「咲」上映会
2013年12月09日 12:1412月7日の備忘録。
8時12分に、近くのデニーズでサラダモーニング単品 400円を食べる。
ニコニコ動画の下記一挙上映会を鑑賞する。
ニコニコアニメスペシャル「咲-Saki-」1話~13話一挙放送(番組ID:lv159124852)
【会場のご案内】
2013/12/07(土) 開場:16:30 開演:17:00
来場者数:152106人 コメント数:303568
19世紀から21世紀の大陸国法学の研究
12月7日の備忘録。
8時12分に、近くのデニーズでサラダモーニング単品 400円を食べる。
ニコニコ動画の下記一挙上映会を鑑賞する。
ニコニコアニメスペシャル「咲-Saki-」1話~13話一挙放送(番組ID:lv159124852)
2013/12/07(土) 開場:16:30 開演:17:00
12月5日の備忘録。
8時23分に、近くのマクドナルドで以下のものを買ってくる。
チキンエッグマフィンセット 530円
チキンエッグマフイン
ハッシュポテト
アイスカフェラテM
県立図書館に行って、倫理学のレポートをまとめる。
第1章 はじめに
ユダヤ・キリスト教の倫理思想を、通教テキストを通読した上で、関根清三『ギリシア・ヘブライの倫理思想』(東京大学出版会、2011年)の第9章「ヘブライの宗教倫理と贖罪思想―『イザヤ書』『第二イザヤ書』を中心に」に則して説明していくことにする。なぜならば、この章こそが、ヘブライズムの倫理が贖罪信仰たるキリスト教へと「究極」することを説明しているからである(関根・前掲書299頁)。
第2章 『イザヤ書』のアンビバレンツ
イザヤは預言者として神から召命を受けた時、「民が「立ち帰って癒されることのないため」に預言せよ」、という使命を与えられた。しかしふつうは、預言というものは、「民の立ち帰りと癒しを目指すように思われる」ものである(前掲書273頁)。関根は、これを《イザヤは主観的には民の悔い改めと神からの救済を意図して預言したけれど、その預言が客観的には結局、民の頑迷と神からの審判を結果した》と解する。しかし、このように解したとしても、どうして預言の主観的意図と客観的結果の間に、食い違いが生じたのかの説明が必要となる(前掲書274頁)。関根は、C・G・ユングや湯浅康雄の議論を用いて以下のように説明する。
「預言者は民の道徳的不正に終始固執したけれども、民の罪は、あるいは総じて多くの犯罪というものは、無意識領域からの救済の力を制御し得ない、意識の無力から起こっているのである。だが預言者のように意識の道徳的判断のみを頼りにしてそういう衝動を禁圧しようとすれば、むしろ自然悪の力を増大させ、その抑圧され溜まりに溜まった悪の力の爆発という形でより多くの道徳的悪を生み出す場合が少なくない。道徳的訓戒は、悪の大きな力にとらえられた人間に対しては無力である。《これは罪だ、そのことを認めよ》といった論理によって、悪の力が消滅するというものではない。悪はむしろ、そういった裁きではなく、むしろ忍耐強い愛の力によってこれを馴化し、矯正して行くほかはない」(前掲書275頁)。
こうした預言者の義の神においては、他者関係の罪は自覚されることなく、したがってその関係の修復もあり得ないとするならば、では愛の神はどうかという次の問いが生じてくることになる。
第3章 ダビデにおける「罪の赦し」
ここで次に議論されなくてはならないのは、ダビデのバテシェバ事件を主題とした『サムエル記下』11-12章および『詩篇』51篇の解釈である。関根は、P・リクールを用いて以下のように説明する。
「すなわち、罪の赦しが告知されて初めて告白もなされるというのが、その答えに外ならない。ナタンがダビデを当てこすった寓話を話しても、ダビデは自分と関係のない話だと思っていた。それほど罪は理性の認め難いものであり、自他に対して隠蔽しがちなものである。しかしナタンを通して神からの罪の赦しが告げられた時、ダビデは赦された当のものが、実は罪であったことに気づき、それを認め告白する勇気を与えられた。こうして「私の罪は、常に私の前にある」という認識が初めて彼のものになったのである。罪はそれ自体としてはなかなか認め難いものであり、ただ弾劾されても人は無数の言い訳をするだけだろう。イザヤの頑迷預言で見た通り、それが弱い普通の人間の性なのであろう。だが弾劾ではなく赦免が語られる時、人は罪がそれだけで単独の概念なのではなく、赦しとの相関概念であったことを知るのである。すなわち、それまで漠然と悪いことをしたと思っていても、罪と呼ぶほど大層なものではないと高をくくっていた、過去の行為が、赦されて初めて、完膚なく語の十全の意味で罪そのものであったと気づくものだということ」(前掲書278-279頁)。
このことを前提に、『詩篇』51篇「あなたに、ただあなたに罪を犯した(レヒャー・レバデヒャー・ハーターシー)」の解釈を以下のように解すべきであると関根はいう。
「つまりレバデヒャーは、「とりわけあなたに」とでも訳した方が、原意に沿っているのである。そうしてこう訳すならば、「ただあなた(神)に」と訳していたときのアポリアが解けるのである。これは、対人関係の罪を免罪されるための遁辞ではない。むしろ「とりわけあなたに、私は罪を犯し」という言い方は、ダビデの罪の当体である殺人の相手ウリヤへの思いが言外に込められているのである。「とりわけ」というのは、他に比べて殊に、の謂であって、神以外のその「他」とはウリヤを指すほかはないからである。つまり「ウリヤに私は罪を犯しました、そしてあなたが忠実な武将として私に与えてくださったウリヤに罪を犯したことによって、私はとりわけあなたにも罪を犯したのです」という告白が、この一句の意味ということになるだろう」(前掲書281頁)。
このようにして、次の第三番目のポイントが明らかにされた。つまり、関根によれば以下のように説明される。
「ダビデはそれまではどうにかして神と出会おうとして来た。例えば敬虔な祭儀行為や見栄えのよい事業によって神の歓心を買おうとした。しかし無駄だった。王としての説教や、人前で堂々と語れるような思想を通してもゆはり神とは出会えなかった。しかしそうではなくて、自分の中のひそやかで邪まな欲望、惨めな自己正当化の願い、人前で語れないような恥、そして何よりもそれらに働き動かされて取り返しのつかないことをした負い目と悔恨、そういった自分に染み付いている「罪」としか名付けようのない、心の「秘められた所」、そこで辛うじて神に出会ったというのが、ダビデのここでの発見なのである。それは、あの預言者イザヤのような義の神ではなく、愛の神、赦しの神との出会いであったと言ってもよいであろう」(前掲書282頁)。
しかし、以下のような疑問が倫理思想の観点から残されることになる。
「すなわち、愛する妻を王に寝取られ、その地位を利用した王の画策によって殺されてしまったウリヤの無念はどうなるのか、その被った悪はどう償われるのか、このダビデの歌はあまりに虫のよい加害者の、神を笠に着た予断に基づくのではないか、彼は自らの犯した罪の責任をどう取るのか、そもそもこのように罪悪を罰せずに闇雲に罪悪を赦す神の正義は如何にして弁証されるのか」等々である(前掲書283頁)。
第4章 『第二イザヤ書』の贖罪思想
これまでの説明をした上で、関根は「義か愛かどちらかに偏るのではなく、両者を統合するような神を我々は更に捜し求めなければならない」とする(前掲書283頁)。そうした神の発見を、彼は『第二イザヤ書』のいわゆる「第四の僕の詩」に見出すのである。
「ここで「彼」すなわち、神の僕、が誰かについては数多の説がある。その詳細について、ここでは立ち入らないが、結論として私は、個人としては、将来現れるべきメシアと第二イザヤ自身を指し、集団としてはイスラエル全体を含意すると考える。そうした複数の読み込みを許す象徴的な書き方がなされていると解するのである。……いずれにせよ、ヘブライ人の「驚き」の対象は、突き詰めたところ神の業であったが、この神の僕において、神の業は究極的な姿で「現れた」と言われる。その業こそ、周囲の「多くの国民たち」から、僕の身近にいた「我ら」に至る、総ての人を驚愕させたというのである。ではその「驚」くべき業の具体的内容とは何か。それは次の数節(同書53章4-5節)に集約される。
…… ここに、旧約聖書中唯一無比の贖罪思想が語られている。すなわち、「苦難の僕」と呼ばれる義人である「彼」への苦難は、理不尽に下されるのではなく、贖罪的意図のもとに下されていたというのである」(前掲書285頁)。
これが、新約においてどのように「究極」するのか。これについて、関根は以下のように説明する。
「なお動物犠牲に始まり、執り成しの祈りといつ人間の犠牲の可能性、そしてこのイザヤ書53章の人間犠牲の現実態を経て、新約聖書(キリスト教)では、動物でもなく人間でもなく神自身が己の独り児を犠牲として捧げる究極的な形になると考えられていることを、ここでは一言付言しておきたい。……
主イエスは私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。(『ロマ書』4章25節)
神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになった。それはご自身の義を現すためだ。というのは、今まで犯されて来た罪を、神の忍耐をもって見逃して来られたからだ。(同書3章25節)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられる。(同書5章8節)
あるいは、
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされた。ここに愛があるのだ。(『ヨハネの第一の手紙』4章10節等々……)」(前掲書287-288頁)。
このように、『第二イザヤ書』を結節点としてユダヤ教の「義」とキリスト教の「愛」とが統合されたのである。関根はそのことについて以下のようにいう。
「ここでは、ヘブライの人々が真の対象とした、倫理的行為に報いる応報の神など本当に存在するのか、という、前章からのあのヘブライ思想の根幹を揺さぶる問いに対する一つの究極的な解答が示されていると言ってよいであろう。罪人が栄え、義人が苦しむ現実は、旧来の応報思想では説明できなかった。こうした現実を応報ドグマによっていたずらに糊塗するのでもなく、と言って、コヘーレスのように応報思想を全く否定し、他者関係における不義の現実は嘲笑するだけでエゴイスティックな個人の快楽に神を見出すのでもなく、あるいはイザヤのように、義による裁きの神を告げるだけでも、ダビデのように愛による赦しの神にすがるだけでもなく、応報の原理が機能しないこの世の現実をありのままに視野におさめつつ、それを言わば逆手に取って、正にそこでこそ現れる神の発見がここで語られているのである。すなわち、ただ愛をもって闇雲に赦すだけならば、神の義は弁証されないが、一人の人に多くの人の罪を代わって贖わせ、そのことによって義を貫徹し、しかも多くの人に対する赦しの愛を成就する神の発見である。我々の経験する現実と齟齬しない真に驚くに足る神は存在するのか、という、あのヘブライの倫理思想の究極の問いに対して、旧約から新約に至る系譜が幾多の紆余曲折を経て辿り着いた、結論がここにはある。すなわち、直接的な倫理的応報の神は存在しないが、代理贖罪という間接的な形で応報を貫徹する神が存在する、というのが、その結論の内容にほかならないのである」(前掲書288-289頁)。
第5章 むすびにかえて
最後に、関根のまとめをもって本稿をしめくくることにする。
「「驚き」を標榜するヘブライの倫理思想の根幹を揺るがす問題を私は、倫理的行為に報いる応報倫理的な神が果たして存在するのか、という問いに見出した。この問いは、コーヘレスのニヒリズムによって否定的に答えられたが、コーヘレスがこれに代えて持ち出して来た神は、他者連関を無視したエゴイスティックな快楽において感じ取られるというだけの代物だった。そこで我々は続いて『旧新約聖書』の他のテクストに、直接的な応報という「統一的秩序」が破綻しているというニヒリズムの冷徹な現実認識は踏まえつつも、しかし他者関連という人間の根本的な存在様式も視野に入れた新しい神観を模索せねばならなかったのである。イザヤやダビデ等の紆余曲折を経て、第二イザヤの53章、そしてパウロを始めとする新約の諸書に至ってようやく、他者連関における応報の破れを前提としつつ、その破れにこそ他者の罪を負った贖罪的意味を見出す神が発見されたのである。パウロの引用にあったように、そこでこそ「ご自身の義を現」わし、同時に「愛を明らかに」する神と、人は出会ったのである」(前掲書294頁)。
-以上-
<参考文献>
①関根清三『ギリシア・ヘブライの倫理思想』(東京大学出版会、2011年)
②関根清三『旧約における超越と象徴―解釈学的経験の系譜』(東京大学出版会、1994年)
③関根清三『旧約聖書と哲学―現代の問いのなかの一神教』(岩波書店、2008年)
④福岡安都子『国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』(東京大学出版会、)
(追記:2014年2月3日補足)
講評:A合格(佐藤先生)←よかった
テーマ設定に即した展開があり、注意深い読解に値するレポートであると思います。
12月4日の備忘録。
午前6時前に起床し、シャワーを浴びて検査入院の準備を行う。
午前8時前に、共済病院に到着。
午前8時半に、受付で入院・検査手続きを行い、3階の病室に移動。
午後9時から午後11時まで、病室でニフレックを2時間にわたりちびちびと飲んでいく。
意外と、昔飲んだことのあるマグコロールよりもすんなり飲めるので、ここまでは問題なし。大変なのは、午前10時半過ぎから頻繁にトイレに行かなければならないということである。
午後12時過ぎに、点滴を開始し内視鏡検査の順番待ちをする。
午後1時過ぎに、内視鏡検査の順番となり、1階の検査室に移動。
およそ、30分間程度、内視鏡検査を行い、大腸内にできた無数のポリープの中から、組織検査のため三つを切除した。
主治医の茂木先生の話によれば、炎症は止まっているが、発病したときが重症だったので腸内の組織が無数のポリープになって固定化してしまったとのこと。それと、組織検査の結果は12月18日以降に判明するとのことであった。途中、内視鏡で自分の腸を見たが、なにかナマコのように突起物になったポリープが散見された。
内視鏡検診前から行っている点滴がなくなるまで、病室で待機し、診察の料金の支払いや、次の定期健診までの注意についての話を聴く。
午後4時前後に、出血もそんなに酷くなかったので、はじめて内視鏡検査をした日に日帰りで自宅に戻れることになった。
午後5時過ぎに、自宅マンションに帰宅。
今日は、本務大学本務学部の忘年会であったが、当然のことながら飲み食いできないので欠席し、自宅で軽食をとって夕食を済ませた。
大体、午後9時前に就寝した。
帰宅後、腸の様子というよりも胃の具合が悪かった。
12月3日の備忘録。
本務大学に出勤するまで、BSで「魔性の難問~リーマン予想・天才たちの闘い~」を鑑賞する。
午前10時半過ぎに、自宅マンションを出てバスにて大学に向かう。
総務に行って、明日の教授会の委任状を書いて提出する。
午後1時から午後2時半まで、明日の教授会で任用される社会科教育教室の新メンバーの業績展示の受付を勤める。
午後6時過ぎに、明日の内視鏡検査に備えて、無理を言って検査食をデニーズに作ってもらい、それを食べる。
午後9時過ぎに、シャワーを浴びて、下剤を飲んで就寝。
12月2日の備忘録。
このブログも開設して1年が経過した。
参考までに、第1日目の備忘録を再UPすることにする。
昨日、『新・スタンダード憲法』の執筆担当の原稿を苧野さんに添付ファイルでメール送信したので、今日は久しぶりに休日らしい週末を送ることにした。この原稿は、およそ3週間前に書き上げていたのであるが、字数制限を3割増しで書いてしまったために苧野さんからダイエットすることを求められ、それに応じて2000字近く内容を削ったものである。それでも、厳密に言えば字数は何百字はオーバーしているのであり、あとは編集委員の先生の指示を待つしかないであろう。
本当は、削った部分の説明が個人的には関心があるので、それを生かしてもらえれば有り難いのだが、贅沢を言ってはいられない。なんせ、この本が『スタンダード憲法』から『新・スタンダード憲法』に変わった時、やはり頁数オーバーで、執筆者を替わってもらうという前科がわたしにはあるからである。とはいえ、憲法と条約の関係についてはケルゼンの法段階説を使った方が読者には伝わりやすいと思うし、抵抗権についてはオーリウの請願権→生存権→抵抗権の請求の強度の差異を使った方が読者には伝わりやすいのではないか、と今でも思っている。ま~、このブログを読んだうえで、『新・スタンダード憲法』の改訂版をお買いになった訪問者は、本当はわたしがそこまで一応書いていたと理解してもらえればさいわいである。
しかし、年月が過ぎるのははやいものである。苧野さんとの出会いは、わたしが2005年度の文科省内地留学で慶應義塾大学にお世話になったとき以来である。その当時、苧野さんは小山ゼミのゼミ員、つまり学部の学生であった。特に、小山ゼミの箱根合宿で小山氏、上代氏および苧野さんとわたしの割り当てられた部屋で午前4時ぐらいまで語り明かしたのは懐かしい思い出である。そのあと、苧野さんは大学院に進学し、吉田社長の尚学社に就職するとは思いもしなかった。そんなわけで、苧野さんは学生時代の印象が強いので苧野くんと呼びそうになってしまう。それと、三田の二郎に最初に食べに行ったのは苧野さんが誘ったからであるし、帰任パーティーにも上代氏と共に苧野さんは横浜の店を用意し、わたしの本務大学での教え子と一緒にお祝いをしてくれたことが、つい最近のように思われる。
実は、この内地留学中に本務大学のホームページが大幅に改定され、他の部分はよいとしても『国法学講義ノート』の部分が削られたのが痛かった。と言うわけで、今回のWEBNODEで「独逸国法学研究教室」を、やっと今日になって作製しているというわけである。なかなか本題に入らない、わたしの癖がここでも出ているわけであるが、訪問者のみなさん、本HPならびにブログをどうか長い目で見てやってください。大学教員のわたしがよく見ているのは、林知更氏、南野森氏、木村草太氏および大日方信治氏のHPであるので、とりあえずはそれに準じたHPになれればなと密かに思っている。
しかし、今日は午後1時からこのHP作製にかかりっきりだな~。
(追記)わたしの父親は今治出身なので、第3回ゆるきゃらコンテストでバリーさんが優勝したのはなにか分からないが嬉しいことである。
2012.12.02.23:22
午後4時20分から午後5時50分まで、「法学概論」の講義を行う。
取り扱ったテーマは、『基本的人権の事件簿』の第24事件である。
講義の具体的内容は、リアクションペーパの掲載によって代えることとする。
・今日の講義で個人的に思ったことは、司法府は思っていたより難しい仕事をしているのだなと思った。国民が関わっていない機関であるがゆえ(最高裁判所裁判官の国民審査はあるが)、過剰に憲法に手出しすることができないが、手出し可能な範囲で最も常識的かつ論理的で、被告・原告双方の意見を踏まえた判決を出さなければならないという難しさがある。その点では、この裁判の判決はなかなかいい落とし所だなぁと思った。(Tくん)
・今日の講義では、まず、一番に大切な権利は自由権(自然権)であるということが分かりました。高校までの学習で「国家からの自由」から「国家による自由」を目指そうというような動きがあったので、勝手に社会権の方が重要なのかと思い込んでいました。また、憲法93条に国民ではなく、「住民」と書かれていることもはじめて知りました。(Mさん)
・今回はなんかスッキリした終わり方でした。
裁判所の判断「国会で認められればOK!」は確かに他人まかせ的なかんじもするけど、1番スッキリしている判断だと思うし、先生が言うように賢い判断であると思いました。命令と禁止の間の許容範囲であるグレーゾーンを白黒はっつきりさせるのは国会!納得です。(Tさん)
・第1条の「国民主権の原則」を考えると、日本国籍を有することがいかに重要であるか、ということを感じた。定住外国人の選挙権を争うくらいなら、帰化して日本国籍を得た方が話は早いのではないか、と思った。
裁判所の「外国人に地方参政権を与えることは憲法上可能」という判断は、第93条の「住民」を地方自治体の区域内に住所を有する日本国民を意味するという解釈が根拠であり、「国民」と見なすか「住民」と見なすかで判断に差が出る可能性があることに、この判例の難しさを感じた。(Mくん)
・今回の講義では、「定住外国人への参政権付与」について学んだ。日本国憲法では、国民主権が認められており、「日本国民」ではない開国人に対して参政権を付与することは憲法に反するといった解釈は、これまで外国人にも参政権を付与しても構わないのではないかといった自分の意見と違うものだったが、納得できた。
今回の講義を踏まえて、外国人への参政権付与を主張している革新系の政党の意見も見てみたいと思った。(Tくん)
・今回は参政権について学ぶことができました。参政権は「年齢」という基準だけで単純に有無が決まると思っていました。でも、それは浅はかな考えだったと思います。「参政権」について考えるには様々なこと知り多方面から見ていかなければならないのだなと思いました。特に、在日外国人の問題はとても興味があるので、法学を勉強しながら同時に深く考えていきたいです。(在日外国人と○○系アメリカ人などとの違いは、たしかに不思議だなと思いました)(Iさん)
・国籍の話をしているときに、芸人のねこひろしを思い出した。彼は、他の国のオリンピック選手になるために、他の国の国籍をとったが、私は、これはどうなんだろうと思った。他の国のオリンピック選手になるためだけに、国籍が簡単にとれてしまうことは、おかしいんじゃないか、と思った。
また、昔の事例で、アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた女の子が無国籍になってしまったというのは、とてもかわいそうだと思った。
今の国籍の事情について気になったので、調べてみたいと思った。(Tさん)
12月1日の備忘録。
9時4分に、近くのマクドナルドで以下のセットを購入。
ソーセージエッグマフィンセット 500円
ソーセージエッグマフィン
ハッシュポテト
アイスカフェラテM
午後1時から午後5時まで、県立図書館で「国語学」のレポートをまとめる。
第1章 問題の設定
私は、生まれは東京で、父の転勤の関係で義務教育は小学校から高等学校まで大阪ですごし、大学から大学院時代の10年間は東京で生活し、現在は縁あって茨城で就職し、そして生活の拠点を置いている。また、父母はともに愛媛出身で、大学・短大は東京であったので私が小学校までそのまま東京で生活し、その後、現在に至るまで大阪で生活している。このようなことからも分るように、私自身は東京、大阪および愛媛の俚言については生活体験からある程度は理解できるが、茨城の俚言についてはそんなに詳しいわけではない。しかし、本レポートの課題は「地元の方言(俚言)」を取り上げるものであるから、あくまでも文献によって知りえたものを取り上げざるをえなかったことをあらかじめお断りしておく。職場は、その90%以上が他の県の出身者で占められ、地元の若者自体が私の接する場合では方言を使わないということも付言しておく。
第2章 地元の方言特有言(俚言)
まず、地元の県立図書館や市立図書館に行ったがそこに置かれていた方言辞典は平山輝男編『全国方言辞典①』(角川書店、1983年)と『全国方言辞典②』(角川書店、1983年)であった。①が県別方言の特色であり、②が県別人体語彙の体系であることから、これをもって地元の方言特有語の中で使われなくなってしまったと思われる語彙を三つ選ぶことは難しいと思った。そこで、こども用の本ではあるが真田信治監修『方言の絵辞典』(PHP研究所、2006年)を他の事典類と対比させて、三語を選んだ。
(1)コマル(茨城県)=「疲れた」
「疲れた」ということは、西日本を出身とする父母は「エライ」と言うし、又、初等・中等教育時代の大阪の同級生も「エライ」と言っていた。さらに、大学時代の東北出身の同級生は「コワイ」と言っていた。しかし、上述の『方言の絵事典』では、茨城県では「疲れた」ことを「コマル」と言うらしい。事実、私は茨城に赴任して10年以上経つが、同僚が「コマル」と言っているところを聞いたことがない。同書によれば、コマルは「困る」ではなく、「込まる=中に入ったままになる」が転じたものであると説明されている(同27頁)。この俚言がなぜ使われなくなってしまったか、自分なりに考察するならば「込まる」という意味にあると推測する。大辞泉によれば、仮に「コマル」=「込まる」=「籠まる」であったとしても、⑤の「気体などが外に出ないで、いっぱいに満ちる」。「充満する」ということになり、反対に気力充実ということになってしまい意味が反対となる。また、ワープロ、あるいはPCの普及によりこの文字選択は通常ではないだろう。
(2)コロゲル(茨城県)=行く、歩く
これも『方言の絵辞典』で知った。仮にこれが「車をコロガス」というのであれば、自動車を運転するということで理解できないわけではない。しかし、同書によると「行く」ことも、「歩く」こともコロゲルということである(同44頁)。これも大辞泉で調べてみると「ころげる」=「ころがる」=「ころころと回転しながら進む」ということになる。用語例では10円玉がころがるということになっており、円型のものが回転するということになる。したがって、人間は足が車輪ではないので、このような俚言は現在では使われなくなったと推測される。
(3)「イバララギ」=「茨城」=「イバラキ」
篠塚晃一監修『ひと目でわかる方言大辞典』(あかね書房、2009年)によれば、茨城の方言、特にその発音においては、「か行」と「た行」の音がにごるとされる。例えば、えき(駅)→えぎ、くき(茎)→くぎ、はた(旗)→はだ、もち(餅)→もぢというようにである(同92頁)。したがって、茨城は風土記以来、「イバラキ」であるが、「イバラキ」と発音される。たしかに、「茨木」は「イバラギ」であるが、「茨木」は「イバラキ」のはずであるが、発音上は両者とも「イバラギ」ということになってしまう。しかし、他所者である私が、特に教員である私が、学生に対して「茨城」を「イバラギ」と言うと顰蹙をかってしまう。これは、地域教育あるいは郷土史教育の賜物ということではないか。したがって、年輩者の発音がにごっていたとしても、その文字上の表記は「イバラギ」であり、これもまた地元の方言特有語の中で使われなくなってしまった語彙であると言えるのではなかろうか。
最後に、使われなくなった俚言との対比で、現在も使われている、特に私がよく聞く俚言としては「ごじゃっぺ」=でたらめなというものがあることを記しておこう。
第3章 むすびにかえて
『ひと目でわかる方言大辞典』によれば、方言を実際に調べるためには、まず調べる単語を決めて、それを年齢、いつからその地域に住んでいるのかを確認した人に対する「聞き取り調査」を行うべきことをアドヴァイスしている。職務の関係上、このレポートを書くために、教え子にこのようなアンケートをすることははばかられたので、もっぱら書籍による知識にとどまってしまった。これが、このレポートの残された課題であると考える。
-以上-
<参考資料>
①真田信治監修『日本語の豊かさにふれる方言の絵辞典―全国のことばを使ってみよう』(PHP研究所、2006年)
②篠崎晃一監修『ひと目でわかる方言大辞典』(あかね書房、2009年)
③金田一春彦監修『新レインボー方言辞典』(学習研究社、2002年)
④井上史雄『世界のなかの日本語⑥日本の方言、世界の方言』(小峰書店、2006年)
⑤石塚・川口・新貝・中川・中城・廣川編『【江戸~明治】昔のことば大事典―歴史や名作文学でよく見るモノや表現2000』(くもん出版、2011年)
⑥平山輝男編『全国方言辞典①県別方言の特色』(角川書店、1983年)
⑦平山輝男編『全国方言辞典②県別人体語の体系』(角川書店、1983年)
⑧茨城新聞社編『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年)
⑨村松明監修『大辞泉(増補・新装版)』(小学館、1998年)
(追記:2014年2月1日)
講評 堀先生 合格←よかった
生活体験をもとにした上で、多くの先行研究を調査し、課題をよく整理されています。特に顕著な例を選んで記述されている点が、よく工夫され、論をわかりやすく展開されたポイントでした。
17時46分、Hearth Brownで以下のパンを購入。
カリカリカレードーナツ 160円
彩り野菜とバジルのタルティーヌ 280円
「白州に咲いた母子草」を観る。
11月30日の備忘録。
13時22分、駅構内の吉野家で牛丼(並) 280円を食す。
11月29日の備忘録。
20時31分に、LAWSON田町駅三田口点でヱヴァンヲンQクジ700円を1回引いてみる。
11月28日の備忘録。
12時9分に、駅構内のK書店で以下の本を購入した。
12時42分に、庄やで久しぶりに松花弁当 680円を食べる(23卓番)。
5時限目の授業が始まるまで、教育社会学のレポートをまとめる。
(1)について
一.はじめに
本レポートの課題は、(1)「社会階級・階層と学歴の関係」について説明することと、(2)現代社会において「社会階級・階層と学歴の関係」がなぜ問題として取り上げられなければならないのか説明することの二つから成る。以下においては、二で(1)の説明を行い、三で(2)の説明を行うこととする。
二.社会階級・階層と学歴の関係
まず、ここにいう「社会階級・階層」とは社会学でいうところの「社会階級」あるいは「社会階層」概念の両者の長所を生かして、「社会階級・階層」としたものである。では、この概念がいかなる場合に使われるのかといえば、経済的に「豊かな層」と「貧しい層」、あるいは「高学歴層」と「低学歴層」、または「資本家層」と「労働者層」を説明するために使用される。1970年代以降から、日本社会は「新中間層」の多い相対的に均一な「一億層中流社会」であったが、近年の貧困や格差の広がりのなかで、この「新中間層」が富める階層と貧しき階層に二極化し、さらにはワーキング・プアなどの広範な貧困層が生みだされ、この現象は「格差社会」と呼ばれている。そして、この二極化は以下のようなかたちをもって学歴に、そして学力に影響を与えている。つまり、就学援助率が高い=貧しい層が多い学校ほど、子どもの学力テストの平均点が低い一方で、高い教育費を支払え、私立中学を受験する=豊かな層もまた拡大しているという現実がある。このことは、富裕層はあまりにステレオタイプないい方になるが「いい高校→いい大学→いい企業」という教育上の「再生産」を行う一方で、そうではない貧困層は「よくない高校→よくない大学・専門学校→フリーターやワーキングプア」という負の「再生産」を行うということになる。すなわち、家庭状況によっては学校での成功・不成功が決定されるということになってしまう。このような二極分解化が、「社会階級・階層」と「学歴の高低」の相互に起こっているからこそ、「社会階級・階層と学歴の関係」についての説明が求められるのである。少なくとも、両者の関係においては因果関係があるかのように思われる。したがって、まずは(2)の問題に入る前にこのことについての説明が必要なのである(久冨善之・長谷川裕編『教育社会学』(学文社、2008年)144-148頁、152頁)。
三.なぜ、社会階級・階層と学歴の関係が問題として取り上げられなければならないのか
なぜ、この問題が取り上げられなければならないかというと、学校を「社会移動の装置」として捉える学説と、学校を「再生産装置」として捉える学説の対立が研究史上見られたからである。
まず、前者の考え方は以下のようなものである。
「「社会階層と社会移動」研究では、近代社会の産業化が進展すればするほど、人々の自由な職業間移動や階層間移動が実現されると考えられていた。「社会移動」が多い社会は「開放性」の高い社会と呼ばれ、それが「平等な社会」の実現とされた。これを「近代化・産業化仮説」と呼ぶ。この仮説では、学校制度は「社会移動」装置だと想定されているといえよう。「教育と社会階級・階層」研究の歴史は、学校が社会移動を促進する制度として、もっといえば、貧困を解消し、社会の平等を実現する「平等化」装置としての力を発揮するか否かが問われた歴史だったといえる」(前掲書・148頁)。
しかし、1960年代半ばに、「補償教育政策」の成果を判断するために調査が行われ、この調査の結果は「コールマンレポート」と呼ばれることとなったが、それによれば、学業達成の成功・不成功は教育環境よりも、子どもの人種や出身階級などの社会的背景によって制約されているという結論が下された。つまり、この調査結果は、学校での学業達成の成功・不成功の背後には、教育環境ではなく、家庭要因が大きくかかわっており、成功できない仮定には文化的な「欠陥」があるという「文化的剥奪論」という考えを促進することになる。1972年には、これを再分析したジェンクスらによりこの仮説は失敗したと結論づけられた。この失敗を背景にして、教室内部で階層的不平等を発生させる要因を検証する「教室研究」が盛んになってきたのである」(前掲書・148-149頁)。
では、後者はいかなる考え方なのであろうか。それは、小澤によれば以下のようになる。
「「文化的再生産論」とは、学校は生徒の文化的差異や社会的差異を再生産する装置であり、またそのことを通じて、社会階級やそれに基づく不平等が再生産され、正統化されるという学説である」(前掲書・149-150頁)。
ここでは紙面の制約もあり、ブルデューの文化的再生産論のみを取り上げる。彼は、①学校内部の仕組みそれ自体のなかに、文化的不平等を増幅する要因があるとし、とくに、学校が教えられる知識には階級的なバイアスがあるとする。次に、②「文化資本」が多く、学校文化に「親和的なハビトゥス」をもつ生徒は学校で成功=同化することが相対的に容易であり、文化資本が少なく「非親和的なハビトゥス」をもつ生徒は学校で失敗=排除される傾向が相対的に高いとされる。最後に、③学校での文化的不平等の再生産を通じて、社会の階級的不平と階級的な支配関係が再生産され、正統化されるとする(前掲書・150頁)。
このように、前者は失敗に終わり、結果として「文化的剥奪論」を促進するだけにすぎず、後者は学校こそが社会階級・階層の不平等を再生産している制度であることを明らかにしただけで、その解消の具体的な処方箋を提示したとはいいがたい。日本型新自由主義政策によって促進された「日本型大衆社会の再収縮」を見るとき、その教育における影響を看過するわけにはいかない。ここに、社会階級・階層と学歴の関係が問題として取り上げられなくてはならない意義があると考える。
-以上-
(2)について
(1)で十分に論じることができなかった、ハビトゥス、特に「文化資本」あるいは「文化的資源」について、自らの体験について論じよう。
私は某大学で教えているのであるが、ある機会に学生に「大学生である間、できれば教養を身につけるために一日一冊本を読むことをおすすめします」というようなことを講義の冒頭で言ったことがある。この時、あとで学生が一日一冊読むことは、本に対する支出上文句を言う学生が出てくるのではないかと思ったのであるが、リアクションペーパーを読むと、それとは別の文句が出てきたので、それを明記する(学生のプライバシー保護のため、大学名、学部名、氏名、性別は記述しない)。
「先生は大学生は本を1日1冊は最低でもよめ、とおっしゃいましたが、そんなにひまだと思っているのでしょうか。
私は本を読むのは好きな方だと思います。大学生になって高校のときよりも時間的によゆうができると思いました。しかし、バイトや家事があり、ひまな時間はありません。私は実家からかよっているのですが、本をよむひまがあるくらいなら、家事をやれとよくいわれます。もし先生が大学生のときに1日1冊の本をよむ時間があったなら、また今もそのような時間があるならば、生きていくために必要な家事はだれかにまかせて、そのような時間がとれていたのかなと思います。
月に1冊なら可能ですが1日1冊はむりです。
(以下、講義の内容について)」
ここで、ブルデューの「文化資本」の説明が想起される。彼によれば、それは①身体化された様態(たとえば、読書習慣や美術館通い)、②客体化された様態(本や辞書などが家に多くある)、③制度化された様態(学歴や資格)の三つの様態からなるとされている。
とすれば、私は①の読書習慣を大学生につけてもらいたいと、学生に言ったのであるが、学生の側には①の習慣がないということになろうか。もちろん、学生の中にはかなりの読書家もおり、また母子家庭でありながら休日には美術館巡りをするという学生も私のゼミ生にはいた。そこで、わたしが考えるのはこの「文化資本」については学生とその家族におけるプライオリティの比重の置き方の相違が重要であるということである。明らかに、彼(女)および彼(女)の家族は読書よりも家事にプライオリティを置いているということが理解できる。また、1日1冊本を読むことは流石に無理があっても、1月1冊の読書をもって「私は本を読むのが好きな方だと思います」とは一般にいえないのではないか。
反対に、私自身の学生時代をかえりみるとき、私の両親は教員であったこともあり、バイトするぐらいなら仕送りを多目にするから、その分は勉強にいそしめということで、かなりの読書をした。もちろん、そこにおいては生活費の問題も度外視することはできないが、それ以上になににプライオリティを置くのかということが重要であろう。このようなことは、本課題での「社会階級・階層と学歴」の問題にマッチした事例であると思い、あえて例とさせてもらった。もちろん、ここでいう学歴とは大学以上の高等教育を受けているかどうかという問題とは別レベルの問題だと考える。
-以上-
<参考文献>
久冨善之・長谷川裕編『教育社会学』(学文社、2008年)
(追記:2014年1月30日)
採点(竹○先生) 合格
コメント
(2)の自らの体験は、文化資本=ハビトゥスについて示されている例であるが、社会階級、社会階層という視点が弱いのが残念であった。
(1)については、良好です。
18時48分に、駅構内の吉野家で牛すき鍋膳(並) 580円を食べて帰る。
11月27日の備忘録。
午前8時50分から午前10時20分まで、「日本国憲法/現代人権論」の講義を行う。
講義の具体的内容は、リアクションペーパーの掲示によって代えることとする。
・講義内容に飛躍があるように見えても、例え話の中に、本質的にはどういうことかが見えてくる。理解しやすいし、学習内容を自分なりに解決することの例示にもなっているのかと感じた。(教育・Nくん)
・先生は大学生は本を1日1冊は最低でもよめ、とおっしゃいましたが、そんなにひまだと思っているのでしょうか。
私は本を読むのは好きな方だと思います。大学生になって高校のときよりも時間によゆうができると思いました。しかし、バイトや家事があり、ひまな時間はありません。私は実家からかよっているのですが、本をよむひまがあるくらいなら、家事をやれとよくいわれます。もし先生が大学生のときに1日1冊の本をよむ時間があったなら、または今もそのような時間があるならば、生きていくために必要な家事はだれかにまかせていて、そのような時間がとれていたのかなと思います。月に1冊なら可能でも1日1冊はむりです。(教育・Wさん)
・デモクラシーがデモスとクラシーから成り立っていることを初めて知った。自分も大学受験の勉強をするときには英単語を漢字のへんとつくりのように分解して覚えていたのでなつかしくなった。
思考経済という言葉は聞いたことがなかったが、合理的な意味を持っているのかなと思った。(教育・Kくん)
・「アリストクラシー」は「アリスト(貴族)」+「クラシー(政治)」ということだと知ったので、では、「アリストテレス(人名)」は偶然同じになったのか、それとも芸名?として「アリスト」を付けたのかなと、疑問に思った。
サザエさんを例とした投票権については、おもしろく、分かりやすかった。イクラちゃんにいたっては、安倍さんが聞いたとき、1/3の確率で「はーい」と言ってしまうので、それだったら死票になったほうがいいと思った。(教育・Oさん)
・今日の授業では、天皇の話が印象的でした。第1条で一番大切なところが「主権の存する日本国民の総意に基づく」だとは思いもしませんでした。天皇は私たちの総意あってこそのものだと知りました。
・サザエさんの話がおもしろかったです。先生は、たくさんの本をお読みになっているのだなと思いました。授業の中に、サザエさんの話などが入っていると、より興味を持って聞くことができておもしろいです。1億2500万人いる日本で、間接民主制をとるのは当然だと思います。しかし、政治を見ていると、国民の意志があまり反映されておらず、政治家たちの意志、プライドなどで回っているように思えてなりません。(農学・Hさん)
・サザエさんを例にとりあげてくれたので、小さい子どもが政治的判断ができない理由がよくわかりました。具体例があると何でもわかりやすくなるし、覚えやすくなるので、私が教師になったらたくさんの例を話しながら、授業をしていきたいです。そのためには、今、勉強だけでなくいろいろ経験することが大切だと思いました。(教育・Oさん)
・投票権などに関して、物理的制約や能力的制約のことは、あまり考えたことがありませんでした。この時代に生まれた自分にとって、国民が一斉に同じ場所に集まること、幼い子どもに投票権を与えることが無理なことだとわかりきっていたからだと思います。
しかし、もしこの時代で、国民を一斉に集めようとしたら…、そして、幼い子どもに投票権を与えてみたら…と、想像してみると、とてもおもしろいと思いました。(教育・Tさん)
・サザエさんに、あのような事実があることにびっくりしました。『サザエさんに見る戦後史』を読んでみたいと思いました。また、サザエさんを用いて憲法について考えられることがすごいなと思いました。(教育・Iさん)
午前11時から、大学周辺の宝島で石焼きビビンバ定食714円を食べる(レシートでは、12時22分)。
午後2時40分から午後4時10分まで、「法学演習」の講義を行う。