10月30日の備忘録。
リ・リアクションペーパー 2013.10.30.
(文責 中野 雅紀)
(教育・Aさん)
「質問をくわしく解説してくれてありがとうございました!
とてもていねいに話してくれてよかったです。
成績はノートにしてくれるとうれしいです。」
(回答)
あなたのような意見もありますが、授業をどんどん進めろという、下記のような意見も少なからずありました。ここしばらくは、リアクションペーパーの皆さんの記述を参考にして進度を決めていきたいと思います。
このまま、丁寧に進めろという意見
「リアクションペーパーにここまでひとつひとつ丁寧に、リ・リアクションを行う先生は初めてだったので驚きと関心をもちました。前回の授業のポイントになる所を、自分以外の人の質問、疑問への解答、解説で復習することができるので、とても良いと思います。先生の熱い解説がすごく圧倒されました。写真やイラストがたくさんあって、イメージしやすく、わかりやすかった。次回も頑張りたい」(Kさん)
「リ・リアクションペーパーとして、自分の考えていなかったような見方をたくさん知ることができた。前回の内容の理解を深めるために、みんなで作る授業という感じがすごくよいと思う。三大原則のことについて考えたことがなかったので、考えてみたいと思う」(Kさん)
「リアクションペーパーの質問に対して、一つ一つ丁寧に説明して下さったので、色々なことの理解が深まりました。ありがとうございます。
先生にお願いがあるのですが、リアクションペーパーの生徒の感想や意見について先生が反論していたとき少し怖かったです…(笑)
先生の意見に少しぎもんに思い自分の主張をしただけなのに、あそこまで反論されると、この意見を書いた子がまちがいで、先生の考えに反する考えはいけないもののようにとらえてしまいます。マイクを使用しないで大声で話しているので、そう聞こえてしまいがちだからだと思うのですが、この質問を書いた生徒の名前もでていますし、もう少しやさしく主張していただけるとありがたいです。わたしが少しびんかんになっているのかもしれませんが、聞いていて少しドキドキしてしまいました…。先生の話しかたが聞きやすく、頭に入ってきやすいため、そのようにかんじてしまうのかもしれません…。大変申し訳ないです」(Kさん)
早く進めろという意見
(教育・Hくん)
「リアクションペーパーの回答を聞いて、かゆい所に少し手が届いたような気がしました。しかし、授業自体が進まなかったので進めてほしいと思いました。」
「リ・リアクションの時間が長すぎると感じた。丁寧にプリントに回答してくださっているので、ポイントのみ解説し、残りは各自で読むという形で大丈夫ではないかと思う。前回の授業である程度理解できていたので今日の授業は何をしたかったのかよく分からなかった。
他の授業でD201の教室が1月20日頃から使用できないと聞いたのだが、この授業はどうなるのか。集中で行うのか、他教室で行うのか早く知りたい」(Aさん)
集中を2月12日の第2時限目に共通教育棟で行う予定です。教室は、決まり次第、掲示板に貼り出しますので、注意しておいてください。
(教育・Aくん)
「そもそも、なぜ教育学部生には日本国憲法が必修なのでしょうか。延いてはなぜ教師となるのに日本国憲法を学ぶ必要があるのでしょうか」
(回答)
あなたの質問は、きわめて本質的な問いと言えるでしょう。本心では、わたしも日本国憲法が必須科目である必要はないと思っています。一般生活では、憲法よりも民法の方が役に立つから、法律科目では民法を学んだ方が実益があるでしょう。しかし、一方においては多くの初等・中等教育の教師は公務員であり、憲法99条によって「憲法遵守義務」を課せられています。したがって、このような問いを発するあなたのような学生は、強制が伴わなければ日本国憲法の勉強をしないかもしれません。それを防ぐために、日本国憲法を必須科目にしているのだろうと推測されます。
もし、この問いがわたしの講義を受けたくないのに、受けさせられているという不満であるならば、この講義を受けずに、他の先生の開講している「日本国憲法」を履修してください。
(教育・Iさん)
「今日の講義は、前回のリアクションペーパーに対する解説でしたが、その中には私もよく分かっていなかった事もあったので、理解が深まりました。
裁判で「判決」の方には口頭弁論があり、その方がドラマにしても面白いとありましたが、現在水曜日には「リーガルハイ」という弁護士ドラマが放送されています。確かに次々と互いの言い分を言い合う法廷シーンは楽しいのですが、1つ疑問があります。リーガルハイにしろ逆転裁判にしろ、裁判官は両陣の言葉を書き留めたりしている様子がありません。判決文は自宅で書いているという話でしたが(補足:宅調のことか?)、そこに至るまでの弁論は、裁判官は聞くだけで判断しているのでしょうか。それとも、資料などが事前に配られているのでしょうか?」
(回答)
さっそく、「リーガルハイ」を観てみました。感想は、とりあえず措いておきます。
ところで、あなたの質問の要点は「判決文は自宅で書いているという話でしたが(補足:宅調のことか?)、そこに至るまでの弁論は、裁判官は聞くだけで判断しているのでしょうか。それとも、資料などが事前に配られているのでしょうか?」だと思いますが、まず起訴状などは事前に裁判所に提出された書面で、主張内容を裁判官は読んでいます。つぎに、裁判官の前に裁判所事務官がいて、その人たちが弁論を速記で記録しています。したがって、裁判官はメモを取る必要はなく、その速記を打ち直した法廷記録を読めばいいわけです。
(教育・Aさん)
「本時の授業でのリアクションペーパー解説において、平等は比較する対象がなければ成立しないと言うのは、なるほどな、と思いました。「平等あじゃない!」と主張しているということは、別の所で何かについて他者と自分、または、他者と他者を比較しているということであるからです。
次回から日本国憲法の授業では、権利と関係し、侵害を主張するべきものは何なのか考えたいと思います」
(回答)
かりに憲法上の原則の主張が認められても、その権利者の請求権が認められなければ、個人的救済は受けられません。たとえば、人権侵害の状態を矯正するためには、その侵害をやめてくれという「妨害排除請求」が認められるのか、あるいは「元の状態に復元できないとするならば「損害賠償請求権」が認められなければ、人権を侵害された被害者はなんら個人的には救われないわけです。
(教育・Mくん)
「三大原則の序列はどういう風に並ぶかすごい気になります。少し私なりに考えてみたら、①基本的人権の尊重、②国民主権、③平和主義かなと思いました。次回の講義もたのしみにしています。
まどマギの映画版では いいかげんに さやかちゃんが むくわれてほしいです」
(回答)
あなたのように、三大原則の序列に興味をもってくれれば、前回の講義でわたしが解説しようとした意味が十分伝わったかなとホッとしています。
午前8時50分から午前10時20分まで、「日本国憲法/現代人権論」の講義を行う。
配布レジュメは以下のもの
『国法学講義ノート』第1講
2012年12月05日 15:37
【講義ノート】日本国憲法の三大原則―その序列を考えてみよう―(一)
茨城大学教育学部准教授中野雅紀
はじめに
一般に、日本国憲法の三大原則は「国民主権」、「基本的人権の尊重」および「平和主義」と言われています。しかし、人によっては「基本的人権の尊重」が最初に挙げられたり、または「平和主義」が最初に挙げられたりすることがあります(事実、わたしが教鞭をとっている学校で学生に聴いてみると、その順番はまちまちです)。このことは、この三つの原則の中に序列がないことを示しているのでしょうか?また、この三つの原則は近代立憲主義国家において普遍的な原則なのでしょうか?余談になりますが、ドイツにおいては「基本価値(Grundwert)」として「自由の原理(Grundsatz der Freiheit)」、「民主制原理(Grundsatz der Demokratie)」、「人権・基本的自由尊重の原理(Grundsatz der Achtung der Menschenrechte und Grundfreiheiten)」および「法治国家の原理(Grundsatz der Rechtsstaatlichkeit)」が挙げられ、必ずしも日本国憲法の三大原則と一致するわけではありません(実際、この原理・原則は時間があれば解説しますが、憲法改正の限界と関係し、非常に重要な問題です)。もし高校までの日本国憲法の勉強であるならば、この三つの原則の名前を挙げるだけでよかったのかもしれません。しかし、大学生になった君たちならばもう少し突っ込んで、この三原則の並べ方の順番を理論的に考えてみてもらいたいと思います。なにせ第0講で書いたように、法律学ほど論理的な学問はないのですから。そういうことを前提として、みなさんと今回のテーマを考えていきたいと思います。
第1章 「国民主権」および「基本的人権の尊重」と「平和主義」との関係―トマス・ホッブズの社会契約論―
まず、みなさんは高校で「社会契約論」を勉強したと思います。さて、みなさんは社会契約論者として誰の名前を挙げるでしょうか?ロック(John Locke 1632~1704)やルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712~78)、あるいはモンテスキュー(Michel Eyquem de Montaigne 1533~92)の名前を挙げる人が多いかと思います。しかし、ここではトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes 1588~1679)の名前を挙げてもらいたいのです。それは、ホッブズの生きた時代を説明することによって「国民主権」および「基本的人権の尊重」と「平和主義」との関係の変化を説明したいからです。
Jean-Jacques Rousseau 1712~78
Michel Eyquem de Montaigne 1533~92
まず、ホッブズの書いた著作をみなさんは知っていますか?時間が勿体無いので先に答えてしまいますが、彼の書いた有名な著作は『リヴァイアサンLeviathan』と『ビヒモスBehemoth―あるいはイングランドにおける長期議会―』です。みなさんも名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう。両方とも人間は生まれながらにして自由で平等であるということを出発点としていますが、その初源状態である「自然状態」である人間関係は悲惨なものです。このことを一言で言い表すならば、「万人が万人に対して狼bellum omnium contra omnes」であるということです。簡単に言い換えるならば、「弱肉強食」の世界です。このような状態では、いかなるものも安心して生活することができません。たとえば、『北斗の拳』
(https://www.haratetsuo.com/)の世界を想定してみてください。なるほど、最初はラオウのような力のあるものが社会を支配することになるでしょう。しかし、いつまでも力のあるものが安心して生きていくことができるでしょうか、あるいは枕を高くして眠ることができるでしょうか?おそらく、そのような世界ではだれも安心して眠ることができないでしょう。ルールのない世界においては、支配者といえどもいつ寝首を掻かれるか分からないからです。そこで、ホッブズは以下のように考えました。人間は本来的に暴力を行使する自由をもっているが、それを一旦、全部国家に委譲してしまう。そうすれば、誰も他人に対して暴力を振るうことがない。しかし、このような委譲契約を行っても中にはその約束を破って他人に対して暴力を振るう奴が出てく場合があります。そのときはじめて、国家は社会契約を結んだものから一括して委譲された「暴力」を組織化した軍隊、あるいは警察を使ってこの契約違反者に制裁(サンクション)を加えるのです1。
Thomas Hobbes 1588~1679
右横は彼の著書『リヴァイアサン』(1651発刊)
この扉絵に描かれている巨大な人型の怪物を良く見ると、鱗のように見える表皮は人が集まっていることがわかる。この怪物の下半身は謎のベールに包(つつ)まれている2。
このようなホッブズ的な考え方によれば、平和主義があってこそ国民主権主義や基本的人権の尊重が存在できるということになります。その意味からすると、私見である①国民主権主義、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番とは、ある意味で大きく違ってきます。しかし、このような順序の違いが生じてくるのはホッブズが生きた時代とわれわれが生きている時代的背景が全く異なっていることに留意する必要があります。
それでは、ホッブズが生きた16世紀から17世紀のイングランドの歴史を概観することにしましょう。この講義はイングランド史の時間ではないので、具体的な年代はあえて書きませんが、ホッブズが生まれたのはイングランドがスペインの無敵艦隊(アルマダ)によって国家の存亡の危機に陥っていた時代(1587)と重なります(これゆえに、ホッブズは「恐怖と共に生まれた」と言われています)。まさに、彼は外敵による国家の平和の破壊という恐怖をトラウマにして育ってきたのでした。この危機はジョン・ホーキンス(John Hawkyns 1532~95)及びドレイク(Francis Drake 1543/45~96)らの活躍によって退けることができましたが、かりにイングランドがスペインに征服されていたらどうなっていたでしょうか?おそらく、アングリカン・チャーチを信仰するイングランド人の国民主権や基本的人権の尊重などは考えられなかったでしょう。そして、成人したホッブズがこのような外国による国家の平和の破壊を念頭にして書かれたのが『リヴァイアサン』でした。島国のイングランドにおいて、典型的な平和の破壊は大陸からの国家侵略戦争ということになることはみなさんも簡単に理解できますね。さて、ホッブズの人生はまさに波乱に満ちた人生でした。それは、彼が当時の平均年齢に比べて非常に長生きしたこととも関係しますが、そのことはここでは措いておくことにします。イングランドがスペインの無敵艦隊を破り、大西洋の支配権を確立することになったのはエリザベス1世の時代でした。そして、このエリザベスの治世は約40年にわたる長いものでした(映画『エリザベス』(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=85197)を観てください)。
*一般に知られていないが、アルマダの海戦での司令官はジョン・ホーキンスであり、ドレイクはその部下の私掠船の船長に過ぎなかった。
さて、エリザベスは後継にスコットランド王を指名しました。しかし、ヘンリー8世(HenryⅧ1491~1547)がアングリカン・チャーチに国教を変更してから50年以上が経過しており、ほとんどの国民がアングリカン・チャーチに改宗し、特に熱烈なピューリタンになっていました。こんなとき、カトリック国のスコットランド王ジェイムズ・スチュワート(ジェイムズ1世(James Ⅰ1603~1625位)がイングランド国王になることはイングランドに宗教的軋轢を産むことになります(ジェイムス自身の信仰心の葛藤から、カール・シュミットはジェイムスこそが『ハムレット』のモデルであると喝破しています)3。やがて、ジェイムズの後を継いだチャールズ1世はフランス国王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアと結婚することで、カトリック信仰に傾倒し(もっとも、国内とアイルランドでの態度の使い分けをおこなうのですが)、また王権神授説を信奉することでして専制政治を断行して議会派と対立しました。そして最終的に、みなさんも高校の『世界史』で学んだようにピューリタン市民とイングランド国王は一戦を交えることになります。さて、このとき国王の側近であった人物の一人に老齢のホッブズがいました。この戦争のことはピューリタン革命(1642~49)と呼ばれていますが、その勝利者がどちらであるのかはみなさん御存知のことだと思います。すなわち、それはオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell 1599~1658)に率いられたピューリタンです。その結果、国王のチャールズ一世は首を刎ねられ、ホッブズは皇太子であったチャールズ(後のチャールズ2世Charles Ⅱ1599~1658)の後見を託されてフランスに亡命します(古い映画ですが、リチャード・ハリス(顔が分からない人はクリント・イーストウッド監督の『許されざる者』の中でジーン・ハックマンに「このイギリス人野郎!」と言われてボコボコにされたおじさんと考えてください)が主演した『オリバー・クロムウェル』(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=6752)の中でこのワンシーンが描かれています)。その亡命時代に書かれたのが『ビヒモス』です。さて、ピューリタン革命はイングランド人に内乱の恐怖を骨の髄まで刻み込むことになったわけです。そして実際、外国からの国家侵略戦争こそが最も忌むべきものであると考えてきたホッブズに国家侵略戦争よりも同じ国民同士が殺し合いをする内乱の方がなによりも排除されなければならないという思想の変更をもたらすことになりました。それはみなさんが子供の頃、ユーゴスラビア連邦が崩壊しそれまで同じ村で仲良く暮らしてきたセルビア人とクロアチア人が、あるいはギリシア正教の信者とムスリムが殺し合いをはじめたことを思い出してみれば分かると思います(ユーゴスラビア映画で、第二次世界大戦からこの内乱までの混乱を皮肉に描いたものとして『アンダー・グラウンド』(https://home.att.ne.jp/wind/madogiwa/01mov/title/01aa/undergro.htm)という作品があります)。それはそうでしょう、外国人に侵略され蹂躙されているのならその敵は明確ですが、昨日まで仲良く暮らしてきた同じ国民が信じている宗教の宗派が違うからといって殺し合いを続けるのですよ。わたしは日本人単一民族説をとりませんが、もし日本人同士が信じている宗教が違うからといって殺し合いをはじめたとしたらこれほど凄惨な事態はないと思います。おなじモンゴロイド人の顔をした国民が『鉄人28号』の歌詞ではあるまいし、互いに自分を「正義の味方」とし、それに同調しないものを「悪魔の使い」と罵り合い殺しあうことほど悲惨なことはありません4
(歌詞:三木鶏郎(https://www.tetsujin28.tv/top.html))。
ヘンリー8世
エリザベス1世
ジェームス一世
Oliver Cromwell 1599~1658
かくして、ホッブズの理論においては、なによりもまず侵略戦争も内戦もない平和主義こそが国民主権および基本的人権の尊重に優先することになりました。ところで、聖書をお読みになった人ならばご存知のことと思いますが、リヴァイアサンもビヒモスも旧約聖書に出てくる怪獣(フランツ・ノイマン『ビヒモス—ナチズムの構造と実際—』(みすず書房1963)1頁によれば、ユダヤの終末論においてビヒモスとリヴァイアサンは二つの怪獣で、ビヒモスは陸を、リヴァイアサンは海を支配し、前者は雄、後者は牝であるとされている)のことです。ちなみに、リヴァイアサンは海の怪獣であり、ビヒモスは陸の怪獣です(特に、リヴァイアサンは『ヨブ記』において神様が千年王国実現の際に千年の饗祭の食べ物として与えるとされた怪獣です)。このことから、ホッブズが「大陸からの国家侵略戦争、すなわち海からの戦争」の恐怖を『リヴァイアサン』で描き出し、「同じ国民が信じている宗教の宗派が違うからといって殺し合いを続ける内乱」を『ビヒモス』で描き出したのはまさに的(まと)をえたタイトルの付け方だと思います。付言するならば、デビット・フィンチャー監督の『セブン』(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=28593)、アニメの『鋼の錬金術師』(https://gangan.square-enix.co.jp/hagaren/) あるいはマンガの『ピルグリム・イェーガー』(https://www.kh.rim.or.jp/~tow/pilgrim-j/indexs.html)などで有名になった七つの大罪のうち、リヴァイアサンは「嫉妬」の罪を司り、ビヒモスは「大食」の罪を司るとされています。まさに、侵略戦争を『リヴァイアサン』で描き出し、内乱を『ビヒモス』で描き出したトマス・ホッブズは17世紀の思想的巨人と評価することができるのではないでしょうか?
教皇Leo Ⅹ1513~21在位、贖宥状の発行を認可した教皇
アウグスブルク贖宥状(早稲田大学図書館蔵)
贖宥状(indulgentia)はキリスト教の七つの大罪を赦免するものとされ、煉獄で苦しむ人々を天国へ導くものとして販売された5。
七つの大罪者:
サヴォナローラの「フラーテの予言」の遂行者。
「七つの大罪」を象徴する動物の名を名乗り、それぞれの教団を率いてローマ焼却を目指す。
「聖別」の力をもつ聖遺物である「十二使徒の聖杯」のいずれかを持つ。
彼ら七人は一度死んで生き返った者で、史実では、1521年時にはみな世を去っている。
動物: |
名前: |
罪の象意: |
孔雀
(プファウ) |
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ |
情欲
(ビガーデ) |
1463-1494。
人文学者・哲学者。
北イタリアの小都市ミランドラの領主の息子として生まれる。
フィレンツェのプラトン研究アカデミーに学び、23歳で20ヶ国語を習得、当時知られていたあらゆる哲学・宗教・秘教に通じていた。
『人間の尊厳について』にてルネサンスの新しい人間観を提示する。
神秘主義にも造詣が深く、鳥占、腸卜の研究を行い、またカバラを用いてアリストテレス哲学とプラトン主義を綜合しようとした。
「魔術とカバラはキリスト教を補足しあうものだ」という考えからユダヤのカバラをキリスト教化し、ヘルメス思想を組み合わせることで、
ルネサンス魔術体系の確立に貢献した。
ロレンツォにサヴォナローラを推薦したのも彼。
すべての哲学体系の統合を目指し、1486年にローマにおいて哲学・神学に関わる討論会を組織するべく運動した彼は、
その内容のうちいくつかが異端的なものであるとされ(当時の教皇はインノケンティウス8世)、弾劾される。
さまざまな原典から引用した900(実際は899だったらしいが)にも及ぶ論文の冒頭にあったのが、『人間の尊厳について』。
それもまずかったが(当時、人間に尊厳などなかった)、一番まずかったのは「魔術とカバラはキリスト教を補足しあうものだ」
という論だった。宗教会議で有罪が言い渡されるとピコは逃亡、フランスに亡命したが、そこで捕らえられてしまう。
しかしこのとき、ロレンツォ・イル・マニフィコやシャルル8世の援助で釈放され、フィレンツェに戻った。
のちに神秘的な学説に興味を持つ教皇アレクサンデル6世は彼を許した。
フィレンツェのみならず、各地の数多くの文化人に影響を与えた若き天才だった(のちの教皇レオ10世、ジョヴァンニ・デ・メディチも教えた)が、1494年、フィレンツェにて死亡。死因は不明。毒殺説が有力。
その姿はボッティチェッリ作の『マギの礼拝』の中にもロレンツォ・イル・マニフィコのそばに描かれている。
美青年として有名だったようだ。
『人間の尊厳について』は日本語訳が出ており、お金さえ出せば読めるぞ。
国文社・アウロラ叢書シリーズで、4500円+税だ。
さあ、キミもアルベルティ市警と一緒に「ふうむ・・・斬新な・・・」とつぶやこう!
作品では、生前と同じく若き美青年として登場。
人を食う「バルトロマイの聖杯」を操り、ウルビーノ公フランチェスコに「立証者」としての「聖別」を行う。
「情欲」を司る「孔雀」の名を名乗り、フランチェスコさまは彼にもうメロメロのようです。
ちなみに、イタリア語出版物の優れた日本語訳に与えられる賞を、「ピコ・デッラ・ミランドラ賞」という。
もひとつ、イタリアに関する日本人の優れた著作に与えられる賞は、「マルコ・ポーロ賞」。 |
獅子
(レオーネ) |
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傲慢
(ホッファート) |
狐
(ヴォルペ) |
|
強欲
(アンフォイシャイト) |
熊
(オルソ) |
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怠惰
(トラカイト) |
豚
(ポルコ) |
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暴食
(フレッセレイ) |
蠍
(スコルピオーネ) |
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嫉妬
(ナイド) |
一角獣
(アインホルン) |
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憤怒
(ツォーン)
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https://www.aurora.dti.ne.jp/~eggs/pilgri03.htm
駐
1 アメリカにおいて「ステイト・アクション」の理論が主張されたように、ドイツにおいても「個人による人権侵害」を「国家の基本権保護義務違反」と理解する学説が存在する。もっとも、この「国家の基本権保護義務」を人権の「客観的側面」として捉えるか、あるいは「防禦権」として捉えるのか、という問題はあるが、ここでは、フランスの社会保障制度へのドイツの議論の適用を考える前提として後者の学説を解説することにしたい。この前提として、「国家の権力(暴力)独占」という考え方が基底になっていることを理解しなければならない。すなわち、ある国民が他の国民の人権を侵害したとしよう。「無効力説」を採用するならばそれは人権侵害ではないが、「直接効力説」を採用するならばそれはれっきとした人権侵害ということになる。ところでホッブズ的に考えるならば、われわれは自らの「生命・自由・プロパティー」を守るために国家にすべての権力(暴力)を委譲しそれによって、それらを保障してもらうという国家設立契約を締結していることになろう。したがって、この契約を守らなかったり、あるいはただ乗りする者(フリーライダー)に対して国家は法的制裁を加えることができる。反対にこの契約を結んでいる以上、「被害者たる国民」は「加害者たる国民」に対して敵討ちをはじめとする「自力救済」の実行を禁止されることになる。ということは、「被害者たる国民」がその「受忍限度」を越えた人権侵害を受けたとき、「国家」が「加害者たる国民」になんらかの「制裁(サンクション)」を与えないということは「国家の基本権保護義務」違反となろう。簡単に定式化するならば、「国家による防禦権侵害」=「国家による被害者たる国民に対する自力救済の禁止」+「国家による加害者たる国民に対する制裁の欠如」である。このようにして、「被害者たる国民」と「加害者たる国民」の間には人権関係は発生しないが、反対に「国家」が「加害者たる国民」になんらかの制裁を加えないことによって「被害者たる国民」の「自力救済する権利」が侵害されたことになり、人権関係が発生する。このような議論は非常に回りくどい説明方法であると思われるかもしれないが、私人間の紛争の多くは立法の不作為をはじめとする国家の怠慢に起因するものが多いことに鑑みれば、本来的に「防禦権」である人権を「社会権」、あるいは「社会的給付請求権」に改変せずとも国家の法的責任を問えるというメリットがある(拙稿・「20世紀初頭のフランス憲法学における「社会権」思想研究序説―レオン・デュギーとモーリス・オーリウの学説を素材にして―(1)」(『茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)第55号(2006年)80-81頁)。なお、ここで議論されている「国家の基本権保護義務」については小山剛「基本権保護義務論」『憲法の争点』86-87頁を参照のこと。
2 田中純氏は『リヴァイアサン』の扉絵、人間の集合からなる巨人で表されたリヴァイアサンが伝統的な解釈、海の巨大怪物とは異なっていることをカール・シュミットの解釈からはじめて、扉絵では描かれていない海から現れたと思われる巨人の下半身が人魚であるかもしれないと提起する。そして、ポニョを媒介にしてこの怪物が「母胎回帰」のイメージと繋がること指摘する(田中純「『リヴァイアサン』から『崖の上のポニョ』へ―ある象徴の系譜―」『UP』第37巻第9号(2009年)、63-67頁)。
3 『ハムレット』は、エリザベス女王の治世末年から、新王ジェイムズ1世の治世初頭にかけて、16世紀から17世紀への、世紀の変わり目に上演された。ジェイムズは、ハムレットのモデルの一人と目されている。ハムレットの母、ガートルードは、夫たる王を殺害し、その後を襲った王の弟と日を経たずして再婚した。悲劇の終幕で、ハムレットは母の再婚した相手である叔父を殺害して、母后も、そして自身もほぼ同時に命を落とす。ところで、ジェイムスの母親、すなわちスコットランド女王メアリ・シュチュワートは、ジェイムスの父である夫、ヘンリー・ダーリン卿を殺害したボスウェル伯と、事件の数か月後に再婚している。カトリックであったメアリは、その後、亡命先のイングランドで謀反のかどでエリザベスによって処刑され、プロテスタントとして育てられたジェイムスは、エリザベスの後を継いで、イギリス国教会の首長たるイングランド国王、ジェイムス1世となった……。
唯一の「真の宗教」が分裂し、さまざまな宗派が自らの正当性を標榜する世界が現れて、はじめて「個人の良心」が意識される。父王の亡霊に復讐を促されながらも思い悩み、地獄から現れた悪霊ではないかとの疑念にさいなまれ、なかなか復讐を実行にうつそうとしないハムレットは、宗教が分裂し、価値観が多元化した世界で、新たに現れつつあった個人の良心を象徴している。そこでは、個人は真の宗教だけではなく、いかに生きるのかをも、自ら選ばなくてはならない。
どっちがりっぱな生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、それとも寄せ来る怒涛の苦難に敢然と立ちむかい、闘ってそれに終止符をうつことか。
後者が「生きること(to be)」であり、前者が「生きないこと(not to be)」である。この選択、それは、唯一の真理がおびただしい数の相対的真理に分裂した世界に住まう、あらゆる個人にとっての問題である(長谷部恭男『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)6-7頁)。
4 それでもやはり立憲主義は人の本生に反する。というより、そもそも、近代世界が人間の本生に反している。『遠山の金さん』や『水戸黄門』の描く「分かりやすい」世界に生きたいというのが、普通の人の切なる願いである。ドン・キホーテが信じたように、中世騎士物語さながらに、誰が「正義の味方」で誰が「悪の手先」か一目瞭然であってほしいと誰もが願っている。問題は、人々の価値観・世界観が、近代世界では、お互いに比較不可能なほどに異なっているということである(長谷部・前掲書15頁)。より詳しくは、長谷部『比較不可能な価値の迷路』(東京大学出版会、2000年)参照のこと。
5 ゴンドラの唄吉井勇作詞中山晋平作曲
いのち短し恋せや少女(おとめ)
朱(あか)き唇褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを
元詞はイタリアの古典詩人ポリッツィアーノの作ったもので、当時のフィレンツェの実質的支配者であったローレンツォ・メディティスが愛しことあるごとに歌っていたものとされる。ただし、大正ロマン期に流行った「ゴンドラの唄」の著作権問題は発生しなかった(茨城大学元教授森田義之『メディチ家』(講談社現代新書、1999年))。狂僧サヴォナローラによって一時期、フィレンツェを追われていたメディチ家は、フィレンツェへの凱旋においてこの詩を口づさんだとされる。この後、勢力を取り戻したメディチ家からレオ10世が選出されることになった。
ここからは、冲方丁・伊藤真美『ピルグリム・イェーガー』(少年画報社、2002年~第一部完結全6巻)の世界と重なるが、サンピエトロ寺院改築資金で背負ったフッカー家への借金返済のため贖宥状(indulgentia、神のみが人間の原罪を赦すのであって、教会が人間の罪を赦すのではないので「免罪符」という翻訳は誤り)の販売を行った。贖罪のためには、一人で七枚の贖宥状を買わなければならなかった(デヴィッド・フィンチャー監督の「セブン」(1995年)や荒川弘『鋼の錬金術師』(スクウェア・エニックス、2001年~2010年全27巻))。ぼろ儲けをして建てた大聖堂を父親の巡礼に付き添って来たマルティン・ルターは「現在のバビロン」と言って非難したのは有名であるが、やがて、語学の天才デジリウス・エラスムスと交友関係(後に論争関係に変化)を持った彼が1510年にヴィッテンベルグ大学の聖堂の扉に95条の議題を提示してローマを批判したことは世界史で学んでいるはずです(木部尚志『ルターの政治思想―その生成と構造―』(早稲田大学出版部、2000年))。ちなみに、エラスムスの代表作は大出晁訳『愚痴礼賛附マルティヌス・ドルビウス宛書簡』(慶應義塾大学出版会、2004年)であることも習ったはず。ところで、エラスムスがルターに多大な影響を与えた証拠として、エラスムスはギリシア版の『ヨハネの黙示録』を入手することができなかったため、その翻訳を断念した。そのために、エラスムスのテキストゥス・レセプトゥス(TextusReceptus)を聖書のドイツ語翻訳の手本にしていたルターは当初、新約27篇の中から『ヨハネの黙示録』を排除していた。また、ルターがギリシア語を不得意としていたことは、彼がキリスト教に改宗しないユダヤ人の去勢を説きはじめた根拠として『使徒行伝』の中でパウロが、もし異教徒が割礼しなければキリスト者となれないとすれば、それならばいっそ去勢してしまった方がましであると聖ヤコブ等に訴えかけた記述を曲解したことからも理解できる。付言するならば、エラスムスの生涯の友はトマス・モアである。彼の代表作は言うまでもなく『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』、すなわちトマス・モア/平井正穂(訳)『ユートピア』(岩波文庫、1957年)である。
宗教改革のその後の展開の図式は、以下のように要約することができるであろう。
カトリックとプロテスタントの分裂、それによる庶民の精神的拠り所の崩壊による発狂状態の現出(阿部勤也『阿部勤也著作集』全10巻(筑摩書房→イングランドへの波及と離婚問題(兄の愛人であったアン・ブーリンとの結婚問題による)ヘンリー8世のアングリカン・チャーチ設立(フレッド・ジンネマン監督「わが命つきるとも」(1966年)。ヘンリーとトマスの友情と訣別。ちなみに、彼が就いていた役職をレッド・ドラゴンと呼ぶのだが、意味を調べてみてください)→メアリ1世とエリザベス1世の対立、その後のエリザベスとメアリ・スチュワートとの対立、生みの母の信仰と育ての母の信仰の間で揺れるジェイムス・スチュワートが『ハムレット』のモデルとされることのわけ(カール・シュミット/初見基(訳)『ハムレットあるいはヘカベ』(みすずライブラリー、1998年))。
※もちろん、現在においては文献学上、エラスムスが底本としたテキストゥス・レセプトゥスはその書かれた時期が、そんなに古くないものであり、それにつれて彼のギリシア語新約聖書の評価も下がってきている。しかしながら、仏教においても「法華経」の成立時期、あるいは翻訳時期の差によって「旧訳」と「新訳」の対立があるからと言って、その経典を基にしてつくられた教義や宗派のすべてが否定できないと同じように、エラスムスの翻訳時期の時代的制約、あるいは、彼がいたからこそルターのドイツ語版聖書をはじめ、各国語版の聖書の翻訳が促進されたことは評価されなければならないだろう。
詳細を読む: https://verfassung-jp.webnode.jp/news/%e3%80%8e%e5%9b%bd%e6%b3%95%e5%ad%a6%e8%ac%9b%e7%be%a9%e3%83%8e%e3%83%bc%e3%83%88%e3%80%8f%e7%ac%ac1%e8%ac%9b/
具体的内容は、講義の最後に受け取ったリアクションペーパーの記載を以って代える。
・このような丁寧な授業に対して、「早く進めろ」という意見があることに驚きました。私は、先生の丁寧な説明を受けて、毎回話しに引き込まれます。私はそこに、先生の授業の魅力を感じております。ぜひ、このまま丁寧に進めていただきたいです。
ボッブズの人間を数学者的にみる見方と、委譲契約に驚きました。「人間を構成する分子は同じなのだから、男女も身分も平等」、聞いていてすんなりと入ってくる考えだと感じました。また、「自分の暴力の権利を国家に委譲する」という考えも、おもしろいと思いました(農学・Hさん)。
・「リヴァイアサン」については若干耳にしたことはあったが、詳しいことはあまり知らなかったので、今回、授業、配布資料から様々なことが学べて勉強になった。
授業内容では理解しにくいことも、このようにプリントにこと細かに記してくださると、後々何度も読み返すことができるのでありがたい(教育・Kさん)。
・この授業は私たちの知っているマンガや映画などをたとえにして解説してくれるので自然と頭に入ってきて分かりやすく感じます。今日の授業では『リヴァイアサン』と『ビヒモス』にふれましたが、私は旧約聖書などを読んだことがなく詳しく知らないことが多かったので、今日の授業を通して、もっとそういった書物にもふれてみたいと思いました(教育・Iさん)。
・話をきいていていて、高校でも世界史をとっていない人にとっては話がたいへん(基礎的な知識が不足しているため)であるだろうなぁと思いました。
今日はきいていて、すごく分かりやすかったです!
でも少し話すのが早いなあと思いました。
メモして理解していてる途中でどんどん次へ進んでいってしまったように感じます。
あと、「リヴァイアサン」きいていて、なつかしい!と思いました。
さらに加えると実は「白鯨」に出てくる二股の人魚(海賊を惑わすやつ)はスタバのマークのもとなんですよ!!実はあれは人魚なんです。
今日はきいていておもしろかったです(教育・Sさん)。
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このような、豆知識が集まるからリアクションペーパーは回収して読むのは面倒であるが、続けようと思ってしまう。
ただしわたしは、このネタは田中先生の本ですでに知っていた。
ここまでのリアクションペーパーの内容はこちらの意図を汲んでくれたものであったが、当然のことながらアンチは存在する。
・最初にリ・リアクションということで前回の復習をしてくださるのはとても良いことだと思います。しかし先生と違う考えをしている人の考えが真っ向から否定されているような気がしてしまいました。皆それぞれ考えが違うのは仕方がないことですが、それを否定(あるいは認めない)するのは、皆が先生に気に入られるようになリアクションをするようにしかならなくなるのではないでしょうか(教育・Yさん)。
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残念ながら、彼女は「否定」と「批判」の区別がついていないように思える。わたしは学生に対して批判をし、それに対する反論を期待しているのであり、学生の考えを否定しているわけではない。仮に、そう思うのであれば、授業中に「反論」すればよいのである。ここらあたりに、日本ではソクラテス・メソッドが成立しにくい原因がある。
批判と否定の違いについては、また時間のあるときに書き足すことにしよう。
ここから、授業の本内容についてのリアクションを見ていく
・憲法を歴史的観点から考えるのは、初めてだった。高校の社会では、ただ条文を覚えるだけだったので、三原則の順番を気にすることなどなかった(Hさん)。
・生きていた時代背景によって三大原則の順序が変化してくるというのが深いなーと感じた。今まで順序なんて気にしていなかったがおもしろいと思った。
私は世界史が好きなので今回の授業はおもしろくて興味深かった(教育・Sさん)。
・三大原則の中で、何が一番最初にくるのか、私も考えてみたくなりました。先生が、憲法を見ればどんな歴史があったのかが分かると言っていましたが、今日の授業はまるで世界史のようにも感じました。それは、憲法というものがその時代で求められているものを示そうとしているからだと思います。だからこそ、始めの先生の言葉につながるのでしょう。
日本という国は何を求めて憲法を作ったのか、知りたいと思いました(教育・Iさん)。
・私は、今日も楽しく授業をうけさせていただきました。先生の話は分かりやすく面白いので、毎回楽しいです。ボッブズの『リヴァイアサン』が書かれたことに、あのような背景があったことは知らなかったので驚きでした。1つ質問なのですが、日本で特に保障されているのは、31条~40条とおっしゃっていました。9条の平和主義とはどうなのでしょうか?日本は戦争もたくさん経験しているし、気になりました(教育・Aさん)。
・ユニオンジャックの由来を知って良かった。それぞれの国旗の由来を知りたくもなってきた。この授業は為になる話ばかりでとても面白い。先生の臨場感あふれる語りぐあいがとても伝わってきて、聞いている側も話しに集中できる(教育・Tくん)。
・今回の講義では、世界史的な内容が中心だったという印象を受けました。私は高校時代、世界史が苦手であまり真剣に勉強しませんでしたが、今回の講義は世界史の内容も知っておかないと完全には理解できないと感じたので、久しぶりに世界史を復習しようと思います。そして、1つ疑問があります。ビヒモスは雄で「嫉妬」を司るとされていと書いてありましたが、嫉妬をするのは女性=牝というイメージがあるのですが……。ただの偏見だと思いますが、少し疑問です(教育・Tさん)。
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悪魔は本来、天使であったので肉体を持たず性別はありません。したがって、悪魔の性別は後世のあと付けです。また、天使が悪魔に墜ちたのは、神の人間に対する愛に「嫉妬」したからです。それゆえに、原義的には七つの大罪の始原的罪は「嫉妬」であるとされています。このことを理解せずに、日本の翻訳者がダンテの『神曲』を翻訳したために、内容的に誤訳ばかりになっていると言われています。加えて、「七つの大罪」を司る悪魔はダンテの『神曲』とミルトンの『失楽園』では若干の相違があり、今回の説明はあくまでフランツ・ノイマンの『ビヒモス』の記述に基づいたものに過ぎません。当然のことながら、この講義は悪魔学の講義ではないので、これ以上は深入りしません。ただし、レジュメではリヴァイアサンを「大食」を司る悪魔とし、ビヒモスを「嫉妬」を司る悪魔としていますが、これは逆でリヴァイアサンが「嫉妬」を司る悪魔で、ビヒモスが「大食」を司る悪魔ですので、この部分は修正しておいてください。その意味では、あなたのカンは正しかったわけです。
・この授業をうけるまで、「リヴァイアサン」は昔のヨーロッパの偉人だと思っていました!
が、しかし、ホッブズが「大陸からの国家侵略戦争すなわち海からの戦争」の恐怖で描き出した作品のタイトルで“ワニみたいな生物”だということを初めて知りました。また、「七つの大罪」というマンガを読んでいて、それに、「嫉妬の罪」を司るとても大きな女の子がでてきていて、もとになっているのが、これだとわかり、とても興味がわきました(教育・Kさん)。
・自由であるが故に、殺し合いが生まれるのも納得しました。だから、「暴力」を組織化した軍隊や警察をつかって制裁をしないといけないのだなと思いました。
そういう基盤があってこその平和なのだなと思いました(教育・Aさん)。
最後に、中国からの留学生のリアクションペーパーが参考になる。
・いまの中国は、三大原則に対して、個人利益より国家利益、集体利益のほうが優先であることがいまでも教育されている。全体的にまだ安定していないから、国民優先的な人権の尊重はなかなかできないだろうか(教育・Cさん)。
昼食は、大学近くの宝島でビビンバ・ランチを食べて済ます。
午後2時30分から午後4時10分まで、法学演習の講義を行う。
講義の内容は、 『カール・シュミット入門講義』のp.185-191までの輪読。
K池さんは、岩波ホールまで「ハンナ・アーレント」を観にいったそうだ。