にちゃんねるの学歴板とヒエラルキー
2012年12月21日 12:39昨夜はよく寝つけなかったので、携帯電話のiモードでいろいろ見ていたのだが、にちゃんねるで「新司法試験スレッド」なるものを発見したので、それを読んでみる。そうすると、結構、わたしの母校が他の大学の法学部生から小ばかにされているようなので、更に学歴板も読んでみると内容がだいたい同じなので大人気ないが少し腹が立った。まず、このような他校を馬鹿にする学生は大学を学部ではなく、大学名で選んでいるのであろう。そこをもってしても、非常に考え方が幼稚である。そして、そうであるならばこれらの幼稚な学生はこの不景気のさなか、幸運にも何校も併願して入学試験を受けていると言うことが分かる。そして、不特定学部、大学名だけで私学メインの入試をしてきた学生は、偏差値が高くとも学問的バランスが取れていないので「汝、己を知れ」と言いたい。おそらく、予備校の輪切り偏差値が元凶であると思うが、ある学部と他の学部を比較することが出来るのか(東大の理Ⅲに落ちて、数学のある慶應の経済に行く受験生がいるなど、訳の分からん根拠を挙げているが、そんな奴は医学部に行くという気概が見られないし、またそもそも、そんな程度の学力の奴には医者になってもらいたくない。ましてや、このよう奴は北里柴三郎と東大医学部の確執から慶應の医学部が出来た経緯を知らない)。例えば、わたしの本務大学には法学部は存在しないので司法試験は当然ながら、40年前に1名の合格者が出て以降、わたしのゼミ生であった羽生田君が、都内の法科大学院に進学して司法試験に通るまで本務大学出身の司法試験合格者は出なかったし、その後も法科大学院に進学する学生はちらほらいるが、新制度ではその学生はその法科大学院の卒業生となるのだから、これをもって本務大学を法律学系については底辺大学と決めつけてもよいのであろうか。では、本務大学教育学部教員養成課程は全国的には初等・中等教育の教員採用率は西日本の大学の方が高いので目立たないが、関東以北ではNo.1であるとすると当初の目的を果たしており、それなりの評価を偏差値に反映させるべきだと思われる。しかしながら、予備校やマスコミはそれを評価しない。
本当に客観的な実力を反映しているのは、これは間違いなく東大の志望学部に実力で入った学生なのであろうが、ゆとり君世代以降の東大生は親戚にも何人かいるが、本当にこいつが東大生と言うぐらいにものを知らない。客観的な判断が出来るので早稲田と慶應の比較をすると、むかしは早稲田の方が偏差値が高かったというが、おそらくは高度経済成長の時代以降にはすでに慶應の方が人気があったのではないかと思う(河上和雄『好き嫌いで決めろ』の中で、家が貧しくなかったら東大で勉強三昧よりも、慶應ボーイで大学生活をエンジョイしたかったとの記述もある)。すなわち1925年以前から、「三田の財理、馬場の政治、駿河台の法律、白山の哲学」というように私学にはそれぞれの校風と、得意分野が存在していた。反対に言えば、それに関心の無い学生はそもそも他の大学を受験対象にしない。しかし、共通一次前後からこの棲み分けが壊れ、まったくの人気投票のような偏差値が出現することになった。もっとも、東大と京大は東西の国立総合大学の横綱として比較可能であろう。というか、この2大学に切磋琢磨してもらわなければ、日本の大学教育そのものが地盤沈下する。しかし、これを東工大と一橋大学のどちらが上だとか、横浜国立大学と大阪市立大学のどちらが上だとかなどになると、長谷部恭男氏風に言うならば「比較不可能な価値の迷路」で判断することとなり、この比較はまったくナンセンスである。また、話をややこしくするのは学部と大学院の偏差値が異なることである。おそらくは、1970年代半ば頃は行きたい大学と、専攻したい学問をしに行くという大学の価値観を問われたとき、その当時の人は「やせ我慢の理論」で後者を選択したのであるが、嘆かわしいことに現代子は極めて「功利主義的」かつ「病的清潔症」からクールなイメージの大学に行きたがるのであろう。ま~、わたしは研究者を志したから下手に東大や京大に入ると埋没してしまう可能性もあり、自分の選択は間違っていなかったと思うし、よき師、よき先輩、よき友にめぐまれて満足している。もちろん、高校3年で理系から文系に進路を変更しなければ、当然に違った大学に進んでいたと思う。しかし、これは前にも書き込んだが、親父が針路変更の際に「文学部には行くな」と言ったのは、1960年代では東大と言えども就職に際しては教員になるのは別にして、企業が「犬と文学部卒はお断り」といっていた時代であったからなのだな~、とその当時の時代背景を考えてしまう。しかし、これって完全にアカハラ、セクハラ、パワハラではないか。研究者をしていると、哲学って本当に奥の深いものだと感心するのだが、そのような社会風潮のおかげか、わが国の新聞社やマスコミって成り立っているんだナ~。
と、ここまで学歴について話したが、国法体系においてご存知のように憲法を頂点とするヒエラルヒーなるものが存在することはご存知であるかと思う。そして、このヒエラルヒーが偽ディオニュシオス・アレオパギデスの「天上位階論」と「教会位階論」に基づいていることも、哲学を齧ったことのある訪問者ならば聴いたことはあろう。そもそも、この位階の語源はhierarchiaで天使、および教会内の聖職者の階級を秩序付けるものであり、世俗の秩序とは無関係に語られていたのであるが、これが世俗化された近代国家の社会システムの説明に転用されることとなった。ここまで言っても聴いたことはないという人でも、セラフィムやケルビムといった天使の位階は聴いたことがあると思うのであるのだが、どうであろうか。少なくとも、ベートーベンの第九の合唱「歓喜の歌」の歌詞(Wollust ward dem Wurm gegeben,und der Cherub steht vor Gott!)に出てくるので、聴いたことが無いと答えられると少なくとも教養を疑われます。ま~それでもわからないのであれば、現代っ子は「新世紀ヱヴァンゲリオン」の映画でも観てください。
天使の位階は上位位階、中位位階および下位位階の三位階に分かれ、それぞれ上位天使には熾天使、智天使、座天使、中位天使には主天使、力天使、能天使および下位天使には権天使、大天使、天使に分かれる。ここまで聴くとオカルトの話だと思われるが、ここで重要なのはこの思想が「超越的一者たる神が充溢する善性による被造物に発出して下降する秩序であり、一から多への展開過程である」とすることである。すなわち、ケルゼンのような法段階説を採った場合、法秩序の頂点には唯一の根本規範(Grundnorm)が存在し、それが下位の法規範を基礎付ける。反対に言えば、ある法規範の根拠を問えば、それを根拠付けるより上位の法規範が存在し、それが最後には一つに収斂する。これに対して、そのようなものは存在しないとすると、それに根拠付けられたピラミッド体系をした法秩序という釣鐘は支点を失い地上に落下してまうということになろう。まさに、神という言葉こそ出ないがケルゼンの法段階説はこのヒエラルヒー論に根ざしている。信仰の有無を問わず、この問題は法理論上重要な問題を提起している。実は、この考えはケルゼンのみならず法実証主義を採ろうが、非法実証主義を採ろうが避けては通れない問題である。石川健治氏の「一者から多者」なる言葉の意味はこの理解なくしては語れない(ここまで、21日お昼の書き込み)。
ただし、ケルゼン自身の学説は、早いうちからフリッツ・ヴァン・カルカー等によって「世界観なき法律学は戯画だ!」と批判されていたことは付け加えておかなければならない。しかし、このブログはわたしの日々を綴った備忘録なので、それはまた別の発表の場で論じることにしたい。
午後3時過ぎに、アマゾンで注文しておいたアニメ「ガールズ&パンツァー①」のDVDが届いたので、土曜に教科書の執筆を終わらせて観てみよう。
(追記)
カバラの聖典といわれるZoharのPDFは https://www.kabbalah.info/engkab/the-zohar/download-the-zoharからダウンロードが可能です。