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石川健治

2014年05月17日 09:09

5月16日の備忘録。

 

 12時19分、カフェテリアルネで以下のものを食べる。

  味噌汁                     32円

  ライスM                    108円

  鯖南蛮漬け                  172円

  セルフバー                  242円

 

 12時54分、ショップルネで小山剛『「憲法上の権利の作法』(2014年、尚学社) 2700円を購入する。

 

もつれた糸、引きちぎる暴走 集団的自衛権行使へ転換 石川健治・東大教授  朝日新聞

集団的自衛権を、あたかも個別的自衛権の自然な延長線上にあるかのように説明するのは、フェアではない。国連憲章51条の起草過程で、米側がねじ込んできた定式であり、その実体は攻守同盟である。「同盟」は明確に「敵」の存在を前提にしているという点で、急迫不正の侵害に対する個別的自衛権とは、そもそも論理構造が異なっている。安倍内閣は、このタイミングで、公式に北東アジアを「敵・味方」に二分しようとしているのである。

 これは、憲法9条が想定する国際関係観からの大転換であり、ひとたび渡れば引き返せないルビコン川を渡るにひとしい選択である。それなのに、防衛力不足を米軍によって補充すること自体を否定はしなかったというだけの「砂川判決」を論拠にして正当化を試みたり、「限定容認」のレトリックを用いたりして、事柄の重大性を糊塗(こと)しようとした。これだけ大きな選択をするのであれば、きちんと手続きを踏むのは当然だ。

 それにもかかわらず、現政権は、手続きそのものを破壊する。当初は憲法改正手続き(憲法96条)を改正して、憲法改正の発議要件のハードルを下げようとし、それが難しいとみれば、政府解釈の変更という便法に走り、安倍首相の個人人気に頼って力押しする。そうした政府の姿勢は、憲法が前提とする立憲デモクラシーのあり方に反している。

 近代的な意味での立憲主義は、集権化された国家権力を前提にしており、本来は力で国民を圧倒できるはずの統治権力が、自ら進んで自分を縛ることによって成り立っている。そのことにより、個人の権利は保障され、国家間の約束も成立する。さらに、統治権力を分割して、特定の権力に「民意」を独占させないようにするとともに、それぞれを絡み合わせることで、権力の暴走にブレーキがかかるようにする。これが立憲デモクラシーの考え方だ。

 しかし、現在の政府は、もつれた糸を引きちぎり、暴走してはいないか。特に、政府の憲法解釈という、政府が自らに課した義務づけから自由になろうと、内閣法制局の長官を「お友達」に代えてしまったこと。これは、安倍政権の信頼性を大きく傷つける、取り返しのつかない失策であった。こういう政権の姿勢が、たとえば、特定秘密保護法制定のおりには、それがどこまでも拡大解釈され、ものが言えない社会になるのではないか、という大きな不信感をうんだ。集団的自衛権の行使容認にも、同様の不安が広がっている。

 それらは、安倍政権が内外に示した反立憲的な姿勢によって自ら招いた事態であり、もはや、このタイミングでルビコン川を渡る資格は、この政府にはないのではないか。観念的な安全保障論議を力押しして、デモクラシーの形を破壊してしまったのでは、もはや取り返しがつかない。

 (聞き手・渡辺哲哉)

    *

 いしかわ・けんじ 東大教授(憲法学) 1962年生まれ。旧東京都立大教授を経て、2003年から東京大教授。4月に設立した「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人の1人。


https://www.asahi.com/articles/DA3S11137639.html  

 

 

 18時51分、ガスト樟葉駅前店でチョコサンデー 399円を食べる。

 22時56分、セブンイレブン京都駅八条口店でamazon.co.jp(収納代行ウェルネット)に料金を払い込む。

モンティ・パイソン人生狂想曲

2014年05月17日 09:07

5月15日の備忘録。

 8時57分、LAWSONで以下のものを買って食べる。

  ねぎ塩炒飯おにぎり              135円

  鶏五目おにぎり                 129円

  サントリーグリーンダカラムギチャ 500  130円

 

 14時10分、駅前の松屋でオリジナルカレー並 370円を食べる。

 

 16時20分から17時50分まで、B203で「法と社会」の講義を行う。

  今週は、「モンティバイソン人生狂想曲」を学生たちと一緒に鑑賞し、講評を加えた。

 サッチャー政権以前の労働党政権時代の風刺

   ・労働問題、社会保障問題

   ・少子高齢化問題

   ・軍の士気の問題

 

 18時48分、大学近くのガストでミックスフライ 599円を食べる。

忙しい一日

2014年05月17日 09:05

5月14日の備忘録。

 6時1分、近くのマクドナルドで以下のものを食べる。

  エッグマックマフィンセット       432円

   エッグマックマフィン

   ハッシュポテト

   コカ・コーラM

 

 11時41分、株)日本レストランエンタプライズ東京弁当営業支店上野営業所で以下のものを買う。

  深川めし                  900円

  ほうじ茶P5                160円

 

 13時23分、新星自動車         1900円

 

 17時5分、駅構内のSoup Stock Tokyoで以下のものをサービス券で食べる。

  EAT-IN SSセット

   東京ボルシチS

   8種のスープ

   (セット)白胡麻ご飯

 

論文

2014年05月13日 22:29

5月13日の備忘録。

「人間の尊厳」あるいは「人間理性」は、人間の「万物の霊長性」を基礎づけることが可能か

第一章 問題の所在

 第一節 国際的な太地町のイルカ追い込み漁、あるいは日本の調査捕鯨批判

 第二節 なぜ、われわれ日本人はこの批判を甘受できないのか

  『白鯨』と『ピノキオの物語』におけるクジラの位置付けの変化

   中世《ベスティアリBestiaire》(キリスト教動物寓意譚)

     『白鯨』悪魔の化身→『ピノキオ』キリストの復活(ヨナ記)

  しかし、その根底にあるのは以下の思考枠組みだったハズ

 「また、中世以来ヨーロッパに成立した〈存在の連鎖〉という発想にしても、一見すれば人間と動物の格差を縮める考えであるようにみえた。なぜなら、上は天使から下は微生物まで地上の全存在が完成度の高い順に途切れない階層をなして並ぶ、との発想につづくのは、当然ながら〈人間と動物の連続性〉を認める議論だからである。ところが、〈存在の連鎖〉が実際に教えたのは、地上の優劣だけであり、天使にもっとも近い人間がふたたび動物を超える存在であることを誇示したにすぎなかった。」(荒俣10頁)

それを根拠付たのが、神の似姿、人間の尊厳、個の自律、功利主義といった思想

この近代立憲主義につながる思想自体に準拠することはやぶさかではないが、この枠組み内の概念や象徴の欧米の都合の良い理論操作には納得できない。←これを如何に反証し、反撃を加えるのかが論文の狙い。当然のことながら、「人間の尊厳」、あるいは「人間理性」は、人間の「万物の霊長性」を基礎づけることが可能か、と 

はわたしは基礎づけることが可能だと思うが、シーシェパードのみなさんは、自分自身の主張に拠って立つ基盤に破綻を来たさないのかという意味である。

 第三節 論文構成

 哲学史的考察を編年体で批判的に概観し、そしてその具体的応用編をロバート・ノージックらの考えを借りてSF的仮想事例を設定することで検証する。だだし、一週間前にエリザベート・ド・フォントネ/石田・小幡・早川訳『動物たちの沈黙 《動物性》をめぐる哲学試論』(彩流社、2008年)を読んで、これと被らないようにそれぞれの時代の代表的思想をどう取り上げるのか、検討を必要とすると思っている。


第二章 古代ギリシア思想からキリスト教思想全盛期までの生物の位階

  第一節 古代ギリシアの思想―アリストテレスの性質説(目的説)とその周辺

  第二節 ヒエラルキーの源泉―ディオニュシオス・アレオパギデスの『天上位階論』と『教会位階論』とその周辺←オリジナリティーの発揮の場

  「(被造物の)発出の過程が一性から多性への分化、分割という下降の弁証法であり、その逆の多性から一性への還帰の過程が一化、統一という上昇の弁証法である。この二種類の弁証法によって、最高の普遍的一性においてある神性の根源……から最低の特殊的多性においてある被造物に至るまでの一切がヒエラルキーを成す構造的関連において理解される」(今347)

  第三節 ルネサンス前期の天使と人間と動物《獣》の位置関係―ジョバンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ『人間の尊厳について』とその周辺←オリジナリティーの発揮の場

 「そこで、造り主は人間を、不定な姿をした作品として受け取り、世界の中心に置いてこう話しかけられた。「われわれは定まった座も、固有の姿形も、おまえ自身に特有ないかなる贈物も、おおアダムよ、おまえにあたえなかった。それというのも、おまえの願い、おまえの意向にしたがって、おまえが自分で選ぶその座、その姿形、その贈物を、おまえが得て、所有せんがためである。他のものたちの限定された本性は、われわれによって規定された法の中に抑制されている。おまえは、いかなる制限によって抑制されることもなく、その手のなかにわたしがおまえを置いたおまえの自由意志にしたがって、自分自身に対して自分の本性を指定するであろう。世界のなかにあるものすべてを、いっそう都合よくおまえがそこから見まわせるように、わたしはおまえを世界の中心に置いた。われわれはおまえを、天のものとも地のものとも、死ぬべきものとも不死なるものとも、つくらなかった。それというのもおまえが、あたかも専断的な名誉ある造り主であり形成者であるかのように、自分の選り好んだどんな姿形にでも自分自身を形作りえんがためである。おまえは、獣であるところのより下位のものに堕落することもできるであろうし、おまえの意向しだいでは、神的なものであるところのより上位のものにも再生されることもできるのである。」(佐藤三夫206-207)

  第四節 小結


第三章 近代国家成立期から啓蒙思想期までの生物の位階

 第一節 獣に対する支配権は自然の権利である―あえて、『リヴァイアサン』と『ビヒモス』ではなくてDe Civeにおけるホッブズとその周辺

 「ユダヤの終末論―バビロニアに起源をもつ―において、ビヒモスとリヴァイアサンは 二つの怪獣で、ビヒモスが陸(砂漠)を、リヴァイアサンは海を支配し、前者は雄、後者は雌 といわれている。陸に棲む動物達はビヒモスを、海に棲む動物達はリヴァイアサン を自分達の主として崇める。いずれも混沌の怪物である。黙示録によれば、 ビヒモスとリヴァイアサンは世界の終末直前に現れることになっている。 そして彼らは恐怖の支配を確立する―が神によって亡ぼされることになる。 他の諸説によると、ビヒモスとリヴァイアサンは絶えまなく互いに相争い、 結局は同士討ちになっていずれも亡びてしまうことになっている。 かくして正義と公明の意志の日がやって来るのである。 動物達は神の王国の再現を予告する饗宴において両方の肉を食ってしまうのである」(フランツ・ノイマン/加藤栄一・岡田友幸・小野英祐共訳『ビヒモス―ナチズムの構造と実際―』(みすず書房、1963年)1頁)

  獣に対する支配権は自然の権利である

 「我々は、非理性的な動物に対する権利を、我々が人間の法的な人格に対して行ったことと同様の方法、すなわち、武力や自然的な力で得ることができる。というのは、自然状態においては、それが万人の万人に対する戦争状態なので、全ての者にとって彼らが善であると思われる時はいつでも他者から奪い殺害することが合法的であって、このことは野獣に対してはより以上に合法的になるからである。つまり、それらの野獣を、使役のために飼い慣らし、適応させ、行動の自由を隷属の状態に落とすこと、その他には危険で有害な絶え間ない戦争によって、虐げ滅ぼすことである。したがって、動物に対する我々の支配権は、その起源を「神の実定的な権利」からではなく「自然の権利」から持つ。というのも、もしそのような権利が聖書の出版以前には存在しないとしたら、聖書において神の意志が明らかにされた者を除いて、いかなる人も権利によって食物とするために野獣を殺すことができず、野獣は侵害なしに人間をむさぼり食うが人間はそれらを倒すことができないという、人間にとって実際のところ最も困難な状況となるからである。したがって、野獣が人間を殺害することが自然の権利から生じるように、また、同じ権利によって人間も野獣を殺害することができる。」(伊藤・渡部訳916-917)

 第二節 人間と動物の相違は、動物の誇りと卑下の原因が精神ではなく、身体にだけあることによる―ヒュームの『情念論』とその周辺

 「これらの情念の原因は、われわれ人間が動物より優れた知識と知性を持っているということを〔以下のように〕割り引いて考えるならば、動物の場合にもわれわれの場合にもほぼ同じである。〔人間の優れた知識と知性ゆえに生じる動物との相違は以下のようなことである。〕たとえば、動物は徳や悪徳の感覚をほとんど、あるいはまっく持っていない。彼らは、血縁の関係をすぐに見失ってしまうし、権利や所有の関係を持つことは不可能である。以上の理由で動物の誇りと卑下の原因は、ただ身体にだけあるに違いない。つまり精神にも外的対象にも原因が置かれることはあり得ない。しかし、身体に関するかぎり、人類の場合と同じ性質が動物においても誇りの原因となる。すなわち、この情念に基づいているのは、常に〔身体の〕美しさ、強さ、速さ、およびその他の有用な、または快い性質なのである。」(石川・中釜・伊勢訳62-63)

 第三節 人間が人間たる所以は、人間(人類)が道徳を完成させるという、その使命の完遂のために絶え間なく接近する道を歩むことにある―カントの『人間学』

 とその周辺

 「人間は一方でその本姓〔自然〕に駆り立てられたえず幸福を得ようと努力するが、他方理性は幸福を抑制する製薬として、その前に(幸福であることに値する尊厳を体現すること)つまり道徳性を守れという条件を課するので、〔性欲や科学の場合と〕同様に幸福の実現に関しても人類は、その使命を果たすことはほとんど覚束ないように思われる。―自然状態から敢然と脱出しようとする人類についてルソーは心気症的な(ご機嫌斜めの)描写を描き記しているが、必ずしもこれを彼の本心と見なして再び自然状態へ回帰して森のなかに戻りましょうという呼びかけと受け取る必要はないのであって、ルソーはあのように描写することによって人類が〔道徳を完成させるという〕その使命の完遂に絶え間なく接近する道を歩むことがいかに困難であるのかを表現したのであった。彼の真意がどこにあったかを勝手にでっちあげてはいけない。―〔ルソーでなくても〕どんな思想家であれ、古代から現代に至る経験を顧みる者はみな、われわれ人類にいつの日か〔道徳的に〕いっそう善なる状態が訪れるのであろうか、という問題に取りくんだ末に、これに懐疑的になることは避けられないのである。」(渋谷・高橋訳319-320)

 第四節 小結


第四章 19世紀から現代に至るまでのポップな思想

  第一節「キリンの首はなぜ、長い」―ダーウィンの進化論とその周辺

  第二節 「最大多数の最大幸福」は『ソラリスの海』か―ベンサムの功利主義とその周辺

 「つまりここでは、我々が他者の快苦を自らのものとは等しく計算しないことにによって、人格を通じた快楽の最大化が失敗しているのだ。現在の自分にとって見れば、将来の自分も現在の他者も、現に経験することのない存在であるという点では異なるところがない。にもかかわらず、我々のそれに対する態度の差から、両者に対する幸福の最適化に違いがもたらされるのである。だとすれば―自らの原理に忠実な功利主義は言うことになるだろう―そのよう障害は取り除かれるべきではないか。すべての人格のあいだの境界を取り除き、他者の快苦に対して自らの感覚とまったく等しく配慮できるようにすれば、そのような失敗は発生しなくなるのではないか、と。つまり、この構想が実現する一つの姿は、我ら人類がすべてソラリスの海へと溶けていくことにある、ということになろう。」(大屋198-199)←エヴァの人類補完計画か、生物都市のような

   第三節 「博士の異常な愛情」とゲーム理論の周辺(ノイマンか、ゴーティエ)

  第四節 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』―アラン・チューリングの「人間と電子頭脳の見分け方」とその周辺

  第五節 小結

第五章 ノージックの例を使ってSF的な仮想事例で人間の「万物の霊長性」を検討してみよう

  第一節 ロバート・ノージック概説

 第二節 ジョージ・オーウェルの『動物農場』の検証

  すべての動物は平等だが、あるものは他のもの以上に平等なのだ

 第三節 『ドノヴァンの脳髄』あるいは「マトリックス」の素材たる「経験機械」の検証―あるいは邯鄲の枕

 第四節 『幼年期の終わり』あるいは『進撃の巨人』の検証―人間と動物だけではなく、人間以外の人間よりも優れた生物に対する我々の自己防衛

 第五節 『冷たい方程式』―生き残るための戦略、それは功利主義かゲーム理論

 か

第六章 結びにかえて 

 

 

土井スクーリング

2014年05月13日 22:21

5月12日の備忘録。

 

 

12時20分、京都大学生活協同組合カンフォーラでパスタランチ 594円を食べる。

 

18時15分、京都大学生活協同組合中央食堂で以下のものを食べる。

 エクレア                    64円

 ロースカツカレイ              378円

 小松菜わさび和え              64円

やはり図書館で勉強

2014年05月13日 22:18

5月11日の備忘録。

 

 

 12時9分、京都大学生活協同組合カンフォーラで今週のランチ 594円を食べる。

 

 19時5分、松屋百万遍店で鉄皿デミたまセット 640円を食べる。

図書館で勉強

2014年05月10日 21:15

5月10日の備忘録。

 6時2分、なか卯京都八条口店で目玉焼き納豆朝定食 300円を食べる。

 

 

 13時11分、京都大学生活協同組合カンフォーラで今週のランチ 594円を食べる。

 

 

 

 19時37分、わらい百万弁天で京天焼 エビ玉 894円を食べる(テーブルNo.4)。

 

 20時21分、ベルマート京都店でUSBフラッシュメモリーG4  1007円を購入する。

国法学と立法学

2014年05月10日 21:14

5月9日の備忘録。

 

 

 

 

 

 

王の二つの身体

2014年05月10日 21:12

5月8日の備忘録。

 

 9時50分、駅前のすき家で牛小鉢たまご朝食 302円を食べる。

 

  13時24分、大学近くのガストでQUOカードを使ってバーグ2  499円を食べる。

  16時20分から17時50分まで、B203で「法と社会」の講義を行う。

  先週に引き続き、「イワン雷帝」の第二部を学生たちと一緒に鑑賞し、講評を加える。

  先週、学生に課したレポートがよく書けていたので以下に内容を書き込む。

 教育学部社会   A・T

   今回、私は『王の二つの身体』(作者:エルンスト・H・カントロヴィチ)と『イワン雷帝』の関連性について考えてみたい。私がこの著書と『イワン雷帝』がつながっていると考える場所が二こほどある。まず、p.224l11-13の「キリストがその頭であると同時に夫でもある、超個人的なキリストの集団的身体たる教会は、その正確な対応物を、君主がその頭であると同時に夫でもある、超個人的な君主の集合体たる国家の中に見出したわけである」という部分だが、これは『イワン雷帝』でイワン皇帝が大貴族による多頭政治を否定した最初のシーンにつながると考える。イワン皇帝はロシア全土を統治する専制政治が必要と半ば強硬に周囲の人々を従わせていたが、上記の著書の内容が中世の政治思想としてあるならば皇帝の行いは当然の流れであると考えられる。君主は「その(国家の)頭であり、同時に夫でもある」ということから頭は必ず1つであるし、夫も必ず1人であるために多頭政治は否定されて当然であり、1人の君主が専制政治をすることは当たり前だとイワン皇帝は考えたのではないかと私は思う。次にp.237l3-4の「世俗国家は―これに対する対型を確立することによってこれに処すべく―ほとんど否応なしに教会の模範に従うことを余儀なくされた。」という部分で、これは、映画のほぼ全てにわたって教会が多大なる権力を握っている様子が描かれていたことにつながると私は思う。この著書を読んで感じたことはキリスト教の考え方が先に発展しており、国家での統治についての政治の考え方はだいたいキリスト教の教会の考え方を模倣したものであるということがわかった。王の二つの身体(生身の肉体と、政治的身体)という考え方もキリスト教の教皇のあり方からできた考えであるということも知り、ヨーロッパ世界での教会の持つ権力に改めておどろかされた。このような経緯から中世のヨーロッパ社会では教会の力は絶大であったことがよくわかった。そしてイワンがロシア皇帝に就任する際も、神から認められるということであくまで教皇が皇帝を任命するという形がとられていたのではないかと考えた。

 以上2つが私がこの著作から『イワン雷帝』につながっていると考える部分としたい。

 18時59分、駅構内の吉野家で牛丼並 300円を食べる。

名刺が出来た

2014年05月07日 12:23

5月7日の備忘録。

 8時21分、デニーズでベーコンエッグ朝食単品 515円を食べる。

 

 10時54分、駅前の松屋でおろし牛めし並 430円を食べる。

 

 11時36分、生協購買部で注文していた名刺 4104円を引き取る。

 

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