5月27日の備忘録。
午後2時40分より、共通11号室で「現代人権論/日本国憲法」の講義をおこなう。
下記掲載は、その講義用のレジュメである。
現代人権論/日本国憲法(担当 中野 雅紀) 2013.0527
第3講 法実証主義と自然法思想
はじめに
違憲立法審査権において法実証主義と自然法思想を語る意義
まず、法実証主義は制定法が全てであるので「憲法」と「法律」の間に序列関係がない。したがって、違憲の「法律」を同等の「憲法」に照らして「違憲である」と宣告することができない。これに対処するためには、「法律」を超えた規範である「自然法」を承認し、その自然法を体現化した「憲法」という上位規範を設定することによって「下位」の「法律」を「上位」の「憲法」に照らして「合憲」か「違憲」かを判断するしかない。戦前の日本においては「法実証主義」が採用されていたので、改正の手続の硬性・軟性を除いては「憲法」と「法律」の上下関係がなく、当然のことながら「違憲立法審査権」は認められていなかった。しかし、法実証主義が採られていたのには理由があるのであり、それなりの歴史的意味があったことは否定できない。過去の歴史的過ちを、現代人であるわれわれが批判するのは「高慢ちきな」態度であり、それは慎まなくてはならない。そこで以下においては、自然法から法実証主義、法実証主義から戦後の再生自然法主義へとの流れを説明することにする。
Ex.法実証主義において、戦前の治安維持法、ナチスの人種法は違憲と言えるのか。
自然法思想と法実証主義の歴史はソクラテス裁判にまで遡ることができる。
そこで議論の中心となったのは、「悪法も法」であるのかという本質的な問いである。
『ソクラテス最後の弁明』や『クリトン』
中世キリスト教社会においては、「神の法」や「自然法」が支配した。しかし、仮に神が実在するとしても、果たして、その「神の声」を知ることが可能であるのか。反対にいえば、この「神の声」によって為政者が恣意的な支配や裁判権を行使することにならないであろうか。
王権神授説⇒神によって国王は地上の支配権を与えられているのであるから、国王の権力行使はすべて正統化される
- 近代市民革命(フランス革命)以降の法実証主義の進展(「神の法」から「紙の法」へ)
近代市民革命は、国王のオールマイティーな権力を奪い、宗教と世俗の分離を目指す。したがって、国家権力と市民の間の法律関係は単純に不可視の「神の法」ではなくて、自分たちの代表者が制定し、それを文章化した可視的な「紙の法」に基づくことになった。また、これは自分たちの代表者によって制定された「法律」の支配によるものだから、「自己拘束性」のあるものであり、さらに「可視性」の観点から「法的安定性」と「予測可能性」を担保し、資本主義の発展を促した。
その最高潮は、ナポレオン法典の制定に象徴される
遅れてきた、近代立憲主義国家である日本とドイツは近代法制確立のために、このフランスの法実証主義に倣うことになる。
Ex.日独における法典論争
グリム兄弟による、童話の収集および、その編纂はこの過程において行われた
第二次世界大戦後に、ナチス・ドイツによる「法実証主義」による残虐行為が明らかにされる。果たして、法律という名前が付いていれば「どんな悪法も法なり」と言えるのかという問題に直面することになる⇒法という名前が付いているだけではなく、その法の内容の妥当性が問われるようになる。
自然法的側面の再復興⇒再生自然法思想
ただし、ここで注意しておかなければならないのは、この再生自然法思想は中世の「自然法思想」の先祖返りではなく、原則としては「法実証主義」を採用しつつ、例外的に「耐えられない程度の著しい不法」が存在する場合にのみ、そこに「自然法的側面(道徳、倫理、宗教等の自然法)」を包含する憲法に照らして、悪法に対して「違憲・無効」であることを宣告することができるという考えであることである。
Ex.ラートブルフ定式:正義に対する矛盾があまりにも耐え難い「不正な法」は効力を有しない
実定法と制定法の区別
自宅マンションに帰宅後、「渡鬼2時間SP」前編を鑑賞する。
相変わらず、橋田女史の聞きかじりの知識で書かれたシナリオが大爆発。