだからこそ、適用範囲は広いけれど、力は弱いのだと感じました。(特別支援・♀)
・前の講義のときより事件1、2について理解が深まった。似たような事例であっても自分の持っている手札の出し方で結果が変わってしまうと知って驚いた。また、当たり前のことだが、裁判に道徳や個人の感情を持ち込んではいけないと改めて感じた。(社会・♂)
・使うカードで似た事件、似た主張でも認められるかどうかが変わる。確かにゲームみたいで複雑にも見えるし、単純にも見える。果たして裁判がそれでよいのかということは迷路に迷い込んでしまいそうなので考えないことにするが、それにしても、こういうことを知っているかいないか、上手に立ち回れるかどうかで人生が左右されるのだなということが、身に染みて分かった気がした。(教育基礎・♂)
・同性愛者の宿泊施設利用事件について学んだ。自分視点でみると、都の言っていることも分からなくはないかなと思ったが、法律視点ではしっかりとした裁判がなされていて、驚きました。(社会・♂)
18時30分、えぞの味 北のしまだで日替り定食 907円を食べる。
11月4日の備忘録。
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11月3日の備忘録。
11月3日(月曜日)
中野雅紀です。自己紹介はおいおいするとして、ブロマガを開設した以上、継続し続けなければ意味がないと思っています。というわけで、バカバカしい書き込みにお付き合い願います。
ちなみに、わたしは「なかの まさのり」であって、「なかの まさき」ではありません。そもそも、音読みと訓読みを名前でごちゃまぜにしていること自体が、わたしには理解できません。仮に「紀」が「き」であるならば、「雅」は「が」ということになり、「雅紀」は「がき」ということになってしまいます←なめとんのか(`・ω・´)。もちろん、以上のことによって相葉雅紀くんの名付け親を馬鹿にしているわけではないのは、当然のことです。とは言え、秋は学会シーズンなので、わたしも幾つか学会出張しましたが、そこで同業者の中に「なかの まさき先生」といって挨拶する方が未だにいます。これなどはまだ、可愛い方で(許容範囲内で)学生の中には成績の異議申し立て制度の申請において、私の名前を「中村雅紀」、すなわち「なかむら まさき」などと書いてくる、蜘蛛の糸を自ら断ち切ってくるような、救いがたいおばかさんがいます。かつて、早稲田大学の期末試験で「わたしはどれでしょう」という顔写真を当てさせる問題が出たと言われていますが、このような試験でさえ、この学生は「不可」ということになるでしょう。今年の学会でも、京都大学の土井真一(どい まさかず)先生を、「どい しんいち先生」と読(呼)んでいた研究者がいました。憶えているのは10年以上前、明治大学の安西文雄(やすにし ふみお)先生を、某先生が再三「あんざい先生」と読(呼)んだので、温厚な安西先生が「や す に し です(#・ω・)」と強調されたことです。人の名前を間違えることで、その間違えた人に対する気持ちが「ぺしゃんこにしぼんでしま」うことについては昨日のブログで紹介した山口弁護士も指摘するところです(山口・177-178頁)。以上、本日の枕は終了!
9時13分、デニーズでモーニングサラダ コブ単品 411円を食べる。
12時9分、セブン-イレブンで以下のものを買ってくる。
グリルチキン弁当 460円
7プレミアム 麦茶 500ML 100円
14時から、ニコニコ生放送で「ゆるキャラグランプリ2014」を鑑賞する
3位 みきゃん
2位 ふかっちゃん
1位 ぐんまちゃん
喜びの挨拶ჰ❛‿❛ჴHello❤
19時10分、デニーズで牡蠣フライ膳単品 1018円を食べる。