9月12日の備忘録。
わたしは専門ゼミは三年のときは憲法であったが、四年のときには刑法であった。したがって、わたしは刑法学においては草野豹一郎門下に末席に連ならせてもらっている。つまり、草野先生はわたしの刑法の師匠の師匠に当たる人物である。もっとも、わたしはその当時、藤木英雄先生の学説に傾倒していたのでゼミ試では現在国会職員であるK氏とともに共同意思主体説を批判する内容を書いて合格したのであるが。たまたま、共謀共同正犯のことを調べていたら、草野先生の略歴に接し、読んでみると今日が命日であった(1886年10月7日 - 1951年9月12日)。師匠が冗談で言っていたのは、刑法学者の道に進んだとき、草野豹一郎、泉二新熊および木村亀二先生に接し、自分の名前に動物の名前がついていないので改名しようかと悩んだということである。そのわたしの刑法の師匠も、わたしがドイツの研究会出張中に亡くなられてしまった。ご存命ならば、先生に刑法体系論および刑法各論、とくに犯罪類型論について教えを乞いたかった。
日本国憲法/現代人権論(専門/教養)夏期集中講義レジュメ 2013.07.17-07.20
担当 中野 雅紀
第一講 ガイダンス
今日から,四日連続で日本国憲法/現代人権論の講義を行ないます。シラバスで第15講までしか書いていないので,最終日の最後の講義では試験を実施しません。したがって,この講義においては毎日の出席,毎日のリアクション・ペーパーの提出および最終日に提出するこの講義で諸君がメモしたノートの提出をもって採点することにします。
そこで,まず注意しなくてはならないのは,とにかく毎日出席してください。四回講義を欠席すれば採点資格を失います(→「欠」確定)。平常の講義では,わたしは出欠を取りませんが,この忙しい夏休みの時期にわたし,そして真面目に講義に出ている学生を愚弄するような不真面目な受講態度は許すわけにはいけないので,出欠を取ります。次に,毎日の最後にリアクション・ペーパーを提出してください。これは毎日の講義の感想文といったように理解すればよいでしょう。ただし,感想は講義内容の感想なので休めば書けません。最後に,講義をきちんとノートに取ってください。しかし,ただわたしが板書したことだけをノートにするのではなく,後でわたしの説明の行間を読んで,それを補完する必要があります。また,提出したノートは返却しませんので,毎日,講義終了後にコピーを一部撮っておくとよいでしょう。昨年度は,この集中講義を冬季に行いましたが,諸君の先輩たちはコピーにカラーリングしたり,イラストを入れたり,顔文字を入れたりして読んでいて楽しめました。もっとも,ノートはこの講義終了後必要ないというのであれば,ノートを提出してくれても結構です。おそらくは,論述試験を課さないので「欠」以外に不可になることはないと思います。ただし,秀,優,良,可は相対評価で秀の上位5%以外は均等に配分するように採点します。最後に,この講義で不可になった学生は,社会科教育の学生以外は,後に日本国憲法を再履修する際にはわたしの日本国憲法は取らないでください。おそらく,人文学部が齋藤笑美子先生の後任を後期に採用すると思いますので,その新任の先生が開講する講義を履修すること。おそらくは,この集中講義形式は,わたしの講義の採点では出血大サービスなのに,それで諸君のうちに落ちこぼれが出た場合には,わたしはおこ,激おこです。
今回は,わたしには珍しく教科書・参考書を指定します。内容的には,このレジュメがメインとなりますが,その判例の補充として古野/畑尻編『新・スタンダード憲法(四版)』(尚学社,2013年)を参照します。したがって,すでに掲示板にて告知しましたが,まだこの本を購入していない受講者がいれば,休み時間に生協書籍部に買いに行ってください。もっとも,最高裁判所HPから最高裁及び下級審の判例をダウンロードすることができますが,それは教科書を買うよりも印刷代がかさむことになり,損をすると思います。
次に,わたしの講義は完璧なものではありません。したがって,言い間違えをすることも多々あるかと思います。また,敢えて争点を明らかにするために,本心とは違う意見を
言うこともあります。そこらあたりは,リアクション・ペーパーのネタにしてください。
次に,法律学は他の学問に比べて諸君が聴きたくないような話が出てきます。とにかく,講義の中でたくさんの人が死にます。諸君の先輩のなかには授業アンケートで「先生の講義では人が死んだとか,殺されたとかいう話がよく出てきたのですが,それはお亡くなりになったとかに言い換えた方がよいのではないでしょうか」とアドヴァイスしてくれた学生がいましたが,実際の裁判で検察官がそのようなやわな表現をするとは,まさか諸君は思わないでしょう。たとえば,「被告人Xは,被害者女性Yが一人暮らしのアパートで寝静まったことを確認したのち,強姦目的でその部屋に忍び込んだところ,Yがそれに気づき抵抗したのでクロロホルムで昏睡状態にし,その劣情を果たし,この強姦行為がばれないよう口封じでYの首を絞殺し死に至らしめた。さらに,証拠が残らぬようにこのアパートに放火した」というように検察官は起訴するでしょう。殺人や強姦(刑法),あるいは契約違反や欠陥商品の販売(民法)が悪いことは誰でも分かっていますが,なくなるべきことがなくなるということは現実問題としてありえません。それは,規範学における「存在 Sein」と「当為 Sollen」の違いを分かっていれば理解できるはずです。自然科学でない以上は,「当為」から「存在」が帰結されることはありません。反対に,自然科学は「水は高いところから低いところに流れる」という「当為」は,現実的に「おお牧場はみどり」のように「雪が解けて,川になって,山を下り~♪」という「存在」に直結します。このように,社会科学は「存在」と「当為」の峻別を行う学問です。そして,法律学の現実問題としての事件を解決するものですから,人間のきたない面を扱うことになります。したがって,人間にとって不愉快な事件を素材にして講義をするわけですから,他の講義に比べて諸君たちが聴きたくない話が出てくることは避けられなません。
それと,マスコミ報道を鵜呑みにしてはいけないということです。赤旗や聖教新聞が特定団体の機関誌であることから,それらの団体と関係ない人にとっては奇異なことが書かれるのは当然としても,よく知られているように産経新聞が右翼的,朝日新聞が左翼的であるということは周知の事実です。したがって,このような新聞社,不味いことにわが国ではこの新聞社がテレビをはじめマスコミを支配しているので,そこに政治的なヴァイアスがかかります。これを,「傾向企業」といいますが,それを視聴するわれわれはそれらの思想傾向を理解したうえで,事件を理解しなくてはなりません。追加するならば,東京スポーツや日刊現代などは,書かれている記事のニュース・ソースの半分以上が事実とは無関係な憶測で書かれているので,諸君がレポートを書くときにウィキペディアを引いてはいけないように,それをまともな報道と捉えてはいけません。もつとも,娯楽として読むのならば結構ですが。
したがって,つい最近下された最高裁判所の判決である平成24年(ク)第984号,第985号 遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件(平成25年9月4日 大法廷決定)を日本における家族制度および婚姻制度の解体,不倫の奨励と非難することも間違いですし,反対にこれをもって最高裁判所の違憲判断を活発化して封建的な国会に積極的な立法を行わさせようという意見も誤りです。
第二講 日本国憲法の三大原則―その序列を考えてみよう―(1)
茨城大学教育学部准教授 中野雅紀
はじめに
一般に、日本国憲法の三大原則は「国民主権」、「基本的人権の尊重」および「平和主義」と言われています。しかし、人によっては「基本的人権の尊重」が最初に挙げられたり、または「平和主義」が最初に挙げられたりすることがあります(事実、わたしが教鞭をとっている,あるいはとってきた学校で学生に聴いてみると、その順番はまちまちです)。このことは、この三つの原則の中に序列がないことを示しているのでしょうか?また、この三つの原則は近代立憲主義国家において普遍的な原則なのでしょうか?余談になりますが、ドイツにおいては「基本価値(Grundwert)」として「自由の原理(Grundsatz der Freiheit)」、「民主制原理(Grundsatz der Demokratie)」、「人権・基本的自由尊重の原理(Grundsatz der Achtung der Menschenrechte und Grundfreiheiten)」および「法治国家の原理(Grundsatz der Rechtsstaatlichkeit)」が挙げられ、必ずしも日本国憲法の三大原則と一致するわけではありません(実際、この原理・原則は時間があれば解説しますが、憲法改正の限界と関係し、非常に重要な問題です)。もし高校までの日本国憲法の勉強であるならば、この三つの原則の名前を挙げるだけでよかったのかもしれません。しかし、大学生になった君たちならばもう少し突っ込んで、この三原則の並べ方の順番を理論的に考えてみてもらいたいと思います。
Jean-Jacques Rousseau 1712~78
Michel Eyquem de Montaigne 1533~92
まず、ホッブズの書いた著作をみなさんは知っていますか?時間が勿体無いので先に答えてしまいますが、彼の書いた有名な著作は『リヴァイアサンLeviathan』と『ビヒモスBehemoth』です。みなさんも名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう。両方とも人間は生まれながらにして自由で平等であるということを出発点としていますが*、その初源状態である「自然状態」である人間関係は悲惨なものです。このことを一言で言い表すならば、「万人が万人に対して狼bellum omnium contra omnes」であるということです。簡単に言い換えるならば、「弱肉強食」の世界です。このような状態では、いかなるものも安心して生活することができません。たとえば、『北斗の拳』(https://www.haratetsuo.com/)の世界を想定してみてください。なるほど、最初はラオウのような力のあるものが社会を支配することになるでしょう。しかし、いつまでも力のあるものが安心して生きていくことができるでしょうか、あるいは枕を高くして眠ることができるでしょうか?おそらく、そのような世界ではだれも安心して眠ることができないでしょう。ルールのない世界においては、支配者といえどもいつ寝首を掻かれるか分からないからです。そこで、ホッブズは以下のように考えました。人間は本来的に暴力を行使する自由をもっているが、それを一旦、全部国家に委譲してしまう。そうすれば、誰も他人に対して暴力を振るうことがない。しかし、このような委譲契約を行っても中にはその約束を破って他人に対して暴力を振るう奴が出てく場合があります。そのときはじめて、国家は社会契約を結んだものから一括して委譲された「暴力」を組織化した軍隊、あるいは警察を使ってこの契約違反者に制裁(サンクション)を加えるのです1)。
*なぜ,ホッブズが初源状態の人間を自由で平等であると看做すのかは,彼が数学者であり,社会の構成単位である人間をそれを構成する素材として捉えていたからである。
Thomas Hobbes 1588~1679
彼の著書『リヴァイアサン』(1651発刊)
この扉絵に描かれている巨大な人型の怪物を良く見ると、鱗のように見える表皮は人が集まっていることがわかる。この怪物の下半身は謎のベールに包(つつ)まれている2)。
このようなホッブズ的な考え方によれば、平和主義があってこそ国民主権主義や基本的人権の尊重が存在できるということになります。その意味からすると、私見である①君主(国民)主権主義、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番とは、ある意味で大きく違ってきます。しかし、このような順序の違いが生じてくるのはホッブズが生きた時代とわれわれが生きている時代的背景が全く異なっていることに留意する必要があります。
それでは、ホッブズが生きた16世紀から17世紀のイングランドの歴史を概観することにしましょう。この講義はイングランド史の時間ではないので、具体的な年代はあえて書きませんが、ホッブズが生まれたのはイングランドがスペインの無敵艦隊(アルマダ)によって国家の存亡の危機に陥っていた時代(1587)と重なります(これゆえに、ホッブズは「恐怖と共に生まれた」と言われています)。まさに、彼は外敵による国家の平和の破壊という恐怖をトラウマにして育ってきたのでした。この危機はジョン・ホーキンス(John Hawkyns 1532~95)及びドレイク(Francis Drake 1543/45~96)らの活躍によって退けることができましたが、かりにイングランドがスペインに征服されていたらどうなっていたでしょうか?おそらく、アングリカン・チャーチを信仰するイングランド人の国民主権や基本的人権の尊重などは考えられなかったでしょう。そして、成人したホッブズがこのような外国による国家の平和の破壊を念頭にして書かれたのが『リヴァイアサン』でした。島国のイングランドにおいて、典型的な平和の破壊は大陸からの国家侵略戦争ということになることはみなさんも簡単に理解できますね。さて、ホッブズの人生はまさに波乱に満ちた人生でした。それは、彼が当時の平均年齢に比べて非常に長生きしたこととも関係しますが、そのことはここでは措いておくことにします。イングランドがスペインの無敵艦隊を破り、大西洋の支配権を確立することになったのはエリザベス1世の時代でした。そして、このエリザベスの治世は約40年にわたる長いものでした(映画『エリザベス』(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=85197)を観てください)。
*一般に知られていないが、アルマダの海戦での司令官はジョン・ホーキンスであり、ドレイクはその部下の私掠船の船長に過ぎなかった。
さて、エリザベスは後継にスコットランド王を指名しました。しかし、ヘンリー8世(HenryⅧ1491~1547)がアングリカン・チャーチに国教を変更してから50年以上が経過しており、ほとんどの国民がアングリカン・チャーチに改宗し、特に熱烈なピューリタンになっていました。こんなとき、カトリック国のスコットランド王ジェイムズ・スチュワート(ジェイムズ1世(James Ⅰ1603~1625位)がイングランド国王になることはイングランドに宗教的軋轢を産むことになります(ジェイムス自身の信仰心の葛藤から、カール・シュミットはジェイムスこそが『ハムレット』のモデルであると喝破しています)3)。やがて、ジェイムズの後を継いだチャールズ1世はフランス国王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアと結婚することで、カトリック信仰に傾倒し(もっとも、国内とアイルランドでの態度の使い分けをおこなうのですが)、また王権神授説を信奉することでして専制政治を断行して議会派と対立しました。そして最終的に、みなさんも高校の『世界史』で学んだようにピューリタン市民とイングランド国王は一戦を交えることになります。さて、このとき国王の側近であった人物の一人に老齢のホッブズがいました。この戦争のことはピューリタン革命(1642~49)と呼ばれていますが、その勝利者がどちらであるのかはみなさん御存知のことだと思います。すなわち、それはオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell 1599~1658)に率いられたピューリタンです。その結果、国王のチャールズ一世は首を刎ねられ、ホッブズは皇太子であったチャールズ(後のチャールズ2世Charles Ⅱ1599~1658)の後見を託されてフランスに亡命します(古い映画ですが、リチャード・ハリス(顔が分からない人はクリント・イーストウッド監督の『許されざる者』の中でジーン・ハックマンに「このイギリス人野郎!」と言われてボコボコにされたおじさんと考えてください)が主演した『オリバー・クロムウェル』(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=6752)の中でこのワンシーンが描かれています)。その亡命時代に書かれたのが『ビヒモス』です。さて、ピューリタン革命はイングランド人に内乱の恐怖を骨の髄まで刻み込むことになったわけです。そして実際、外国からの国家侵略戦争こそが最も忌むべきものであると考えてきたホッブズに国家侵略戦争よりも同じ国民同士が殺し合いをする内乱の方がなによりも排除されなければならないという思想の変更をもたらすことになりました。それはみなさんが子供の頃、ユーゴスラビア連邦が崩壊しそれまで同じ村で仲良く暮らしてきたセルビア人とクロアチア人が、あるいはギリシア正教の信者とムスリムが殺し合いをはじめたことを思い出してみれば分かると思います(ユーゴスラビア映画で、第二次世界大戦からこの内乱までの混乱を皮肉に描いたものとして『アンダー・グラウンド』(https://home.att.ne.jp/wind/madogiwa/01mov/title/01aa/undergro.htm)という作品があります)。それはそうでしょう、外国人に侵略され蹂躙されているのならその敵は明確ですが、昨日まで仲良く暮らしてきた同じ国民が信じている宗教の宗派が違うからといって殺し合いを続けるのですよ。わたしは日本人単一民族説をとりませんが、もし日本人同士が信じている宗教が違うからといって殺し合いをはじめたとしたらこれほど凄惨な事態はないと思います。おなじモンゴロイド人の顔をした国民が『鉄人28号』の歌詞ではあるまいし、互いに自分を「正義の味方」とし、それに同調しないものを「悪魔の使い」と罵り合い殺しあうことほど悲惨なことはありません4)
(歌詞:三木鶏郎(https://www.tetsujin28.tv/top.html))。
ヘンリー8世
エリザベス1世
ジェームス一世
Oliver Cromwell 1599~1658
かくして、ホッブズの理論においては、なによりもまず侵略戦争も内戦もない平和主義こそが国民主権および基本的人権の尊重に優先することになりました。ところで、聖書をお読みになった人ならばご存知のことと思いますが、リヴァイアサンもビヒモスも旧約聖書に出てくる怪獣(フランツ・ノイマン『ビヒモス—ナチズムの構造と実際—』(みすず書房1963)1頁によれば、ユダヤの終末論においてビヒモスとリヴァイアサンは二つの怪獣で、ビヒモスは陸を、リヴァイアサンは海を支配し、前者は雄、後者は牝であるとされている)のことです。ちなみに、リヴァイアサンは海の怪獣であり、ビヒモスは陸の怪獣です(特に、リヴァイアサンは『ヨブ記』において神様が千年王国実現の際に千年の饗祭の食べ物として与えるとされた怪獣です)。このことから、ホッブズが「大陸からの国家侵略戦争、すなわち海からの戦争」の恐怖を『リヴァイアサン』で描き出し、「同じ国民が信じている宗教の宗派が違うからといって殺し合いを続ける内乱」を『ビヒモス』で描き出したのはまさに的(まと)をえたタイトルの付け方だと思います。付言するならば、デビット・フィンチャー監督の『セブン』(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=28593)、アニメの『鋼の錬金術師』(https://gangan.square-enix.co.jp/hagaren/) あるいはマンガの『ピルグリム・イェーガー』(https://www.kh.rim.or.jp/~tow/pilgrim-j/indexs.html)などで有名になった七つの大罪のうち、リヴァイアサンは「大食」の罪を司り、ビヒモスは「嫉妬」の罪を司るとされています。まさに、他国を貧欲に鯨呑しようとする侵略戦争を『リヴァイアサン』で描き出し、自分のみが正しいという考えの深層に横たわる、フロイト流に言えば他者への「嫉妬」から生じる内乱を『ビヒモス』で描き出したトマス・ホッブズは17世紀の思想的巨人と評価することができるのではないでしょうか?
教皇Leo Ⅹ1513~21在位、贖宥状の発行を認可した教皇
アウグスブルク贖宥状(早稲田大学図書館蔵)
贖宥状(indulgentia)はキリスト教の七つの大罪を赦免するものとされ、煉獄で苦しむ人々を天国へ導くものとして販売された5)。
注
1)アメリカにおいて「ステイト・アクション」の理論が主張されたように、ドイツにおいても「個人による人権侵害」を「国家の基本権保護義務違反」と理解する学説が存在する。もっとも、この「国家の基本権保護義務」を人権の「客観的側面」として捉えるか、あるいは「防禦権」として捉えるのか、という問題はあるが、ここでは、フランスの社会保障制度へのドイツの議論の適用を考える前提として後者の学説を解説することにしたい。この前提として、「国家の権力(暴力)独占」という考え方が基底になっていることを理解しなければならない。すなわち、ある国民が他の国民の人権を侵害したとしよう。「無効力説」を採用するならばそれは人権侵害ではないが、「直接効力説」を採用するならばそれはれっきとした人権侵害ということになる。ところでホッブズ的に考えるならば、われわれは自らの「生命・自由・プロパティー」を守るために国家にすべての権力(暴力)を委譲しそれによって、それらを保障してもらうという国家設立契約を締結していることになろう。したがって、この契約を守らなかったり、あるいはただ乗りする者(フリーライダー)に対して国家は法的制裁を加えることができる。反対にこの契約を結んでいる以上、「被害者たる国民」は「加害者たる国民」に対して敵討ちをはじめとする「自力救済」の実行を禁止されることになる。ということは、「被害者たる国民」がその「受忍限度」を越えた人権侵害を受けたとき、「国家」が「加害者たる国民」になんらかの「制裁(サンクション)」を与えないということは「国家の基本権保護義務」違反となろう。簡単に定式化するならば、「国家による防禦権侵害」=「国家による被害者たる国民に対する自力救済の禁止」+「国家による加害者たる国民に対する制裁の欠如」である。このようにして、「被害者たる国民」と「加害者たる国民」の間には人権関係は発生しないが、反対に「国家」が「加害者たる国民」になんらかの制裁を加えないことによって「被害者たる国民」の「自力救済する権利」が侵害されたことになり、人権関係が発生する。このような議論は非常に回りくどい説明方法であると思われるかもしれないが、私人間の紛争の多くは立法の不作為をはじめとする国家の怠慢に起因するものが多いことに鑑みれば、本来的に「防禦権」である人権を「社会権」、あるいは「社会的給付請求権」に改変せずとも国家の法的責任を問えるというメリットがある(拙稿・「20世紀初頭のフランス憲法学における「社会権」思想研究序説―レオン・デュギーとモーリス・オーリウの学説を素材にして―(1)」(『茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)第55号(2006年)80-81頁)。なお、ここで議論されている「国家の基本権保護義務」については小山剛「基本権保護義務論」『憲法の争点』86-87頁を参照のこと。
1)田中純氏は『リヴァイアサン』の扉絵、人間の集合からなる巨人で表されたリヴァイアサンが伝統的な解釈、海の巨大怪物とは異なっていることをカール・シュミットの解釈からはじめて、扉絵では描かれていない海から現れたと思われる巨人の下半身が人魚であるかもしれないと提起する。そして、ポニョを媒介にしてこの怪物が「母胎回帰」のイメージと繋がること指摘する(田中純「『リヴァイアサン』から『崖の上のポニョ』へ―ある象徴の系譜―」『UP』第37巻第9号(2009年)、63-67頁)。
3)『ハムレット』は、エリザベス女王の治世末年から、新王ジェイムズ1世の治世初頭にかけて、16世紀から17世紀への、世紀の変わり目に上演された。ジェイムズは、ハムレットのモデルの一人と目されている。ハムレットの母、ガートルードは、夫たる王を殺害し、その後を襲った王の弟と日を経たずして再婚した。悲劇の終幕で、ハムレットは母の再婚した相手である叔父を殺害して、母后も、そして自身もほぼ同時に命を落とす。ところで、ジェイムスの母親、すなわちスコットランド女王メアリ・シュチュワートは、ジェイムスの父である夫、ヘンリー・ダーリン卿を殺害したボスウェル伯と、事件の数か月後に再婚している。カトリックであったメアリは、その後、亡命先のイングランドで謀反のかどでエリザベスによって処刑され、プロテスタントとして育てられたジェイムスは、エリザベスの後を継いで、イギリス国教会の首長たるイングランド国王、ジェイムス1世となった……。
唯一の「真の宗教」が分裂し、さまざまな宗派が自らの正当性を標榜する世界が現れて、はじめて「個人の良心」が意識される。父王の亡霊に復讐を促されながらも思い悩み、地獄から現れた悪霊ではないかとの疑念にさいなまれ、なかなか復讐を実行にうつそうとしないハムレットは、宗教が分裂し、価値観が多元化した世界で、新たに現れつつあった個人の良心を象徴している。そこでは、個人は真の宗教だけではなく、いかに生きるのかをも、自ら選ばなくてはならない。
どっちがりっぱな生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、それとも寄せ来る怒涛の苦難に敢然と立ちむかい、闘ってそれに終止符をうつことか。
後者が「生きること(to be)」であり、前者が「生きないこと(not to be)」である。この選択、それは、唯一の真理がおびただしい数の相対的真理に分裂した世界に住まう、あらゆる個人にとっての問題である(長谷部恭男『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)6-7頁)。
4) それでもやはり立憲主義は人の本生に反する。というより、そもそも、近代世界が人間の本生に反している。『遠山の金さん』や『水戸黄門』の描く「分かりやすい」世界に生きたいというのが、普通の人の切なる願いである。ドン・キホーテが信じたように、中世騎士物語さながらに、誰が「正義の味方」で誰が「悪の手先」か一目瞭然であってほしいと誰もが願っている。問題は、人々の価値観・世界観が、近代世界では、お互いに比較不可能なほどに異なっているということである(長谷部・前掲書15頁)。より詳しくは、長谷部『比較不可能な価値の迷路』(東京大学出版会、2000年)参照のこと。
5) ゴンドラの唄吉井勇作詞中山晋平作曲
いのち短し恋せや少女(おとめ)
朱(あか)き唇褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを
元詞はイタリアの古典詩人ポリッツィアーノの作ったもので、当時のフィレンツェの実質的支配者であったローレンツォ・メディティスが愛しことあるごとに歌っていたものとされる。ただし、大正ロマン期に流行った「ゴンドラの唄」の著作権問題は発生しなかった(茨城大学元教授森田義之『メディチ家』(講談社現代新書、1999年))。狂僧サヴォナローラによって一時期、フィレンツェを追われていたメディチ家は、フィレンツェへの凱旋においてこの詩を口づさんだとされる。この後、勢力を取り戻したメディチ家からレオ10世が選出されることになった。
ここからは、冲方丁・伊藤真美『ピルグリム・イェーガー』(少年画報社、2002年~第一部完結全6巻)の世界と重なるが、サンピエトロ寺院改築資金で背負ったフッカー家への借金返済のため贖宥状(indulgentia、神のみが人間の原罪を赦すのであって、教会が人間の罪を赦すのではないので「免罪符」という翻訳は誤り)の販売を行った。贖罪のためには、一人で七枚の贖宥状を買わなければならなかった(デヴィッド・フィンチャー監督の「セブン」(1995年)や荒川弘『鋼の錬金術師』(スクウェア・エニックス、2001年~2010年全27巻))。
ぼろ儲けをして建てた大聖堂を父親の巡礼に付き添って来たマルティン・ルターは「現在のバビロン」と言って非難したのは有名であるが、やがて、語学の天才デジリウス・エラスムスと交友関係(後に論争関係に変化)を持った彼が1510年にヴィッテンベルグ大学の聖堂の扉に95条の議題を提示してローマを批判したことは世界史で学んでいるはずです(木部尚志『ルターの政治思想―その生成と構造―』(早稲田大学出版部、2000年))。ちなみに、エラスムスの代表作は大出晁訳『愚痴礼賛附マルティヌス・ドルビウス宛書簡』(慶應義塾大学出版会、2004年)であることも習ったはず。ところで、エラスムスがルターに多大な影響を与えた証拠として、エラスムスはギリシア版の『ヨハネの黙示録』を入手することができなかったため、その翻訳を断念した。そのために、エラスムスのテキストゥス・レセプトゥス(TextusReceptus)を聖書のドイツ語翻訳の手本にしていたルターは当初、新約27篇の中から『ヨハネの黙示録』を排除していた。また、ルターがギリシア語を不得意としていたことは、彼がキリスト教に改宗しないユダヤ人の去勢を説きはじめた根拠として『使徒行伝』の中でパウロが、もし異教徒が割礼しなければキリスト者となれないとすれば、それならばいっそ去勢してしまった方がましであると聖ヤコブ等に訴えかけた記述を曲解したことからも理解できる。付言するならば、エラスムスの生涯の友はトマス・モアである。彼の代表作は言うまでもなく『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』、すなわちトマス・モア/平井正穂(訳)『ユートピア』(岩波文庫、1957年)である。
宗教改革のその後の展開の図式は、以下のように要約することができるであろう。
カトリックとプロテスタントの分裂、それによる庶民の精神的拠り所の崩壊による発狂状態の現出(阿部勤也『阿部勤也著作集』全10巻(筑摩書房→イングランドへの波及と離婚問題(兄の愛人であったアン・ブーリンとの結婚問題による)ヘンリー8世のアングリカン・チャーチ設立(フレッド・ジンネマン監督「わが命つきるとも」(1966年)。ヘンリーとトマスの友情と訣別。ちなみに、彼が就いていた役職をレッド・ドラゴンと呼ぶのだが、意味を調べてみてください)→メアリ1世とエリザベス1世の対立、その後のエリザベスとメアリ・スチュワートとの対立、生みの母の信仰と育ての母の信仰の間で揺れるジェイムス・スチュワートが『ハムレット』のモデルとされることのわけ(カール・シュミット/初見基(訳)『ハムレットあるいはヘカベ』(みすずライブラリー、1998年))。
※もちろん、現在においては文献学上、エラスムスが底本としたテキストゥス・レセプトゥスはその書かれた時期が、そんなに古くないものであり、それにつれて彼のギリシア語新約聖書の評価も下がってきている。しかしながら、仏教においても「法華経」の成立時期、あるいは翻訳時期の差によって「旧訳」と「新訳」の対立があるからと言って、その経典を基にしてつくられた教義や宗派のすべてが否定できないと同じように、エラスムスの翻訳時期の時代的制約、あるいは、彼がいたからこそルターのドイツ語版聖書をはじめ、各国語版の聖書の翻訳が促進されたことは評価されなければならないだろう。
第三講 日本国憲法の三大原則―その序列を考えてみよう―(2・完)
茨城大学教育学部准教授 中野雅紀
第1章のつづき
ホッブズ著『ビヒモス』扉絵初版より
カバのような怪獣がビヒモス、ワニのような怪獣がリヴァイアサン。
John Locke1632~1704
それに比べれば、ジョン・ロックやルソーの社会契約論は楽観的です。このような違いが生じたのは、彼らが生きた時代がホッブズに比べると幸福な時代であったからかもしれませんし、また未来に対する希望が持てた時代であったからかもしれません。なにせ、ホッブズより50歳ほど若いロックの時代にはイギリスはアメリカに殖民都市を作り、無限のフロンティアを開拓して自らの努力で生活を改善・向上するという夢が持てたのです1。ある意味では、すでに「アメリカン・ドリーム」の原型が出来ていたのかもしれません。ロックの主著『政体二論』は鵜飼信成先生が『市民政府論』(岩波文庫)という名前で翻訳をしていますので、大学生ならば一回は目を通しておいてもらいたいものです。
あまりにも、話がわき道に逸れてしまったのであとは簡単にルソーの評価をしておきます。私見によれば、ルソーは能天気なほどの理想論者でした。「一般意思」なる抽象的な概念を生み出すことによって、「公的なるもの」と「私的なるもの」の垣根を取っ払おうとしましたが、それがやがて共産主義などの全体主義思想の源になったことは消極的にしか評価できません。その意味では、わたしはホッブズほどルソーを高く評価していません。
さて以上の説明からも理解できるとおもいますが、17世紀的、あるいはホッブズ的悲観主義的人間観からに日本国憲法の三大原則を並べるとしたら、①平和主義、②君主主権(ホッブズはスチュワートの側近)および③基本的人権の尊重という順番になるでしょう。なぜならば,ホッブズが生きていた前後のイングランドは百年戦争、バラ戦争、宗教改革、無敵艦隊の来襲、ピューリタン革命といったように平和な時代がなかった世紀でした。平和というインフラが整備もされていないのに、国民主権や基本的人権の尊重を説いてもそれは理想論に終わってしまいます。しかし、現在の日本をホッブズの生きたイングランドの歴史とシンクロさせていいのでしょうか?これについて、わたしは違うと応えたいと思います。次章では、その理由を啓蒙期の哲学者エマニュエル・カント(Immanuel Kant 1724~1804)の「目的と手段」の関係から説明したいと考えています。
第2章「国民主権」および「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段である―エマニュエル・カントの定言命法―
Immanuel Kant 1724~1804
定言命法「信条(格率)が普遍的法則となることを、当の信条を通じて自分が同時に意欲できるような信条に従ってのみ、行為しなさい。」(A421)
定言命法の第一方式「自分の行為の信条が自分の意志によって普遍的自然法則になるべきであるかのように、行為しなさい。」(A421)
定言命法の第二方式「自分の人格のうちにも他の誰もの人格の内にもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要と しないように、行為しなさい。」(A429)
定言命法の第三方式「おのおの理性的存在者の意志は普遍的に法則を立法する意志である。」(A431)
まず、わたしが①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番に並べるべきだという見解を採用するのは、啓蒙期の偉大な哲学者エマニュエル・カントが彼の『人倫の形而上学原論』で示しめした定式(定言命法の第二方式)を採用すべきだと考えているからです。そこにおいては、あるものごとを考えるに際して、つねに「目的」と「手段」の関係を配慮することが強調されています。では、カントはどのようなことを言っているのかを見てみることにしましょう。
定言命法の第二方式
「自分の人格のうちにも他の誰もの人格の内にもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい。」(A429)
うむむ、これは難解だとみなさんは思うかもしれません。しかし、このことは以下のように簡単にしてしまうことはできます。「人間はそれ自体がつねに目的として取り扱われるのであって、決して手段として取扱われてはならない」ということです。具体例を出して説明してみると分かりやすいでしょう。たとえばみなさんが第二次世界大戦の末期に生きており、招集令状を受け取り航空部隊に配属され、飛行訓練を続けていたとしましょう。そんなとき、上官から呼ばれて「明朝、戦闘機に乗って敵航空母艦に神風攻撃をしてくれ。おまえの死は無駄ではない、それによって戦局が逆転しわが国は絶対に勝つ」と言われたらどうしますか?みなさんはこの命令を聞けば、そんなばかな命令は聞けるかと言うに違いありません。なぜならば、功利主義的な計算を除いたとしても、自分が国家存続のための道具(手段)として死ぬことは御免であるという感情を持ち合わせているからです。つまり、国家なるものは自分たちが自分たちの生命・自由・プロパティー(所有権)を守るという目的のための権力装置(手段)として設立されたはずなのに、なぜ主客が転倒して手段のために目的たる自分の生命・自由・プロパティーを犠牲にしなければならないかという疑問を抱くことができるからです。さてここまでくれば、カントの「人間はそれ自体がつねに目的として取り扱われるのであって、決して手段として取扱われてはならない」という言葉が、われわれにとっては既に自明の理として身体にインプットされていることが分かりますよね。(だから、わたし以外の憲法学者は教科書や講義であえて三大原則の順番を説明しないのかもしれません。) とするならば、闇雲に「平和!平和!」と声高に叫んでいる人たち(例えば土井たか子)はなにか胡散臭いような感じがしますよね。平和の中には、恐怖により支配された所謂(いわゆる)「奴隷の平和」もあることを忘れてはいけません。たとえば、ホッブズの部分で書いた『北斗の拳』のラオウによる恐怖の支配というものも、核戦争後の混乱状態を暴力によって押さえ込もうとしていることからすると一種の「平和」と言えるのかもしれません。でもみなさん、そんな恐怖の支配のもとで生きていたとしても決して幸福を感じられないでしょう?これは,奴隷の平和でしかありません。今風に言えば,『進撃の巨人』の「紅蓮の弓矢』の歌詞の方がピッタリすると思います。
であるとすれば、「平和主義」を主張する際にはかならずその目的を明確にしておくことが、あるいはさせる必要があることが理解できると思います。以上のことから、わたしは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段であると考え、日本国憲法の三大原則は①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義の順番がもっとも理論的に優れていると思っています。もちろん、この順序に疑問を覚える人もいるかと思います。かりに「日本国憲法の三大原則に序列を付けよ」という問題が出題された場合には、その人はわたしの説明にきちんとした理由を付けて反論をしてくださって結構です(ただし、どこかの党の元党首が言っていたような「ダメなものはダメ」式の記述をしてはいけませんよ。「『ダメなものはダメ』はダメなのです」)。教員のなかには、自説を攻撃されると不当に試験の点数を低くする度量の小さな人もいますが、わたしはかえってそのようなハネッ返りものの屁理屈を読むのが好きなので、どんどん反論をしてみてください。研究者というものは反論されてなんぼのものですから。反対に言うならば、自分の学説を発表してもなんのリアクションもないようだと、それはある意味でその人物の学者人生も終わりに近づいたということです。ただし、みなさんのなかには学説の批判と個人攻撃の区別がついていない人がかならずなん人かいます。わたしは法律の専門家ですから、当然のことながら個人攻撃は絶対に許しません。みなさんも大学生になったのだから、もう少し「おとな」になりましょう。ところで、わたしは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」は目的であり、「平和主義」はその目的を実現するための手段であるとして、「平和主義」よりは「国民主権」及び「基本的人権の尊重」が優先することは示しましたが、実は「国民主権」と「基本的人権の尊重」のどちらが優先するのかについてはこの講義のなかではまったく触れていません。私見としては、どちらが優先するのかということについて一応の考えを持っているのですが、まだ最終的な結論を出しているわけではないのです。死ぬか、ボケるまでには結論を出せればいいかなと思っています(とはいっても、このごろ若年性アルツハイマー病の発症率が高くなっているようだし、わたし自身物覚えが悪くなってきているので内心「これはヤバイ」と思っているのですが)。専門の学者だからその分野のことをすべて理解しているというのは大きな幻想です。みなさんは若くて、時間的余裕があるのですから、寝る前に「国民主権」と「基本的人権の尊重」のどちらが優先するのかな?とか、都合三つの原則の組み合わせは3×2ですので、日本国憲法の先生が言っていた順番より優れた順番はないかな?といったことを考えてみてください。
まとめと補足
詳述したように、一般に日本国憲法の三大原則は「国民主権」、「基本的人権の尊重」および「平和主義」とただ名前を挙げればそれでよしという訳ではないことを理解してもらえたと思います。さらにまた、その順列によってその国家の時代背景や目指される国家目標までも明確にされることから、キチンとした体系に基づいた論理構成が必要であるということも併せて理解してもらえたのではないでしょうか?高校までの勉強だと、社会は暗記科目だとばかにしていた人も、パウロの如く大学の学問は暗記科目ではないと「目から鱗」が取れてくれたならば幸いです。ところで、今回は相当に力を入れてこのレジュメを作成しました。そこでみなさんに理解してもらいたいことは、このレジュメでは、わたしが第1講で答案の書き方で示したように「起承転結」に則って書かれているということです。わたしの講義が高校の先生の講義と違う点を挙げるとするならば、少なくともわたしは講義においても「起承転結」のしっかりした講義構造を採っているということに由来するかもしれません。前回の講義の後、ある学生さんから「先生、憲法を理解するために世界史を勉強しなおします」という言葉をもらったのは正直言って嬉しかった。できれば、世界史だけではなく哲学、倫理学、社会学、政治学、論理学も勉強しなおしてくれれば教師冥利に尽きます。今回の講義の内容としてのレジュメは以上です。
一般に、カントと言えば三大批判書が有名ですが、哲学者にでもならないかぎり『人倫の形而上学』を熟読すればカントの思想はマスターできると考えてもらってよいです。参考までに、『カント全集7実践理性批判人倫の形而上学の基礎づけ/ カント〔著〕』(https://www.bk1.jp/0000/00003948.html) が最近出たもので、翻訳もこなれていて読みやすいです。ちなみに、わたしは高校一年生のときに岩波文庫の篠田先生の翻訳を読んだのですがチンプンカンプンで、大学三年生の時に原書と突き合わせて読んで少しだけ分かったような気がしました。ちなみに、哲学では「意志」という言葉が使われますが、法律学では「意思」という言葉が使われますので注意してください。また、ホッブズについては福岡安都子『国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗―』(東京大学出版会、2008年)という大作が刊行されています。
第四講 日本国憲法の三大原則―国民主権と平和主義―
茨城大学教育学部准教授 中野 雅紀
はじめに
第2講で、日本国憲法の三大原則の序列について説明しました。そこで、わたしはカントの理論を援用して「目的と手段」の関係から①国民主権主義、②基本的人権の尊重主義そして③平和主義の順番に並べるのが妥当ではないかと説明しました(みなさんに考える機会を与えるため、敢えて①と②の順番についての説明は理由しました)。それでは、日本国憲法の三大原理の一番目に挙げた「国民主権」とはいかなるものであるのでしょうか?本講においては、この「国民主権」の説明をメインにして権力分立制と基本的人権が密接不可分の関係にあることを説明していきたいと思います。
一. 「国民主権」とは?
まず、最初に主権の定義をしておきましょう。一般に主権とは「国家の意思や政治のあり方を最終的に決定する権利で、領土・国民とともに国家の三要素をなす。……最初に主権論を体系的に主張したのは、フランス人のボーダン(Jean Bodin 1530∼96)で、彼は国王の権力が最高の権力であり、不可分・不可譲であるとの君主主権を展開、君主国家の理論的裏づけを行うという役割を果たしたのである」と言われています
(https://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennppoukokuminnsyukenn.htm)。
ジャン・ボーダン(1530~1596年)
しかし、ここでは最初に思考経済を考えて主権の定義を覚えてください。つまり、主権論とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力の所在がだれに帰属するのか」という理論のことです。したがって、この定義に従えば「国民主権」とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは国民」ということになります。また、上記で引用したボーダンの説く君主主権とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは君主」ということになります。くどいようですが、このように定義していくとアリストクラシー(貴族政治)とは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは貴族」ということになります。このように、主権の定義を覚えていればあとは「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは○○」であるという定義の○○に国民、君主および貴族といった言葉を代入するだけということになります。ところで、これに加えて二つ以上の主権の担い手を採用する「混成政体」も存在しますが、わが国は憲法の前文及び第1条によって国民主権を採用しているので国民主権だけを覚えておけばいいことになります。まさに、「国民こそが政治の主役」であると言われる所以(ゆえん)です。
このように言うと、わが国は天皇制を採用しているのではないかという反論が出てくるかもしれません。しかし、憲法第1条をよく読んでみてください。
第1条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
この条文の重要な部分はいうまでもなく前段ではなく、後段の部分です。つまり、戦前の日本の主権者であった天皇も「現在の主権者たる日本国民の総意」に基づいて根拠を有している「象徴」に過ぎないということです。わたしは装置としての天皇制支持論者ですが、もし将来憲法が改正され天皇及び皇室制度が「主権者たる国民の総意」を失い、憲法典および皇室典範から排除されるようなことになったとするならば、その場合には残念なことですが天皇制は廃止され、完全な国民主権制に移行することになるでしょう。反対に言うならば、ナポレオンの皇帝就任やヒトラーへの全権受任に見られるような、国民主権に基づいて国民自身が国民主権を放棄して、君主主権に変更するという自殺行為は、憲法改正権の限界と抵触し理論的に不可能です[1]。
二.間接民主制と直接民主制
ところで、国民主権は「デモクラシー」の名前で呼ぶ方が正確でしょう。しかし、みなさんもご存知のようにデモクラシーには「直接デモクラシー(民主制)」と「間接デモクラシー(民主制)」が存在し、わが国は原則として「間接デモクラシー」を原則とし、それを補完するかたちで「直接デモクラシー」を採用しています。具体的には、以下のように分類することができるでしょう。
(1)間接民主制(議会制民主主義=間接的参政権)には、
①国会議員(衆・参両議院の議員)の選挙
②地方自治体の首長(都道府県知事と市町村〔特別区〕長)の選挙と、地方議会(都 道府県議会と市町村〔特別区〕議会)の議員の選挙の2種類があります。
(2)直接民主制(直接的参政権)には、
①地方議会(都道府県議会と市町村議会)の解散や議員の解職要求の直接投票
②地方の特別法制定に関する住民投票
③最高裁判所の裁判官に対する罷免(ひめん)の国民審査
④憲法改正の国民投票
⑤住民投票条例制定による住民投票(住民投票一覧)の5種類があります。
参照(https://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennppoukokuminnsyukenn.htm)。
しかし、国民主権が前述のように「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは国民」であるとするならば、「直接デモクラシー」が原則で「間接デモクラシー」こそが、それを補完するものではないかという疑問が生じるかもしれません。この問題についてはフランス革命期(1789年〜)以来、「ナシオン(国民)主権」説と「プープル(人民)主権」説の間で激しい論争が行われてきたところですが、一般教養の「日本国憲法」の講義でそこまで説明することは憚(はばか)られますので、以下の二点から日本国憲法は原則的には「間接デモクラシー」を採用するしかなかったということを説明したいと思います。
*ただし、わが国は「プープル主権」ではなく、「ナシオン主権」を採用したと考えるべきだと思います。というのは、以下の理由からです。一般にプープル主権の主張は「主権者は、社会契約参加者=成年者の総体(人民)であり、人民は国家の意思決定に参加する固有の権利を持つばかりでなく、国家意思の決定には全人民の参加が不可欠」とするのですが、後述のように「物理的制約の側面」と「政治的判断能力の側面」から全人民の政治参加は現実的には不可能です。そのために、ルソーなどは仮想の「一般意思」を想定してそれを全国民の意思とするわけですが、この存在が確かではなく、また確定も困難な「一般意思」を濫用して為政者が独裁を行ったことは枚挙する暇がありません(例えば、ジャコバン独裁による恐怖政治を思い出してください。ジャコバン独裁政治体制下のロベスピエールとダントンの思想的対立を鋭く描き出した映画として、アンジェ・ワイダ監督の『ダントン』がお勧めです)
(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=14359#COMMENT)
第一に、直接民主制の起源となった古代ギリシャの都市国家、特にアテネと比べてわが国の国民の人口が比較にならないほど多いということが挙げられます。つまり、アテネというような都市国家(ポリス)において人口はたかだか数万人単位であり、また女、子供そして奴隷には投票権が与えられていないので「アゴラ αγορά」というトポスで有権者が一堂に会して国家の政治の在り方を最終的に決定することができるのです。すなわち、市民=政治に直接参加する国民と単純に割り切ることができるのです。しかし、日本は1億2500万人以上の人間がいます。そして、後で述べるように「定住外国人」の問題はありますが、まさか奴隷制度を採用するわけにもいきませんし、女性と子供は国民ではないと言うこともできません(憲法14条・24条)。では、これらの国民を古代ギリシャの都市国家のように一同に会せるような施設があるのでしようか。東京ドームでも5万5千人の集客能力しかないのです、このように考えるならばまず物理的に不可能なことが理解できると思います。このように言うと、現代っ子のみなさんはインターネット投票やテレゴング投票で決めればいいと言うかもしれませんが、本当にそれで大丈夫でしょうか?集計の途中に恣意的な操作がなされたり、自分が少数派に転落することを恐れてテレビ画面に写る統計の多数派に雪崩をうったように駆け込み投票する人が後を断たないのではないでしょうか?たとえば、戦前ナチス・ドイツの快進撃を見て、政治家や軍部のみならず国民までもが「バスに乗り遅れるな!」とばかり第二次世界大戦に突入していった歴史を思い出す必要があるでしょう。
第二に、1億2千万人のなかには政治的判断を行うだけの能力を持っていない国民がいます。例えば、「サザエさん」のタラちゃんとイクラちゃんを考えてみてください
(https://www.fujitv.co.jp/b_hp/sazaesan/)。
古代ギリシャの都市国家ではないので、わが国ではタラちゃんもイクラちゃんも日本国民であることは否定されません。しかしながら考えてみてください、タラちゃんに「日本国憲法改正の投票権」を与えてもその意味が分かるしょうか?もし、安倍信三内閣総理大臣がタラちゃんにお菓子を与えて、「タラちゃん、このペロペロ・キャンディーをあげるから今度の憲法改正の投票用紙に○を付けてよ」というと、タラちゃんは「いいでシュ」と言っていいなりになるのではないでしょうか?あるいは、シスプリの亞里亜なら安倍氏が「兄やがいっているから、○をつけてね」と言えば考えもなしに、「亞里亜も、兄やと一緒に○を付ける……」と言ってなんの疑いも持たずに憲法改正の投票用紙に○を付けてしまいそうですね(https://www.tenhiro.net/)。すなわち、主権の行使にはそれなりの判断能力が必要とされるのです。さらにタラちゃんよりも幼児のイクラちゃんならどうなるのでしょうか?みなさんもご存知のように、イクラちゃんは「はーい」、「ぱぷー」そして「ちゃーん」の三語しかしゃべれません。このような幼児のために、公職選挙法を改正して字の書けない幼児には聞き取りで投票を認めるとしたらどうなるでしょうか?イクラちゃんに「日本国憲法改正の投票権」を与えて、「はーい」と言った場合には「イエス」と答えたと解釈することが出来ますが、「ぱぷー」あるいは「ちゃーん」と答えた場合、それはどのように解釈することが出来るのでしょうか?おそらく、それは「死票」とカウントされることになるでしょう。では、みなさんに政治参加が認められるのはなぜかと言えば、それは高校を卒業した段階でそれなりの社会的経験を積み、ちゃんとした政治的判断ができるからと見なされているからです。政治家を批判できる自由がなければその国家は独裁国家であり、デモクラシー国家ではないということになります。そのことらからすると、年々国政選挙や地方自治体の選挙において投票者が減少傾向を見せているのは嘆かわしいことです。
以上のことから、わが国は物理的制約の側面と政治的判断能力の側面から代表民主制というかたちの間接デモクラシーを採用しています。しかし、一方では間接デモクラシーに直接デモクラシー的契機をあらたに組み込もうとしている学説もあります(例えば、国会議員の解職請求権や国民による法律案提出権の導入などが挙げられています)。
三.憲法41条の規定する「国会は国権の最高機関である」という意味—あるいは、三権の序列について—
まず、ここでは第一講で説明したように日本国憲法の三大原則は①国民主権、②基本的人権の尊重そして③平和主義であったということを思い出してください。そして、わが国は前述のように間接デモクラシーを原則とする国民主権を採用するために、国民が国政選挙で選んだ国会議員から構成される国会が「国権の最高機関」であるということを理解してください。すなわち、国民との近さから①国会、②内閣および③裁判所であり、この順番は絶対に間違えてはいけません。このことを深く理解するためには、旧憲法の下では天皇主権であったことから、国民との近さとは関係なく天皇との近さから序列が付けられていたことを考えてみてください。たとえば、元老院や枢密院はいまの三権分立制度のどこに分類されるのか疑問です。しかし、主権というものが「国の政治のあり方を最終的に決定できる権力」のことを言うならば、天皇主権から国民主権に替わったとは「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権力を持つのは国民」ということになり、その代表者である国会議員から構成される国会が「国権の最高機関」(憲法41条)と言われることは容易に理解できるかと思います(いわゆる、これを民主的正当性の契機と呼びます)。
しかしこのように説明するとみなさんのなかには、小さなころからテレビで
『大岡越前』(https://www.cal-net.co.jp/oooka/)
や『遠山の金さん』(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%87%91%E3%81%95%E3%82%93)を見慣れているので、なるほど国会はデブや禿のおじさんやおばさんの国会議員から構成されていたとしても、われわれが選んだ代表者だから「国権の最高機関」だということは理解できるが、なんで「悪代官」(https://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20020405/gae.htm)の末裔である官僚から構成される内閣が正義の執行者である大岡越前や遠山の金さんの末裔より上位に来るのか分からないと言う学生さんがいても不思議ではありません。しかしよく考えてみてください、わが国は議院内閣制度を採用することによって間接的ではあれ国民が官僚を統制しているのです。一般に、「議院内閣制は行政を担当する内閣が民主政治によって選出された構成員による議会によって形成され、その存立が議会に依存する制度」とされています(https://pol.cside4.jp/theory/5.htm)。具体的には、日本国憲法は1.内閣総理大臣は国会議員の中から国会によって指名(第67条)、2.国務大臣の過半数は国会議員でなければならない(68条)、3.内閣は国会に対して連帯責任を負う(第66条)、4.内閣は衆議院の信任が必要(第69・70・71条)、5.内閣は国民の審判が必要と判断したとき衆議院を解散できる(第7条3項)とすることで、キャリア官僚の首根っこを押さえつけているのです。すなわち、エリート官僚の出世の最高ポストは事務次官ですが、その上に各省の大臣、副大臣、政務官が位置するのです。このように、間接的ではあれ議院内閣制度を採用しているので、われわれが官僚を統制しているということになり、国会の次に内閣が位置付けられるのです。
金さん「その方らの悪事を確かに見ているものが居る。遊び人の金さんという者が…」
悪人 「金さん…?はて。そんな者は知りませんな。本当に金さんなるものが居るのならば、今この場に連れてきていただきましょうか!」
手下達「そうだそうだ!金さんって奴を連れてきてもらおうじゃねえか!なあ、みんな!」
金さん「…。じゃかましいやい!! そうかい、そんなに言うんなら、拝ませてやるぜ!(諸肌脱いで)おう! この見事に咲いた遠山桜、忘れたとは言わせねえぜ!」
では、どうして裁判所が三権のなかで一番最後に位置付けられるのかは簡単に理解できますよね?それは、裁判所は司法試験を合格し、司法修習で優秀な成績を修めた裁判官から構成されているからです。すなわち、われわれ国民は裁判官を任命することもなければ、罷免することもできないのです。言い換えるならば、裁判官ほど国民主権、あるいは国民から遠い存在はいないわけです。
なるほど、
第79条により
1 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。
5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。
と規定されており、最高裁判所判事の国民審査を制度化しています
(https://roppou.aichi-u.ac.jp/joubun/s22-136.htm)。
しかし戦後50数年の歴史においてこの国民審査で罷免された判事は一人もおらず、事実上は最高裁判所判事任命の国民の「追認」投票であると揶揄(やゆ)されています。そんな中で、裁判所の民主化、すなわち国民参加という要請から生まれたのが「裁判員制度」です(https://www.moj.go.jp/SAIBANIN/)。
*ところで、国会の仕事とはなんでしょうか?国会は「立法府」です。ということは、国家機関の中で法律を作ることが出来るのは国会だけということになります。さらに、法律を作ると言ってもその法律とはいかなるものかみなさんは説明できますか?そこで、法律の定義の問題について説明したいと思います。まず法律を定義するに際して、法律を①形式的法律と②実質的法律に分けてください。それでは、形式的法律から説明しますと「国会が作った法規」ということになります。これは、当たり前なのでこれ以上説明する必要はないでしょう。では、「実質的法律」とはなにかといえば、―これは複雑ですので面倒でも覚えてください―「国民の権利・自由を拡張したり、あるいは国民の権利・自由を制約する、具体的にはあたらしい義務を課す法規」ということになります。われわれは、この二つの条件を満たしたものを「法律」と呼んでいるのです。
さて、国会が作った「法律」を執行するのが内閣です。では、みなさんは内閣、つまり行政府の仕事とはいかなるものであるのか説明することができます?道路建設、上下水道の整備、ごみ処理、警察、各種の社会保障、はたまた自衛隊の海外派遣、なんども失敗するロケット打ち上げなど行政府の仕事は数限りなくあります。昔は、それでもこの行政府の行う仕事=行政を積極的に定義しようとした学者がいましたが、いまは以下のような消極的な定義づけで学説は我慢しています。そもそも、科学技術が進展しそれに対応するために内閣の仕事が拡大する以上、かりに行政の定義ができても数年しかその定義は持ちこたえることは出来ないでしょう。そこで、現在は行政=全国家権力−立法−司法という控除説が通説・判例になっています。なるほど、この定義では「行政」自体は積極的に定義はされていませんが、絶対王政から権力を国民に移譲してきた過程を明確に説明するのに便利ですし、また行政が「ごみ処理からロケット打ち上げまで」という幅広い活動を行っていることを明確にしてくれています。反対に言えば、立法は法律を作ることですし、司法は公正な第三者が具体的な事件を通じて、原告および被告の主張・立証の言い分を聞きつつ、法律を適用して事件を解決するということに変更は考えられないですから、その他のものは内閣のお仕事とするわけです。
次に、内閣と国会の関係を見てみることにしましょう。一般に、国会と内閣の結びつきは①イギリス型の国会と内閣の結合の強い「議院内閣制」と②アメリカ型の国会と内閣が厳格に分離された「大統領制」の二つに分けられています。言うまでもなく、わが国はイギリス型の議院内閣制を採用しています。すなわち、国会の最大与党の党首が内閣総理大臣となり、内閣を構成する閣僚の過半数以上を国会議員から任命しなくてはならないからです。これに比べて、アメリカ型の大統領制はずいぶんと違いますよね。まず、大統領は大統領選挙で選ばれますし、また閣僚は大統領の専権で決まっています。さて、議院内閣制の最大のメリットは前述のように官僚の首根っこを国民の代表が押さえ込むということに尽きるでしょう。つまり、各省内でキャリア・エリート官僚の就ける最高の地位は事務次官ですが、その上にわれわれの代表である国会議員から各省大臣、副大臣および政務官が就くのです。そうすることによって、試験で選ばれたのであって、われわれが選挙で選んだわけでもまたリコールも出来ない官僚に間接的ではありますが民主的コントロールを加えることができるのです。
最後に、議院内閣制をそのままにして、首相公選制を導入することは果たして可能でしょうか?たとえば、安倍信三首相が「自分は大統領のように国民に選ばれた総理になりたい」と言ったとき、それを認めてしまっていいのでしょうか?その場合に生じるであろう、危険性についてはこの講義の中で詳しく説明したと思いますので、もう一度自分なりに考えてみてください(https://www.polib.net/shushokosen/)。
*終局的に、国会が作った「法律」が「憲法」に違反していないか、あるいは国会が作った「法律」を執行する内閣の行為が「法律」に違反しているのかどうかをチェックするのが裁判所です。このことからも理解できるように、裁判所は他の国家権力に比べて受動的な機関であることが理解できます。裁判所及び司法権の説明は、このあと基本的人権の判例を紹介・解説する際にたびたび言及することになると思いますのでここでは佐藤幸治先生の司法権概念を引用するだけにとどめておくことにします。「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するという、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である」(『憲法 第3版』(青林書院、平成7年)、295頁以下。(司法制度改革推進委員座長を務めた佐藤先生の意見が反映されてか、裁判員制度には「理をつくして真剣に争う」という理念が随所に見られます。以下を参照してください。
(https://www.gov-online.go.jp/pdf/cabinet/20031201/cabinet_18_21.pdf)
以上のように、国会が法律を作り、内閣がその法律を執行し、最後に裁判所がそこから発生した紛争を解決するというプロセスが存在することを理解する必要があります。いずれにせよ、日本国憲法の三大原則の第一原則たる国民主権主義から三権の序列だけは国会、内閣そして裁判所という順番だけは間違えてはいけないということだけは分かってもらえたと思います。
四.『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」の意味—いわゆる「ジャイアン」理論について—
意外に思うかもしれませんが、優れた指導者がいれば独裁制の方が民主制よりも効率がよく、場合によっては民主制よりも国民全体にとって利益になることもあります。なぜならば、プラトンが『国家』のなかで説く、哲人政治家が統治する国家においては哲人が優れた法律を作り、哲人がその法律を直ちに執行しそして、もしなんらかの問題が発生したら哲人が直ちにそれを解決してしまうからです。それに比べると多くの場合、権力を三つに分断し、しかも互いに抑制と均衡の関係に置くという権力分立制を採用する民主制は非効率このうえないものです。しかも、民意が成熟していなければそれは「衆愚政治」と化す危険性も指摘されています。しかし、わが国は国民主権を採用し、あきらかに『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない Toute Société dans laquelle la garantie des Droits n'est pas assurée, ni la séparation des Pouvoirs déterminée, n'a point de Constitution」という近代憲法の精神に倣って三権分立(ぶんりゅう)を採用しています。では、なにゆえに国家権力を一つの機関に集中させないのか、ということから説明していきましょう。それは簡単で、独裁者に権力を全面委譲してしまうと、もしその政治家が誤った法律を作ったり、その法律の執行を誤ったり、そこから発生した紛争を公正に裁けなかったとき、独裁者に苦言を呈するものがいなくなってしまうからです。また、国家と個人の力量の差を考えてもらったらいいでしょう。独裁国家が悪政を行ったとき、個人がそれを糺(ただす)すことが出来ず、返って反乱として抹殺されてしまう危険性があるからです。前節でも説明したように、現代国家は「ごみ処理からロケット打ち上げまで」という幅広い活動を行う権限を有しています。そこには当然、軍隊と警察が入っていることは言うに及びません。独裁は効率がよいが、われわれはその効率性よりも個人の自律性空間の確保を選んだわけです。
では、なぜ『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」ということになるのでしょうか?なるほど、日本国憲法の三大原則の第二原則は「基本的人権の尊重」ですから「権利の保障が確保され」ていなければ、もはやそれは日本国憲法の体を成していないということになります。しかし、「権利の保障」と「権力分立」が直結するのでしょうか?そこでここで、ドラえもんのいないのび太君を想定してみましょう(https://www.dora-world.com/)。しかもこの世界ではドラえもんはいないのですが、ジャイアン、スネオおよび出来杉は存在し、ジャイアンの号令一家の下にのび太は「のび太のくせに生意気だ!」という理由になっていない理屈で毎日百発づつ殴られていたとしましょう(ところで、「のび太のくせに生意気だ!」という台詞はのび太の人格を無視した問題発言です。「メガネをかけているから生意気だ!」と言うのならば、のび太はコンタクトにしたりして改善することができますが、「のび太のくせに生意気だ!」と言われてしまえばのび太はのび太以外のなにものかに成らなければならないことになります。しかし、そんなことは不可能なのでジャイアン達は暗にのび太に「死ね!」と言っているわけです)。そこで、腕力の強いジャイアンは「内閣」ということにしましょう。お金持ちで小ずるいスネオは「国会」ということにしましょう。お勉強のできる出来杉は「裁判所」ということにしましょう。この三人が徒党を組んでのび太であるみなさんを毎日殴るだの蹴るだのしたい放題を行ったならば、みなさんは「これじゃ生き地獄だ、サヨウナラ」と遺書を書いて自殺すると思います。すなわち、強大な力を持つ、この三人の「いじめっ子集団」が「国家」てあり、この「国家」に弾圧されるのが「弱い存在である国民」であるみなさん達「のび太」なのです。では、みなさんはどのようにしてサバイバルを試みればいいのでしょうか?仮にわたしが遅ればせながら未来からやって来たドラえもんなら、「ジャイアンと、スネオと出来杉を仲違いさせるんだ」(大山のぶ代)と入れ知恵をするでしょう。たとえば、ジャイアンがスネオから借りたラジコン飛行機を返さないことを理由として、ジャイアンがのび太を「殴りに行こうぜ!」と言ってもスネオが「ラジコン飛行機を返さないならボクは行かない!」と言い出したら、おそらくジャイアンのことですから「言うことを聞かないならおまえも殴ってやる」と言ってスネオを何十発か殴るでしょう。これでだけでも、みなさん達「のび太」はスネオから殴られる分を回避することが出来ますし、スネオを殴った分だけジャイアンの体力が消耗しサバイバルの可能性が高くなります。あるいは、ジャイアンがあの下手くそなジャイアン・コンサートに無理やり出来杉を連れ出したため、ジャイアンがのび太を「殴りに行こうぜ!」と言っても出来杉が「ジャイアン・コンサートのため耳がおかしくなったからボクは行かない!」と言い出したら、おそらくジャイアンのことですから「言うことを聞かないならおまえも殴ってやる」と言って出来杉もまた同じように何十発か殴るでしょう。このようにして、みなさん達「のび太」はスネオおよび出来杉から殴られる分を回避するだけではなく、スネオと出来杉を殴った分だけジャイアンが体力を消耗し、もしかすると「今日は疲れたのび太を殴るのはやめた」と言うかもしれません。このようにして、弱者は強者を仲違いさせることによってサバイバルを計るのです。ローマ帝国の法諺に「分割して統治せよ」というものがあります。まさに、イタリア半島のギリシャ殖民都市に過ぎなかったローマが世界帝国へと発展した理由がここにあります。すなわち、みなさんが「強い人間観」を採用しない限り、「弱い個人」である国民は自らの生命・自由・プロパティーを守るために「強い国家権力」同士を仲違させ(「抑制と均衡」、あめいは「チェック・アンド・バランス」)ることが必要なのです。このことを端的に示してくれたのが、『フランス人権宣言』第16条:「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」という条文なのです。
以上で、本講の「国民主権」についての解説を終了します。次回は、もう一つの日本国憲法の三大原則である「平和主義」について講義を行います。時間のある人は、「警察予備隊違憲訴訟」(https://www.geocities.co.jp/WallStreet/7956/han/han56.html)と「恵庭事件」(https://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg98x085.htm)を下調べしてくれると理解しやすくなると思います。
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[1] 一般論として、国民主権と基本的人権の保障が改正の限界をなすことについては異論はないが、具体的に人権条項について見れば、そのすべてが改正不可能であると断定することはできないであろう。平和主義については、平和主義そのものと、憲法9条2項の非武装規定とを区別し、平和主義の立場を守りながらも、非武装規定は改正しうるとする多数説と、9条1項の戦争の永久放棄から2項の非武装規定まで改正不可能と解する説とに分かれている(芹沢斉「憲法改正行為の限界」『憲法の争点』329頁)。
第五講.司法権とは
一.問題の所在
立法権と行政権の誤謬性
悪法も法なりや?→次回の講義に回す
法律を超えた法律の存在→違憲立法審査権
同じ序列のモノ同士では、一方が他方の是非を判別できない。
二.司法権の独立と裁判官の独立
1891年の大津事件
大審院長の児島惟謙の尽力により「司法権の独立」は保てたが、「裁判官の独立」はどうなのか
三.どうして国民主権から一番遠い司法権が違憲立法審査権を有することができるのか?
裁判所は国民主権から一番遠い存在
ヨーロッパにおける法服貴族
フランス革命に最後まで抵抗した高等法院
佐藤幸治教授の司法権の定義
「司法権の概念は、具体的な事件を前提に当事者から訴訟を提起されたことを契機に公平な裁判所が当事者の主張・立証に基づき、法を適用して決定する法原理的な過程を有する点に本質があり、事件性の要件は裁判所が法原理機関であることから導かれる理論的な要請である」
①具体的事件性
②当事者性
③第三者性←遠山の金さんの御白州は不味い
④主張・立証 対審構造
⑤法原理機関性
付録
模範答案
一.日本国憲法の三大原則は、基本的人権の尊重・国民主権・平和主義である。そして、この三大原則の根底にあるのは、「個人の尊重」という個人の尊厳の原理である。そのために、個人一人ひとりの考えを政治に反映させねばならないことから、国民主権が求められる。国民の民意を大切にしようとするのが国民主権であるが、日本の裁判官は、多数決原理という民主主義的な手続きで選任されるわけではないので、国民主権から最も遠い存在である。なぜこのような司法権に、法令その他の処分が憲法に適合するかしないかを審査し、その有効・無効を判断する権限である違憲立法審査権が付与されているのか。
二.憲法上で、違憲立法審査権を設けた根拠として、次の三点の理由があげられる。第一は、憲法の最高法規性の観念である。最高法規である憲法に違反する行為や法令には効力はない。そのため、法律、命令、規則、処分が憲法に適合するか判断する必要がある。第二に、憲法の下に三権が平等に併存すると考える、権力分立の思想である。すなわち、立法、行政の違憲的な行為を司法が統制し、権力相互の抑制を確保するためである。第三は、基本的人権の尊重の原理である。基本的人権の確立は近代憲法の目的であり、かつ憲法の最高法規性の価値もそれに裏付けられている。したがって憲法で保障された基本的人権を、立法権や行政権の侵害から守るねらいがある。
三.基本的人権を保障するための手段として、民主主義制度が採用されている。しかし、民主主義というのは万能ではない。そのときの多数派の意思であるから、絶対に誤りを犯さないとも限らない。民主主義が採用する多数決主義原理は暴走すると、個人の自由、基本的人権の保護規定を侵害してしまう可能性があり、現代の日本は多数決原理の暴走により、生存権さえも脅かされているのだ。憲法が最高法規であり、その憲法によって守られている国民の権利を脅かすような、憲法に違反する法令が制定されたり、憲法違反の行政行為が行われては、憲法が最高法規である意味がない。それを是正するのが、司法権の役割、違憲立法審査権である。裁判官は憲法と良心によってのみ判断すると規定されているように、司法権は独立している。司法権が独立している理由として、まず、司法権は非政治的権力であり、政治性の強い立法権・行政権から侵害される危険を防ぐこと、さらに、司法権は裁判を通じて国民の権利を保障することを職責としているので、政治的権力の干渉を排除し、とくに少数派の保護を図ることがあげられる。基本的人権について、とくに問題となるのは少数派の基本的人権である。多数派の意思で裁判が行われるようでは基本的人権を守ることはできない。そうなると、そこに多数派の意思(民意)によって裁いてはならないということが帰結される。
四.このようにして、国民の民意を反映しない、独立した司法権(裁判所)こそが違憲立法審査権をもつのである。憲法によって保障された権利や自由が、民主主義の原理によって、侵犯されるのを防ぐために、違憲立法審査権が裁判所に与えられたのだととらえれば、民主主義的正統性を裁判所がもたなかったとしても、その権限を行使して法令などを違憲・無効とすることの正当性を基盤として説明することができるのではないかと考える。
―以上―
第六講 平和主義
はじめに.
さて、やっと第4講に入って日本国憲法の三大原則の「平和主義」について講義することが出来るようになりました。しかし、実のところはまだ「基本的人権の尊重」については説明していないのですが、これは第5講以降「基本的人権の尊重」の個別的説明である「人権総論」と「人権各論」というかたちでの講義進行を行いますから、まずは第2講で解説した「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を達成するための手段としての「平和主義」の解説をここで行ってしまいたいと考えています。また、この「平和主義」においては新しい人権としての「平和的生存権」(憲法前文)が問題とされるのですが、これも「新しい人権」の説明の箇所で行うことにします(「平和的生存権」の代表的著作として、深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』(岩波書店、1987年)を参照)。ただし、深瀬先生の意図とは違うのですが、仮に平和的生存権を、本来的意味での「生存権」と解するならば、「世界の警察官」として「平和」を創設するために、「ならず者国家」に制裁などの介入を行うことを国家に求める権利となる危険性があることに注意しなければなりません。すなわち、平和には「戦争をしないという消極的な平和」と「平和を作り出すために、積極的に戦争を終わらせる平和」の二つがあることを看過してはならないわけです。
とりあえず、第2講を思い出してください。そこでわたしは、カントの「目的と手段」の関係を持ち出して、現在の安定した日本社会においてはホッブズ的な悲観的国家論を採るのではなく、一定の安定した日本という国家を前提にして「国民主権」と「基本的人権の尊重」を目的とし、それを護るための手段として「平和主義」が規定されているのだと説明したはずです。つまり、わが国は日本国憲法によって無目的に「平和主義」を謳っているのではなく、「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的、言い換えるならば生命・自由・財産権(プロパテイー)を護るために「平和主義」を規定しているのです。これは後で問題となるはずですが、憲法第9条の明文に違反するように見える「自衛隊」の存在が―専守防衛に限られ―「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を護るための「手段」であると考えるとするならば、それは一概に違憲の存在であると言うことができないという解釈に繋がっていきます。しかしながら、はたして現在(2004年12月7日現在)自衛隊がイラクのサマワに海外派遣・駐屯されていますが(イラク問題については、
(https://www.worldtimes.co.jp/special2/iraq3/main.html)を参照)、この海外派遣・駐屯までもが「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を護るための「手段」であると考えられるのかは疑問です。第5講で問題にするつもりですが、日本国憲法第三章「国民の権利及び義務」はあくまで日本人の基本的人権をメインに保障したものであって、いくら「国際協調主義」(憲法前文、第98条)を持ち出し、「国際貢献」をお題目にしたところで日本に住む定住外国人の人権享有主体性の問題さえ満足に応えていない日本が、中東のイラク人の「国民主権」や「基本的人権の保障」にまで容喙(ようかい)するのは解釈の枠を越えているのではないでしょうか?また、改憲派はこのことを問題にして「憲法9条の変遷論」(憲法変遷論については、
(https://www.worldtimes.co.jp/special2/iraq3/main.html)を参照)
の限界に業を煮やして、一気に現行憲法の改憲を画策していますが(改憲問題については、(https://members.jcom.home.ne.jp/0942103401/kaiken.html)を参照)、
それがわれわれ日本国民の「国民主権」と「基本的人権の尊重」を減縮させる危険には繋がらないのでしょうか?以上のような問題を中心にして、本講は「平和主義」についての講義を進めていきたいと思っています。
一.「侵略戦争」と「防衛(自衛)戦争」—自衛隊の存在そのものが違憲な存在か?—
まずは、日本国憲法第9条の条文を見てみることにしましょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この条文を素直に読む限り、憲法第9条に照らすと自衛隊は違憲の存在であるということになります(まず、法律の解釈の原則は「文言解釈」です)。また、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと時の総理大臣幣原喜重郎(ちなみに、わたしの小学校の先輩)の会談において、両者が天皇制の護持と日本の完全な戦争放棄で同意したといわれていることは周知の事実です(このことからすれば、「立法者意思解釈」に拠っても自衛隊の存在は微妙なものと言わざるをえません)。
一九四六年(昭和二一年)一月二四日に幣原首相はマッカーサー元帥を訪問し、憲法改正問題を含めて、日本の占領統治について会談した際に、戦争放棄という考えを示唆したと伝えられている。幣原は、それが天皇制を護持するために必要不可欠だと考えたのである。したがって、日本国憲法の平和主義の規定は、日本国民の平和への希求と幣原首相の平和主義思想を前提としたうえで、最終的には、マッカーサーの決断によって作られたと解される。日米の合作とも言われるのは、その趣旨である。
芦部信喜『憲法 第三版』(岩波書店、2000年)55頁以下
ところが、その後の米ソ対立を中心とした冷戦構造の下で極東における「共産主義化」の防波堤としての日本の役割が見直され、警察予備隊→保安隊→自衛隊と創設となし崩し的に自衛隊の存在が既成事実化されてきたのです
(https://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg98x085.htm)。
さらに問題なのは、この永遠に続くと思われてきた米ソ対立を中心とした冷戦構造が1989年の「ベルリンの壁」の崩壊から始まったドミノ倒し的な東欧の共産主義政権の崩壊、そしてついにはソ連邦そのものの消滅によって完全に解消されてしまったかのように見えることです。しかし、みなさんもご存知のように極東におけるわが国の安全が確保されたわけではありません(このことは、尖閣諸島や竹島の領有権問題、あるいは北朝鮮による拉致被害者問題を想起してもらえれば分かりますよね)。そう考えると、冷戦時代においてさえわが国が近隣諸国に侵略されなかったことから、冷戦後においてはましてやわが国が脅威にさらされることはないなどと言うことができるのでしょうか?あるいはソ連の崩壊を見て、やはりソ連は張子の虎に過ぎなかったのであり、自衛隊がなくても日米安全保障条約がなくても日本はソ連をはじめとする仮想敵国(だった国)に侵略されることはなかったと言い切ることができるのでしょうか?前者の問題については余りにも楽観主義的な見方であり、後者については現代の立場から過去の歴史を過小評価する高慢な考えだと思います。
それでは、憲法第9条に照らして自衛隊の存在は違憲であり無効であるのかどうかということを考えてみることにしましょう。ただし、ここでは敢えて憲法第9条第1項と第2項の繋がりの問題については言及せずに、日本国が放棄したとされる「戦争」の定義から入っていくことにします。まず、大きく分けて戦争には「侵略戦争」と「防衛(自衛)戦争」の二種類があることが考えられます。そして、これは言うまでもありませんが「侵略戦争」はいかなる理由があっても許されるものではありません。なぜならば、わが国は第二次世界大戦(大東亜戦争)の終戦(敗戦)に至るまで、19世紀の欧米列強の帝国主義政策に倣ってその当時の身の丈(国力)に合わない軍備拡張と大陸侵略を展開し、やがて「無条件降伏」というある意味で醜態を晒してしまったからです。植民地経営がもはや時代遅れであることが明らかになったのは19世紀から20世紀の変わり目にイギリスが行ったブーアー戦争であると言われていますが(ウォーラステェインなど)、それが目に見えるかたちで顕在化していったのが1960年代にアフリカ・アジアの国々がイギリスやフランスから独立していったことです(例えば、映画『アルジェの戦い』
(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=1459))。
その点から言えば、この転換期にベトナム戦争を行ったアメリカはその流れを読むことができなかった際たる例だと言えるでしょう(例えば、映画『ディア・ハンター』
(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=14978))。
また、1970年代のソ連のアフガン侵攻も同様だと言えます(例えばある意味で笑えるのだが、『ランボー3/怒りのアフガン』
(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=24780))。
では、「防衛(自衛)戦争」は認められるのでしょうか?実は、この話題は憲法制定会議(制憲会議)において既に問題とされており、さらに当時の共産党までが「自衛戦争」までも放棄することに懸念を示しているのです。例えば、進歩党の原夫次郎は「この憲法草案では自衛権まで放棄してしまうのか、不意の侵略を受けた場合どう対処するのか?」という質問をしています。また、日本共産党の野坂参三は「戦争には侵略戦争と自衛戦争があって、『正しい戦争』つまり自衛戦争まで放棄する必要は無いはずであり、憲法第9条は侵略戦争の放棄を明示することで足りるのではないか?」と質問しています。これらの質問に対して、吉田茂首相は「近年の戦争は『自衛権』の名に於いて行われたものであり、世界に対して我が国が好戦的な国で無いことを証明し、疑念を払拭するには」憲法第9条が必要であるとし、さらに、「国家防衛権に基づく戦争を正当とする考え方こそ有害である」と答弁したのである。今日から観ると、どちらが自民党でどちらが共産党の意見なのか判断をすることが難しいですね(新井 章「憲法50年論争史」 『別冊世界 ハンドブック 新ガイドラインって何だ?』(岩波書店、1997年)118頁。ちなみに、新井先生は本学(茨城大学)の名誉教授です)。
ところで結論を先に言わせてもらうと、わたしは「戦争には侵略戦争と自衛戦争があって、『正しい戦争』つまり自衛戦争まで放棄する必要は無いはずであり、憲法第9条は侵略戦争の放棄を明示することで足り」、それゆえに自衛隊の存在は「専守防衛」に徹するのならば十分に現行憲法第9条に照らしても合憲であると思っています。講義のなかで自衛隊を肯定するので、よくわたしのことを「右翼」と批判する学生さんがいますが、それは誤解もはなはだしいものです。なんども繰り返すようですが、わたしは「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的、言い換えるならば外敵から生命・自由・財産権(プロパテイー)を護るために「自衛隊」という存在が必要不可欠だと言っているだけなのです。したがって、なるほどアメリカとの友好関係は「国益」に適うものかもしれませんが、「自衛隊のイラクへの海外派遣・駐屯」は「国民主権」と「基本的人権の尊重」という目的を護るための手段としてバランスがとれるものではないので反対です(もちろん、いまイラクにいる自衛隊に「戻ってこい」と言うことは非経済的なので、その意味では事実を「追認」していると言われるのかもしれませんが)。いずれにせよ、吉田首相が「国家防衛権に基づく戦争を正当とする考え方こそ有害である」と言ったために、防衛(自衛)戦争は現行日本国憲法第9条の規定においては座りごこちのいいもので無くなったことだけは事実です。だからこそ、自民党を筆頭とする改憲派は現行憲法を改正しようとするのではないでしょうか?わたしならば憲法変遷論を使って解釈上、自衛隊を憲法第9条で放棄された戦争ではないと思っていますから、憲法の改悪に繋がる可能性の高い「憲法改正論」に乗っかる気は全くありません。
二.自己保存本能
それでは、どのようにして国家の自衛権を認めればいいのでしょうか?これが次の問題になってきます。そこで、わたしは生けとしいけるものがすべて有している「自己保存本能」を根拠にしたいと思います(「自己保存本能」の詳細については以下のものを参照のこと。(https://homepage.mac.com/berdyaev/rinrigaku/gaisetu/rinri8.html))。簡単に言ってしまえば、「人間」をはじめとしてすべての「生き物」は死にたくないという本能があるということです。たとえば、ライオンに追い詰められたシマウマを想像してみてください。シマウマはライオンに追いかけられれば捕まらないように全力疾走し、捕まっても喉首を掻き切られないまでは抵抗をしています。みなさんだって、「殺す!」と言われてそのまま殺される人はいないと思います。時たま例外的に、レミングのように集団自殺をする動物がいますがそれは本能が狂ったからです(古典的なPCゲームとして、「レミングス」というゲームがある(https://game.goo.ne.jp/contents/title/PGMNTPDmdq00202/))。さて、この「死にたくない」あるいは「殺されたくない」という本能は否定することが出来ません。たとえば、憲法の規定ではありませんが、刑法に「正当防衛」と「緊急避難」という規定がなされていることぐらいはみなさんもご存知の通りです。
第35条(正当行為)
法令又は正当な業務による行為は、罰しない。
第36条(正当防衛)
1 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
第37条(緊急避難)
1 自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
2 前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。
たとえば、急にわたしが発狂して日本刀でこの教室にいるみなさんを血祭りにあげていったとしたら、みなさんは先生が日本刀で自分達を殺そうとしているのだから仕方がないと諦めるのでしょうか?しかし、そんなことはありませんよね。仮にきみたちがソフトボール大会をしようとしていて、金属バットを机の横に置いていたとしたらそれで斬りかかってくるわたしに反撃し、そして反対に殴り殺しても問題はありません。すなわち、外形上はわたしを金属バットで殴り殺しているのだから「殺人行為」を行っているといえるかもしれませんが、刑法第36条で規定されている「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」という正当防衛行為に該当し違法性が阻却され、みなさんは無罪ということになります(とりあえず、「正当防衛」については以下の文献を(https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/00-34/ikuta.htm)を参照)。個人ですら正当防衛が認められているのですから、その個人の集合体である国家が外敵から突然侵略されたとき、「それに反撃できないということはできない」と言うことはナンセンスだと思います。ましてや、自衛隊はわれわれの高い税金によって賄われているのです。その意味では、ノージックの言うように国家はわれわれの生命・自由・プロパテイーを護るための保険機関と見なしてもいいのではないかと思います。
(https://takaya.blogtribe.org/entry-20d53b62108a814a629bb778e328819d.html)
ましてや現在の日本に、「日本に外国の軍隊が攻め込んできた場合、自衛隊は一般国民を無視して外国軍と砲火を交えることになるから、自分は外国軍と自衛隊の戦闘に巻き込まれて死ぬより、自分の家族を護るためにおよばずながら裏庭にある竹を切って竹槍にして外国の戦車に向かっていく」というようなことが言える「強い個人」がいったいどれぐらいいるのかは疑問です。反対に言うならば、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」という条件を満たすことはできないので自衛隊の海外派遣や駐屯は認められないと言えるでしょう。
いずれにせよ、国家の自衛権は人間の持つ「自己保存本能」に基づくものでありそれを否定することはできないと考えるべきでしょう。最後に、この「自己保存本能」をスピノザの著作のから基礎付けることにしたいと思います。「スピノザは人間を含むすべてのものに、自己を保存する欲望と力があると想定する。そしてみずからを保存しようとする<ぼく>の身体には、精神を越える能力があると考えるのだ。ぼくたちは『明らかに精神でさえ驚くような多くのことを、身体は自己の本性の法則だけに従ってなすことができるという事実』(『エティカ』第三部定理二の備考)におどろくべきなのだ。」「人間には、自己の存在の保存に固執しようとする欲望があり、これに寄与するのが善であり、自己の存在の保存に望ましくないものが悪であるとするスピノザの倫理学は、きわめて美しい体系を作り出している」(中山元『<ぼく>と世界をつなぐ哲学』(ちくま新書、2004年)35頁参照。なお、スピノザの思想を知るためには以下の文献が有効だと思います。
(https://library.tuins.ac.jp/kiyou/jinbun-PDF/21.%95%9F%93%87%90%B4%8BI%8D%91%8D%DB%91%E5%8BI%97v.11.pdf))
三.ゲーム理論—あるいは、「ドクター・ストレンジラブ—どのようにして私は悩むのをやめ、爆弾を愛するようになったか」(『博士の異常な愛情—または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか-』)
von Neumann ゲーム理論の提唱者
お蔵入りになった「博士の異常な愛情」のパイ投げシーンでのストレンジラブ博士。
次に、この平和主義における問題をゲーム理論で説明しようとする長谷部恭男氏の見解を紹介することにしましょう。まず、長谷部氏はゴーティエの議論に従い「囚人のディレンマ」状況と「チキン・ゲーム」によって説明しようとする。まず、「囚人のディレンマ」状況の説明からはじめることにします。
図1は、「囚人のディレンマ」状況を示すマトリックスです。ここでは、二つのトーチカをそれぞれ守備する二人の直面する選択肢を例にしましょう。Cは協力してトーチカを守備し、敵襲に反撃するする選択、Dは仲間を裏切ってトーチカを捨て逃亡する選択です。二人が協力して反撃すると、軽傷は負うかもしれませんが、敵襲を撃退することがでます。二人がともに逃走すると、二人とも敵の捕虜となります。他方、一人が反撃しているうちに他の一人が逃走すると、逃走者は無傷で生き延び、人のよい兵士は戦死してしまいます。全体としては、二人とも協力するという選択の組み合わせが最善のはずです。しかし、相手が反撃をつづけるとすれば、自分個人としては逃げることで最善の利得(3)を得ることができるし、相手が逃走するのであれば、やはり自分としても逃走しなければ割があわない。したがって、相手がいずれを選択したとしても、相手を裏切ることが合理的な選択だということになります。ところが、その結果、全体として見れば最悪の結果、つまり双方が逃走して敵の捕虜になるという結果が導かれます(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)133頁以下)。以上のことを前提とすると、「囚人のディレンマ状況に置かれた当事者が、はたして他者が協力しようとするか否かを的確に知ることができるかが問題となる。羊の皮をかぶった狼であれば、相手の協力的な姿勢にだまされて、裏切りにあう危険がある。お互いの意図が不明で疑心暗鬼の状態では、安定的な平和を実現することは難しい」ことになるでしょう(前掲書・141頁以下)。
次に、「チキン・ゲーム」の説明をすることにします。「チキン・ゲームとは、もともとは、命知らずの若者が、それぞれの自動車を全速力で、そのままでは衝突するよう、対抗方向から走らせるゲームである。命が惜しくて一方がコースから外れると、弱虫(chicken)とあざけられ、相手方は勇者として讃えられる。しかし、両方がそのまま突っ込めば二人とも命を落とすことになる。対立する核保有国が、それぞれ自己のイデオロギー的正当性を主張しあって、相互を斯く攻撃すれば最悪の結果を招くというシナリオと同じタイプのものである。」
(図2)は、「チキン・ゲーム」のマトリックスを示しています。もし、敵の攻撃にこちらも反撃すれば、双方が死滅します。もし、敵の攻撃に対して屈服すれば、双方が攻撃を控える場合に比べて利得は減少しますが、それでも、少なくとも生き残ることはできるでしょう。したがって、国家間の関係をチキン・ゲームと見立てる国からすれば、さしたる防衛力を持たず、外敵からの攻撃が予想されれば進んで降伏するという選択が合理的となりまする(前掲書・143頁以下)。
まさに、このチキン・ゲームの最悪の状況を皮肉った映画が1964年のスタンリー・キューブリック監督作品の『博士の異常な愛情—または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか—』である
劇中に登場するスト
レンジラブ博士(ピーター・セラーズ)
(詳細は、(https://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=17858))。精神異常をきたしたジャック・リッパー将軍(「切り裂きジャック」のパロディー)のソ連核攻撃命令のために、アメリカ大統領とソ連首脳の必死の努力にもかかわらず、攻撃命令中止の無線が一機の核爆撃機に届かず核爆弾を投下、それに対してソ連が極秘裏に開発していた核兵器「最後の審判マシーン」(「皆殺し装置」)が自動的に作動し人類は百年間地下都市で生活しなければならなくなるというブラック・コメディーである。この映画で異彩を放つキャラクターこそストレンジラブ博士である。彼は「車椅子に乗り、義手の右手をもつ天才的な科学者であり、『ブランド・コーポレーション』(ランド・コーポレーション=アメリカ空軍のシンクタンクを果たした研究機関のパロディー)から派遣された大統領の科学顧問という設定である。重いドイツ語訛りと、興奮すると勝手にナチ式敬礼をしてしまう義手は、彼がかつてナチに協力した科学者であることを暗示している。映画のなかで彼は、全面核戦争が不可避になった後でさえ、冷静に対処策を大統領に進言する。米国民を選別して、選ばれたものだけが百年間地下都市で生き延びればよいとするのである」(竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく—戦略的理性の批判—』(ちくま新書、2004年)49頁)。竹田氏によれば、ストレンジラブ博士のモデルはことばやふるまい方は当時ハーバード大学教授であったヘンリー・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger 1923~。ニクソン政権の国務長官)、またランド・コーポレーションから派遣されてきたことは当時『熱核戦争論』(1960年刊)を書いたハーマン・カーン(1922~1983)、そして車椅子に乗っていることは晩年癌に冒され車椅子で各種委員会に出席していたフォン・ノイマンではないかと推理する(前掲書・50頁以下参照)。ノイマン自身は米ソ対立をゲーム理論的観点から捉えていなかったようだか、彼がコンピューターの基本設計思想を打ち立て、そこから「ゲーム理論の父」と言われていることは周知の事実であるし、1948年に正式にランド・コーポレーションと契約したことで、これがランド・コーポレーションにおけるゲーム理論研究のきっかけになったことは否定できないと思われる。いずれにせよ、ゲーム理論が最初に本格的に応用されたのは、冷戦におけるアメリカの軍事戦略の領域であると言えよう(前掲書・48頁以下参照)。
*ちなみに、劇中に登場する「皆殺し兵器」は架空の存在ではなく、旧ソヴィエト連邦で、また現在ロシア共和国でも稼動している「死の手」システムのことである。劇中に登場した内容どおり、核攻撃を受けるとミサイル発射命令の電波を発するミサイルが発射され、ロシア全土に配置されたミサイル群に所定の目標に対する発射を行うと言うシステムです。
いずれにせよ、「囚人のジレンマ」にせよ、「チキン・ゲーム」にせよ、この理論は失うもののないものには通用しないことは、いわゆる9.11テロ事件以降明確になってきていると言えよう。まさに、上述の理論は米ソ二大国の冷戦構造に適した理論であるが、さてテロリズムにこの理論が実効性をもつとは考えられないのではないか?
4.判例の紹介と検討
この部分については、『新スタンダード憲法』をテキストに使い主に「警察予備隊違憲訴訟」と「恵庭事件」を素材に自衛隊訴訟の難しさについて解説しました。おのおのの、コメントはわたしの講義で話したことを思い出してください。
第七講 人権の享有主体性―(1)―定住外国人の人権の享有主体 茨城大学教育学部准教授 中野 雅紀
はじめに
第1講で社会科学論文の書き方の一例として、定住外国人の人権の享有主体性の有無についての議論を行いました(ここでは、その講義を、あえてこの第5講に組み込んで再説しています)。そこで、第1講の復習を兼ねて、第5講では定住外国人の人権の享有主体性をテーマにして議論を進めていくことにしましょう。
さて、人権の享有主体性とはなにか、ということが問題になりますが、みなさんは、これを日本国憲法の保障する基本的人権を持つことができるのはだれであるのかと、理解しておいてください。当然のことながら、わが国は法治国家なので人権を持っているということは、その人権を侵害された場合、その救済を裁判所で主張できるということも意味していると併せて理解しておいてください。ところで伝統的に、わが国においては人権の享有主体性について天皇・皇族の人権享有主体性の問題、法人の人権享有主体性の問題および定住外国人の人権享有主体性の問題が議論されてきました。近年においては、それに未成年者の人権享有主体性の問題、お年寄りの人権享有主体性の問題、身体障害者の人権享有主体性の問題が議論されるようになっています。法哲学的にはさらに、人間以外の地球外生物、つまり宇宙人の人権享有主体性の問題や動植物の人権享有主体性の問題まで議論されるようになってきています。また、将来においてはアンドロイドやロボットの人権享有主体性も問題になるであろうと考えられます。これらの議論は一見、奇異な議論のように思えますが、では人間は、どうして他の動物、すなわち魚、鶏、豚および牛等を屠殺して食べることができるのかという、根源的な人権の理由づけと絡んでくる非常に難しい問題なのです。
そもそも、人権は、人間が神の似姿に造られているから、あるいは人間には生まれつき「人間の尊厳」がインプットされており、すべての動物のトップにあるから(万物の霊長)、人間だけが権利を持つことができるという理由づけから構築されています。このような理由から人間は、自分たちよりも劣った動物を食べることができるわけです。あるいは、アリストテレス的に「性質説」を採用するならば、水が高いところから低いところに流れるのが性質であるように、人間は牛肉を食べて生きていく性質を持ち、牛には気の毒ですが、牛たちは人間の胃袋に納まる性質を持っているから食べられるということになります。ただし、アリストテレスの性質説では自然科学と人文・社会科学の区別がなされていませんし、人間においても生来的に「奴隷」の性質を持っているものが「奴隷」だということになりますから、この見解は身分制社会を肯定することになり、採用することができません。そこで、「人間の尊厳」を発展させて、人間だけが理性的に判断して行動できるからという理性万能主義を徹底すると、たしかに人間は他の動物に比べて知能が高いから、他の動物を、生命までふくめて支配してよいということになりますが、この説を鵜呑みにすれば、クジラやイルカは知能指数が高いから食べてはだめだとか、反対に人間においても知的発達障害者は、健常者と比べて劣っているから差別してよいということになり、ナチスや日本の人種法や優生保護法のように人権の普遍性を侵害する「悪法」となる可能性が出てきます。それでも、どうにか人権の根拠を「人間の尊厳」に求めて、これが通説的見解であるのは、現在のところ、この地球上の動物の中で人間より優れた動物はいないからに過ぎません。では、ロバート・ノージックのように、地球外から人間よりも優れた宇宙人がやってきて、彼らが人間の肉が大好きで、圧倒的な科学力の差で人類を圧倒して、人間を捕獲して食べはじめたとき、「人間の尊厳」の理論を主張して、宇宙人を納得させることができるでしょうか。おそらく、宇宙人は、「ではお前たち地球人は魚、鶏、豚、牛などの自分たちより劣った生物を食べているではないか、われわれが、お前たち地球人を食べているのも同じように、地球人がわれわれより劣った生物であるからだ」と反論するでしょうから、この理論では相手方である宇宙人を納得させることはできません。そこで、「人間の尊厳」をあきらめて、功利主義に走ると、今度は更にまずい結果になってしまうでしょう。つまり、功利主義とはジェレミー・ベンサムの「最大多数の最大幸福」に要約される理論ですから、食べられる地球人たちの不幸よりも、人肉を食べて、美味しかったと満足する宇宙人たちの幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということとなり、まったくもって、われわれ地球人にとって救いようのないことになってしまいます。さらに必ずしも、功利主義がわれわれ人間限定した場合に、いかなる場合においても都合がよいのかと言うと、そうは言えないのであって、たとえば、ある病院に心臓病の患者と、肝臓病の患者と緑内障の患者がいて、すぐにそれぞれ該当する臓器移植が必要であると想定してください。そんなとき、タイミングよく病院の前で健康で病気ひとつしたことのない人物が自動車に撥(は)ねられ、脳死状態になったが、他の臓器は傷一つない状態で集中治療室に入れられたとします(ここで注意してもらいたいのは、脳死したのであって、死亡したのではないということです)。徹底した功利主義を採るならば、臓器移植提供カードがなくても、家族のインフォームド・コンセントがなくても即刻、この脳死した人物の心臓を心臓病患者に、肝臓を肝臓病患者に、そして角膜を緑内障患者に移植するでしょう。ついでだから、血液も輸血用に全部抜いてしまって、また骨髄バンクに提供するために骨髄液をすべて採取して、この脳死患者の人体解体が行われたとしても、この一人の患者の肉体をバラバラにすることによって、多くの他の病気で苦しむ人たちが救われるわけですから、得られる「快」の総計は失われる「快」の総計をはるかに上回り、道徳的にも「正義」に資することになります。しかし、このような残酷な措置は、われわれの通常の倫理観とはかけ離れているように思いますが、あなたたちはどうおもいますか。最後に、前述の宇宙人を人間よって造られた高性能なアンドロイド(レプリカント)に入れ替えてみてください。フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房、1968年)、それを映画化したリドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982年)を読んだ、あるいは観たことのある学生さんならばわかると思いますが、「ネクサス6型」のアンドロイド(被造物)たちが、その制作者であるエルドン・タイレル博士(造物主)である自分たちを造った意義を問い、過度に短く設定された寿命を延ばすことを要求するために地球に帰還し、それを主人公のリック・デッカードが追うというストーリーです。この作品の重要な点は前者の部分であり、すなわち造物主(神)と被造物(人間)の関係をどのように考えるのかということにあります。なるほど、現代においては基本的人権の理由づけに「神の似姿」論を持ち出す学者は少なくなっていますが、わたし自身はけっして「神の似姿」論を持ち出すことは非合理な考えではないと思っています。ある意味においては天動説を説いたプトレマイオスのように、地球が宇宙の中心にあり、地球に神がいるといった考え方に徹した方が上記の難問に煩わされる必要がないのかもしれません。
Robert Nozick 1938~2002
Jeremy Bentham 1748~1832
Claudius Ptolemaeus 85~165
アリストテレス以来の天動説の代表的論者。地球中心説を唱え、地球こそが神の住む星であるとした。
余談によって紙面をかなり使ってしまいました。基本的人権の享有主体論においては後述のように、文言説と性質説の対立を理解しておく必要があり、そして性質説を理解するためには人権の理由づけの問題を理解しなくてはならないので、宇宙人の人権享有主体性の問題やアンドロイドの人権享有主体性の問題という極端な話を使って「神の似姿」説、「人間の尊厳」説および「功利主義」説を概観したわけです。とりあえずは、みなさんはこのうち「人間の尊厳」説を採用してください。ちなみに、極論はナンセンスであると言う人がいますが、今回の東北・関東大震災における菅直人政権の対応の遅さは、細かい可能性にまで言及しすぎて議論の対象が拡大し、そしてそれに応じて選択肢が増大し、結局、基本方針が決まらずになにも行えないということに原因があることを考えるならば、総論は二者選択型から入り、各論で具体的な事案を採りあげるべきだと考えます。
さて、天皇・皇族の人権享有主体性の問題、法人の人権享有主体性の問題、定住外国人の人権享有主体性の問題、未成年者の人権享有主体性の問題、お年寄りの人権享有主体性の問題、身体障害者の人権享有主体性の問題についてすべて語ることになると、この講義は、残りの時間はみんな人権の享有主体性の問題だけ語ることでおしまいになってしまいますので、今回は、定住外国人の人権享有主体性にテーマを絞って話を続けていきたいと思っています。ちなみに、定住外国人の人権享有主体性の問題の他で、国家試験や資格試験に出題される可能性が高いのは、法人の人権享有主体性の問題です。したがって、これはみなさんが各自でチェックしておいてください。
ここまできて、やっと定住外国人の人権享有主体性の問題のテーマの入り口に入っていくわけですが、そこで確認しておかなければならない問題点が三つあります。
問題点
①人権の享有主体性……誰が日本国憲法の保障する人権の保障対象であるのかということ。
②単なる外国人と定住外国人の違い……定住外国人とは、日本国籍は有していないが、日本に生活基盤を有している外国人である。
③日本で生活する外国人のうち、永住資格を持つ外国人の人口は、2007年末時点で約87万人である。このうち朝鮮半島や台湾から戦前に移住してきた人々やその子孫で、現在も日本国籍を取得していない、いわゆる特別永住者の人口は1991年(約69万人)をピークに年々減少している(「平成19年末現在における外国人登録者統計について」参照)→したがって、定住外国人の問題を旧植民地の出身者に限定して語ることは時代遅れになりつつある。
ここで重要な点は、②であることは言うまでもありません。たとえば、プロ野球選手の助っ人外国人のように、シーズン・オフにはアメリカ等に帰国できる外国人や、たんなる旅行者である外国人の人権は、彼らの本国の憲法によって保障されているのであるから、わざわざ、日本国憲法の保障を受けさせる必要性はありません。しかし、同じ外国人でも、なんらかの理由で本籍国に帰れず、日本にその生活基盤を有している外国人は、上記の外国人とは異なる対応を行わなければなりません。すなわち、日本に生活の基盤を有しているということは「国民」ではないにしても、その生活の基盤とする地方公共団体の「住民」であるという解釈の可能性はあるわけですから、実際面的観点からも理論的観点からも、最初から定住外国人の人権享有主体性を否定してしまうことには問題があります。ただし、国籍法による国籍要件の有無は、19世紀末のドイツ国法学に起源を有しており、これを超える要件論は現在のところ存在しないと思います。なぜならば、国内においては国民主権を原則として採用し、さらに世界連邦国家なるものが実現していない以上、主権者たる「国民」が誰であるのかは、国民の代表である国会議員から構成される国会の立法によって決めなければならないからです。さらに、無国籍者であることも問題ですが、多国籍者であることも問題です。これは注意しなければならないのですが、国籍取得の要件は各国でまちまちであるために、たとえば父親がアメリカ人で母親が日本人であり、子供の出生地が日本である場合、アメリカは出生地主義を採用しているのでこの子供は日本で生まれたためアメリカ国籍を取得できず、また国籍法改正前の日本は父系血統主義を採用していたためにこの子供は父親がアメリカ人なので日本国籍を取得できず無国籍ということになります。反対に、父親が日本人で母親がアメリカ人で、子供の出生地がアメリカである場合、この子供は父親が日本人であるから日本国籍を取得し、アメリカで生まれたからアメリカ国籍を取得するということになります(もちろん現在、わが国の国籍法は両系血統主義に改正されています)。このように考えるならば、両親が別々の両系血統主義を採用しているA国とB国の国民で、その子供が出生地主義を採用しているC国で生まれた場合、その子供はA、BおよびCの三重国籍となることが理解できるのではないでしょうか。無国籍である場合、「おれは永遠のボヘミアンさ」とうそぶいていても、海外旅行に行ったとき被害を受けてもなんの国家的な保護を受けることができません。反対に、多国籍であるということは、それぞれの国家の保障する権利を享受することにはなりますが、当然のことながら、それぞれの国の義務を果たさなければなりません。実例として、きみたちの先輩にお父さんが商社マンで、アメリカで生まれたために、第二次湾岸戦争が起こったとき、アメリカとメキシコの国境警備兵に徴収された学生がいました。このように無国籍である場合、選挙権のみならず、数々の社会保障受給資格もないということになり、実際、家を借りるにしても、就職するにしても大変な苦労をすることになります。しかし、だからと言って、兵役の義務をはじめとして比較的義務の規定の少ない、わが国において、多国籍であることは、日本国籍だけでは課せられない義務を負わなければならないことになります。これが、「無国籍者であることも問題ですが、多国籍者であることも問題です」と言ったわけです。
1.定住外国人に日本国憲法が保障する人権を認めることのメリットとデメリット
まず、定住外国人に日本国憲法の保障する人権の享受を認めるか、認めないかという二者択一的な選択よりも先に、テーゼ、アンチテーゼおよびジンテーゼの根拠となる「定住外国人に日本国憲法が保障する人権を認めることのメリットとデメリット」を提示することにしましょう。
メリット
①自然権(法)思想NIchtrechtspositivismus
人間は人間であるというただそれだけの理由で、人間の尊厳を有し、その人間の尊厳から人権の保障がなされる(定住外国人も自然人である点では変わりがない)。
②国際協調主義(普遍主義)
デメリット
①日本国憲法第三章「国民の権利および義務」という表題
←19世紀ドイツ法実証主義(Rechtspositivismus)の呪縛
②日本国憲法の三大原則である「国民主権」との抵触問題
以上のように、メリットとデメリットの対立は自然権思想と法実証主義、あるいは国際協調主義と国内優先主義という思想的対立に帰着すると言えます。
まずは、メリットの方から順番に解説していくことにします。まず、①の自然権思想ですが、これは基本的人権の根拠を、人間は人間であるというただそれだけの理由で、生まれながらにして「人間の尊厳」を持っており、その「人間の尊厳」をもつことだけに求める考え方です。いわゆる、明治維新期に中江兆民などによって「天賦人権」と言われたのがこの考え方です。したがって、われわれは生まれた時から人間であるわけですから、なにも考えなくとも「人間の尊厳」を持って生まれてきて、その「人間の尊厳」を基礎にして、誰から与えられたのではなく最初から基本的人権を持っているということになります。まさかこの中に、昨日まではゼベット爺さんによって作られた木偶人形であって、放蕩のかぎりを尽くしていたのだが、昨夜、大洗海岸沖で遭難し、大きなお魚に呑み込まれ、そこでゼベット爺さんに再会し、いままでの自分に反省して涙を流したのを、青い髪の妖精さんに認められて人間になったという人はいないでしょう。当たり前のことですが同じように、定住外国人も法律によって、あるいは魔法によって後天的に人間になったわけでなく、生まれながらにして人間であり、「人間の尊厳」を持っているから、人権の享有主体性が認められているわけです。このように、生まれながらにして人間である者を「自然人」と言います。自然人と言うと、ターザンとか、パプアくんとかグーのようにジャングルで野生の生活をしている人のように勘違いする人がいるかもしれませんが、ここでいう「自然」とは「天然」のこと、すなわち「お前、天然馬鹿だな~」等という意味で使われる生まれつきの、ないしは天性のという意味で理解してください。これとの対比で、「法人」というものが挙げられます。これは、たとえば会社や学校などのように、後天的に法律によって「法人格」を与えられ、それに基づいてはじめて人権の享有主体性が認められたものです。ここでは省略しますが、どうして法人の人権享有主体性が問題になるのは、以上のことから推論できるのではないでしょうか。ところが、この自然権思想は戦後、日本国憲法ができてはじめてわが国に導入されたのであって、戦前の大日本帝国憲法の時代には国民の人権は天皇の恩恵によって与えられたものであり、国民たる人間は生まれながらにして人権の享有主体として認められていたわけではなかったことに留意しておく必要があります。
中江兆民
1847~1901
茨城大学
茨城大学は「法人」であって「自然人」ではない。
ピノキオ
後ろにお魚!!
類猿人ターザン
次に、メリットの②である「国際協調主義」について簡単に説明します。国際協調主義とは平たく言えば、諸外国と仲良くしていくということです。ところで、これがどうして定住外国人の人権享有主体性の問題と関係するのか?それは、たとえば日本とA国が「仲良くやりましょうね」と外交関係を結んだとしても、その外交先の、日本に住んでいるA国人を迫害したり、その人権を十分に保障していないとするならば、本当に仲良くなりましょうと思っているか疑念を抱かれてもしかたがありませんネ。まずは、国家という漠然とした対象ではなく、国民間がお互いを尊重し、仲良くすることから本当の友好関係が生まれるのは言うまでもありません。その中核となるのが、人権ということです。
デメリットの解説に移って、①の日本国憲法第三章「国民の権利および義務」という表題から解説していくことにします。しかし、これは実は②の日本国憲法の三大原則である「国民主権」との抵触問題とも密接に関係し、メリットのように二つを分けて説明するよりも、①から②の順番で説明していくかたちになるかと思います。そもそも、自然権思想と法実証主義のどちらが先に考え出された理論かと言えば、それは自然法思想でした。そもそも、ギリシア哲学においてピュシスとノモスの区別が立てられており、ソクラテス裁判において悪法論が闘わされたように、フランス革命におけるまで西洋社会における法制度は神の法、すなわち、自然法思想が中心でした。しかしながら、絶対王制が確立していく過程で、第3講で解説したようにボーダンのような思想家が「王権神授説」を説きだすと、神様の声を聴ける人物がいない以上、国王をはじめとする権力者たちは恣意(しい)的に、法を解釈するようになっていきます。それに対抗するかたちで、市民革命が起こったわけですから当然、あらかじめ法律で規範の要件と効果を実定化し、立法段階で判断基準を羈束して、国家権力の裁量の幅を限定することによって、国民の権利や自由の保障を図るようになるのは当然の成行きです。すなわち、ハッキリしない法の内容を法律として実定化し、法律として制定されたもののみを法内容とする考え方こそが法実証主義の基本思想です。また、王制を打倒した時点で、主権は国王から国民に変更されたわけですから、そのような立法権は国民の代表から構成される議会に権限として配分され、法的安定性と予測可能性を確実なものとし、近代資本主義を発展させる推進力となりました。当然のことながら、国家権力を縛ることは国民の生命・自由・プロパティーの保障領域を拡大させることですし、また自分たちの代表で構成される議会が作る法律ですから、法実証主義は優れた理論であると信じて疑われませんでした。そして、遅れてやってきた立憲国家であるドイツと日本は、このフランスの法実証主義を模範にイギリスやフランスなどの先進国に追いつここうとしました。まず、ドイツがフランスの諸法典を模範にドイツ帝国憲法をはじめとする諸法典を実定化し、日本はドイツの諸法典を模範に大日本帝国憲法をはじめとする諸法典を制定しました。
もちろん、この当時のフランス、ドイツおよび日本人も自然権、あるいは天賦人権の存在は知っていましたが、国家権力の恣意性を排除するためには、それを実定化しなければならず、実定化していなければ、それらの人権は実効的な効力を持つことはできませんでした。しかし、これはおかしいと早合点してはいけません。法律なしに国家権力が国民に自由や権利を与えるならば、それは恣意的に特権を与えることになり、革命以前の専制政治に逆戻りしてしまうことになります。実際、法治主義という観点からすれば、ドイツや日本は法実証主義に第二次世界大戦に敗れるまで忠実であり、ナチス・ドイツや戦前の日本はよく「不法国家」であったと非難されますが、ユダヤ人の虐殺は人種法に基づいて行われ、反体制派の弾圧は治安維持法に基づいて合法的に行われました。むしろ、ドイツと日本は、フランス革命後に進展した過度の人間の理性信仰、すなわち、立法者も人間であり、誤った法律を立法してしまうことを看過し、その誤りや欠缺を自然法で補完するという再生自然法論を考慮しなかったこと、そして形式的には憲法と他の法律も実定法である点において上下関係にないことに間違いはないが、国民の代表である議会も常に正しい法律だけを作るだけではなく、誤った法律、あるいは悪法を作ることがある以上、憲法を法律の上位において、またその憲法をも拘束するような自然法を想定して、違憲の法律やはなはだしい悪法を審査できる制度(その代表が、違憲審査制度)の必要を軽視したことが問題であったわけです。そもそも、人権が問題になるのは少数者の人権が問題になる場合が多く、ゲオルク・イェリネックが指摘するように人権は『少数者の権利』がその原型になっています。したがって、国民の代表による多数決で可決される法律は、国民に代表ではない執行権の担い手としての裁判官の恣意的な法解釈を統制することには大きな役割を果たしましたが、人権は多数決によっては決めてはならないことが理解できますよね。
以上のように、再生自然法思想に変わったと言っても、当然のことながら「神の法」を理性によって認識できない以上、原則は実定法の解釈を中心とした法実証主義であり、例外として、どう考えても「悪法」としか評価できない、法律は実定法を超えた法律に照らして違憲とされなければならないという考えに基づいて、現代の立憲主義国家は、その補完として自然法思想を採り入れているわけです。その制度的な典型例が、わが国においては違憲立法審査権であるということを覚えておいてください。
人間と市民の権利の宣言(1789年)
ナポレオンとCode Civil(1804年)
『ナポレオン法典』は、完璧で解釈する必要がないと言われていた。
Georg Jellinek 1851~1911
ドイツ連邦憲法裁判所
ドイツも戦後、憲法裁判制度を導入した。
ところで、上述のような問題点があっても、主権者は国民に変更されたわけであり、国民によって制定された実定法の文言を素直に読まなくてはならないことは言うまでもありません。なぜならば、文言通りに読まないで、勝手な解釈を行ってよいのであれば、封建社会の支配者が、民主的な法の執行者(フランスでは、行政権よりも司法権の恣意性を危険視していました)に代わっただけで、法の恣意的な解釈・運用が行われて、結局、専制政治に逆戻りしてしまうからです。したがって、このことは日本においても同様で、法解釈の原則は文言解釈で、それで都合が悪い場合に、反対解釈、拡張解釈、論理解釈あるいは類推解釈を行うことになっているのです。そうすると、日本国憲法の規定は第三章で「国民の権利および義務」を定めているので、これを字義通りに読めば、日本国憲法の人権は原則的に日本人のために保障されているということにならざるをえないでしょう。これを勝手に、定住外国人の人たちはかわいそうだからとか、友達になれそうだからと言って、勝手に、すなわちここで言う恣意的な「国民」の拡張解釈を行ってしまうことは、国民主権の原則に違反する行為になります。そして、この第三章の人権カタログの中に選挙権が入っているのです。かなり長い文章になりましたが、これでデメリットの②の話の前提に入ることができるかと思います。
3講で示したように、わが国は第1条で国民主権を明記しています。その意味は繰り返しになりますが、「国家の政治の在り方を最終的に決定することができる権力を有するのは国民」ということになります。また、芹沢斉生も指摘するように、日本国憲法の三大原則の中で「一般論として、国民主権と基本的人権の保障が改正の限界をなすことについては異論はない」とされています。すなわち、ナポレオンの皇帝就任やヒトラーへの全権受任に見られるような、国民主権に基づいて国民自身が国民主権を放棄して、君主主権に変更するという自殺行為は、憲法改正権の限界と抵触し理論的に不可能です。当然ながら、日本国民が定住外国人に主権を移譲することや、分有することは最高、不可分、可譲である主権の概念に合致しません。もちろん、法実証主義をここでも徹底して、憲法の規定に価値序列は存在せず、憲法自身が改正を認める以上、憲法の規定の改正に限界はないとし、定住外国人主権にしてもよいという主張も出来ないわけではありませんが、ここまでの説明から理解できるように、わたしはこの見解は採りません。そこで、上記のナポレオンとヒトラーの二人の共通点を考えてみてください。実はナポレオンはそもそもイタリア人であり、ヒトラーはオーストリア人で共に外国人であったということです。当然のことながら、しかし意外にみなさんの中にはかならずかん違いしている学生がいるのですが、日本に帰化した外国人はもはや日本人なのであり、定住外国人でないということを理解してください。そして、わたし自身は帰化制度を否定するものではなく、積極的に評価するものです。
Napoléon Bonaparte 1769~1821
Adolf Hitler 1889~1945
二.学説
第1章のメリットとデメリットを比較衡量すると、下の三つの学説に分類することができます。
(学説の分類)
1.否定説
その根拠はデメリット
①日本国憲法第三章「国民の権利および義務」という表題←19世紀ドイツ法実証 主義(Rechtspositivismus)の呪縛
②日本国憲法の三大原則である「国民主権」との抵触問題
2.肯定説
その根拠はメリット
①自然権(法)思想Nichtrechtspositivismus
人間は人間であるというただそれだけの理由で、人間の尊厳を有し、その人間の尊厳 から人権の保障がなされる(定住外国人も自然人である点では変わりがない)。
②国際協調主義(普遍主義)
3.折衷説
否定説対肯定説の対立図式では、永遠に論理的対立を解消することは不可能。
したがって、メリットとデメリットの良い部分を足して2で割る。
C1)文言説……文言に「国民」という言葉が出てくるかどうか←法実証主義的
第15条第1項 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権 利である。→国民固有の権利だから 選挙権については定住外国人は人権享有 主体ではない。
第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場 合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。→何人もと書かれてい るから奴隷的拘束および苦役からの自由については定住外国人も人権享有主体 である。
第21条第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これ を保障する。→国民という言葉が出てこないから、表現の自由については定住 外国人も人権享有主体である。
このように、憲法第三章、すなわち第10条から第40条の文言によって定住外国人の人権享有主体性の有無を判断していく。
C2)性質説……人権の性質に応じて人権の享有主体性を決める←自然法思想的
自由権=「国家からの自由」→国家、すなわち日本国を前提としないで生まれ つき有している「自然権」であるから、定住外国人にもその人権享有主体性が 認められる。
社会権=「国家による自由」→国家という配分装置を前提とするから、定住外 国人にその人権享有主体性が認められるとしても、大幅な制約が課せられる。
選挙権=「国家への自由」 →日本国という国家への参加権である以上、日本 国の政治の在り方を最終的に決定する権限が日本国民にあるという国民主権の 原則に抵触し、定住外国人にはその人権享有主体性は認められない。
※実はこの三類型について、みなさんは、すでに「公民」科目として初等・中 等教育で学習済みのハズ。
この議論に基本方針を示したリーデング・ケースがマクリーン事件である。
「憲法第3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。しかしながら、前述のように、外国人の在留の許否は国の裁量にゆだねられ、わが国に在留する外国人は、憲法上わが国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく、ただ、出入国管理令上法務大臣がその裁量により更新を適当と認めるに足りる相当の理由があると判断する場合に限り在留期間の更新を受けることができる地位を与えられているにすぎないものであり、したがつて、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当であつてる。」
⇒①「権利の性質上」→最高裁判所が「性質説」を採用している証拠である。
⇒②「わが国の政治的意思決定……を除き」→国民主権による限界を示す。
では、社会権はどうなるのか→塩見事件判決を見よ。
佐々木惣一 1878~1965
京都学派の重鎮。ドイツ国法学の法実証主義の影響から、文言説を提唱した。
宮沢俊義 1899~1976
東京学派の重鎮。フランス憲法の権威であったが、自然法思想およびイェリネックの地位理論から性質説を提唱した。
三.判例
1.マクリーン事件(判例百選 事件【2】 プロセス演習481頁)→前述のように、定住外国人の人権享有主体性の基本方針を定める。
「憲法第3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶものと解するのが、相当である。しかしながら、前述のように、外国人の在留の許否は国の裁量にゆだねられ、わが国に在留する外国人は、憲法上わが国に在留する権利ないし引き続き在留することを要求することができる権利を保障されているものではなく、ただ、出入国管理令上法務大臣がその裁量により更新を適当と認めるに足りる相当の理由があると判断する場合に限り在留期間の更新を受けることができる地位を与えられているにすぎないものであり、したがつて、外国人に対する憲法の基本的人権の保障は、右のような外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎないものと解するのが相当である。」
2.指紋押捺事件(判例百選 事件【4】)→定住外国人の自由権(プライバシー権)が問題となった事件
「憲法13条は、国民の私生活上の自由が国家権力の行使に対して保護されるべきことを規定していると解されるので、個人の私生活上の自由の一つとして、何人もみだりに指紋の押なつを強制されない自由を有するものというべきであり、国家機関が正当な理由もなく指紋の押なつを強制することは、同条の趣旨に反して許されず、また、右の自由の保障は我が国に在留する外国人にも等しく及ぶと解される。しかしながら、右の自由も、国家権力の行使に対して無制限に保護されるものではなく、公共の福祉のため必要がある場合には相当の制限を受けることは、憲法13条に定められているところである。」(下線部については、京都府学連事件が重要)
⇒①性質説によって、自由権であるプライバシー権は定住外国人をはじめとして「何人もみだりに……強要されない自由を有する」ことを確認→自由権は「国家対抗的な権利」、
⇒②しかし、「基本的人権は絶対不可侵である」という説明は修辞(レトリック)であり、「公共の福祉のために必要な場合には相当な制限を受ける」
↓(必要性の根拠)
「「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もって在留外国人の公正な管理に資する」という目的を達成するため、戸籍制度のない外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、その立法目的には十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できるものである。」
⇒①定住外国人のアイデンティティーを確認するために合理的、かつ必要な制度
たしかに、指紋押捺制度の強制は定住外国人を犯罪者扱いするな、という批判も一理あるが、では戸籍制度によって人物特定(管理)がなされているわれわれ日本人に比べ、なんらの制度的縛りをなくしてしまって良いとは思えない←不法入国者による犯罪への対処
↓←(制度の選択は相当か)
「また、その具体的な制度内容については、立法後累次の改正があり、……原則として最初の一回のみとされ、また、……在留期間一年未満の者の押なつ義務が免除されたほか、……永住者及び特別永住者につき押なつ制度が廃止されるなど社会の状況変化に応じた改正が行われているが、本件当時の制度内容は、押なつ義務が三年に一度で、押なつ対象指紋も一指のみであり、加えて、その強制も罰則による間接強制にとどまるものであって、精神的、肉体的に過度の苦痛を伴うものとまではいえず、方法としても、一般的に許容される限度を超えない相当なものであったと認められる。」
⇒①判決文からも明らかなように、現行外国人登録法はかつての指紋押捺の制度内容を緩和するものであり、ひるがえってこの規定を違憲・無効とするならば旧来の制度内容に戻ることになりかねない。そう考えると、この制度の選択は相当なものと考えられる。
3.塩見事件(判例百選【7】)→定住外国人の社会権「生存権」が問題となった事件
「憲法25条は、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきこと(1項)並びに社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきこと(2項)を国の責務として宣言したものであるが、同条1項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条2項によつて国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきこと、そして、同条にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、同条の規定の趣旨を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするから、同条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するに適しない事柄である。」
⇒①そもそも、生存権そのものが抽象的権利であって国民ですら、その実現のための立法措置について立法府に広い裁量にゆだねられている。そして、この判例で問題なのは原告の塩見さんは結婚を機に日本国籍に帰化したのであり、厳密に言うならば「定住外国人」の社会権の問題に当該判決を入れるべきか、それ自体が問題のように思える。
↓←(定住外国人に対して、裁量が広がるのか)
「社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下で福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許されるべきことと解される。したがつて、法81条1項の障害福祉年金の支給対象者から在留外国人を除外することは、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。」
4.定住外国人地方参政権訴訟(判例百選 【5】 プロセス演習500頁)
規範(Norm)は「白黒」を付けるだけではない。
要請:「~しなさい」
禁止:「~してはいけない」
許容:「①か②かいまだ未確定」→国民主権を採用しているので、その最終的決定は国民の代表からなる唯一の立法機関である国会の立法によって確定される。
国民と住民の関係
A)国民=住民→定住外国人には国政選挙権のみならず、地方参政権の付与も禁止さ れる。
B)国民⊂住民→住民を日本地域のどこかに生活の基盤を有する者と解釈し、国民と 切り離して人権の享有主体性の有無を検討する。
↓
国政レベル→国民主権の原則から、憲法を改正しても許容されない。
地方レベル→公職選挙法の改正によって将来的には、定住外国人にも地方参政権が許容される可能性がある。あくまでも、可能性の問題であるが、その意義は大きい。
「憲法93条2項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。」
なお、石川健治氏は「国籍法違憲判決」を素材にして、定住外国人の人権享有主体性において「性質説」を出発点としていることを批判しています。