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にちゃんねるの学歴板とヒエラルキー

2012年12月21日 12:39

 昨夜はよく寝つけなかったので、携帯電話のiモードでいろいろ見ていたのだが、にちゃんねるで「新司法試験スレッド」なるものを発見したので、それを読んでみる。そうすると、結構、わたしの母校が他の大学の法学部生から小ばかにされているようなので、更に学歴板も読んでみると内容がだいたい同じなので大人気ないが少し腹が立った。まず、このような他校を馬鹿にする学生は大学を学部ではなく、大学名で選んでいるのであろう。そこをもってしても、非常に考え方が幼稚である。そして、そうであるならばこれらの幼稚な学生はこの不景気のさなか、幸運にも何校も併願して入学試験を受けていると言うことが分かる。そして、不特定学部、大学名だけで私学メインの入試をしてきた学生は、偏差値が高くとも学問的バランスが取れていないので「汝、己を知れ」と言いたい。おそらく、予備校の輪切り偏差値が元凶であると思うが、ある学部と他の学部を比較することが出来るのか(東大の理Ⅲに落ちて、数学のある慶應の経済に行く受験生がいるなど、訳の分からん根拠を挙げているが、そんな奴は医学部に行くという気概が見られないし、またそもそも、そんな程度の学力の奴には医者になってもらいたくない。ましてや、このよう奴は北里柴三郎と東大医学部の確執から慶應の医学部が出来た経緯を知らない)。例えば、わたしの本務大学には法学部は存在しないので司法試験は当然ながら、40年前に1名の合格者が出て以降、わたしのゼミ生であった羽生田君が、都内の法科大学院に進学して司法試験に通るまで本務大学出身の司法試験合格者は出なかったし、その後も法科大学院に進学する学生はちらほらいるが、新制度ではその学生はその法科大学院の卒業生となるのだから、これをもって本務大学を法律学系については底辺大学と決めつけてもよいのであろうか。では、本務大学教育学部教員養成課程は全国的には初等・中等教育の教員採用率は西日本の大学の方が高いので目立たないが、関東以北ではNo.1であるとすると当初の目的を果たしており、それなりの評価を偏差値に反映させるべきだと思われる。しかしながら、予備校やマスコミはそれを評価しない。

 本当に客観的な実力を反映しているのは、これは間違いなく東大の志望学部に実力で入った学生なのであろうが、ゆとり君世代以降の東大生は親戚にも何人かいるが、本当にこいつが東大生と言うぐらいにものを知らない。客観的な判断が出来るので早稲田と慶應の比較をすると、むかしは早稲田の方が偏差値が高かったというが、おそらくは高度経済成長の時代以降にはすでに慶應の方が人気があったのではないかと思う(河上和雄『好き嫌いで決めろ』の中で、家が貧しくなかったら東大で勉強三昧よりも、慶應ボーイで大学生活をエンジョイしたかったとの記述もある)。すなわち1925年以前から、「三田の財理、馬場の政治、駿河台の法律、白山の哲学」というように私学にはそれぞれの校風と、得意分野が存在していた。反対に言えば、それに関心の無い学生はそもそも他の大学を受験対象にしない。しかし、共通一次前後からこの棲み分けが壊れ、まったくの人気投票のような偏差値が出現することになった。もっとも、東大と京大は東西の国立総合大学の横綱として比較可能であろう。というか、この2大学に切磋琢磨してもらわなければ、日本の大学教育そのものが地盤沈下する。しかし、これを東工大と一橋大学のどちらが上だとか、横浜国立大学と大阪市立大学のどちらが上だとかなどになると、長谷部恭男氏風に言うならば「比較不可能な価値の迷路」で判断することとなり、この比較はまったくナンセンスである。また、話をややこしくするのは学部と大学院の偏差値が異なることである。おそらくは、1970年代半ば頃は行きたい大学と、専攻したい学問をしに行くという大学の価値観を問われたとき、その当時の人は「やせ我慢の理論」で後者を選択したのであるが、嘆かわしいことに現代子は極めて「功利主義的」かつ「病的清潔症」からクールなイメージの大学に行きたがるのであろう。ま~、わたしは研究者を志したから下手に東大や京大に入ると埋没してしまう可能性もあり、自分の選択は間違っていなかったと思うし、よき師、よき先輩、よき友にめぐまれて満足している。もちろん、高校3年で理系から文系に進路を変更しなければ、当然に違った大学に進んでいたと思う。しかし、これは前にも書き込んだが、親父が針路変更の際に「文学部には行くな」と言ったのは、1960年代では東大と言えども就職に際しては教員になるのは別にして、企業が「犬と文学部卒はお断り」といっていた時代であったからなのだな~、とその当時の時代背景を考えてしまう。しかし、これって完全にアカハラ、セクハラ、パワハラではないか。研究者をしていると、哲学って本当に奥の深いものだと感心するのだが、そのような社会風潮のおかげか、わが国の新聞社やマスコミって成り立っているんだナ~。

 と、ここまで学歴について話したが、国法体系においてご存知のように憲法を頂点とするヒエラルヒーなるものが存在することはご存知であるかと思う。そして、このヒエラルヒーが偽ディオニュシオス・アレオパギデスの「天上位階論」と「教会位階論」に基づいていることも、哲学を齧ったことのある訪問者ならば聴いたことはあろう。そもそも、この位階の語源はhierarchiaで天使、および教会内の聖職者の階級を秩序付けるものであり、世俗の秩序とは無関係に語られていたのであるが、これが世俗化された近代国家の社会システムの説明に転用されることとなった。ここまで言っても聴いたことはないという人でも、セラフィムやケルビムといった天使の位階は聴いたことがあると思うのであるのだが、どうであろうか。少なくとも、ベートーベンの第九の合唱「歓喜の歌」の歌詞(Wollust ward dem Wurm gegeben,und der Cherub steht vor Gott!)に出てくるので、聴いたことが無いと答えられると少なくとも教養を疑われます。ま~それでもわからないのであれば、現代っ子は「新世紀ヱヴァンゲリオン」の映画でも観てください。

  天使の位階は上位位階、中位位階および下位位階の三位階に分かれ、それぞれ上位天使には熾天使、智天使、座天使、中位天使には主天使、力天使、能天使および下位天使には権天使、大天使、天使に分かれる。ここまで聴くとオカルトの話だと思われるが、ここで重要なのはこの思想が「超越的一者たる神が充溢する善性による被造物に発出して下降する秩序であり、一から多への展開過程である」とすることである。すなわち、ケルゼンのような法段階説を採った場合、法秩序の頂点には唯一の根本規範(Grundnorm)が存在し、それが下位の法規範を基礎付ける。反対に言えば、ある法規範の根拠を問えば、それを根拠付けるより上位の法規範が存在し、それが最後には一つに収斂する。これに対して、そのようなものは存在しないとすると、それに根拠付けられたピラミッド体系をした法秩序という釣鐘は支点を失い地上に落下してまうということになろう。まさに、神という言葉こそ出ないがケルゼンの法段階説はこのヒエラルヒー論に根ざしている。信仰の有無を問わず、この問題は法理論上重要な問題を提起している。実は、この考えはケルゼンのみならず法実証主義を採ろうが、非法実証主義を採ろうが避けては通れない問題である。石川健治氏の「一者から多者」なる言葉の意味はこの理解なくしては語れない(ここまで、21日お昼の書き込み)。

 

  ただし、ケルゼン自身の学説は、早いうちからフリッツ・ヴァン・カルカー等によって「世界観なき法律学は戯画だ!」と批判されていたことは付け加えておかなければならない。しかし、このブログはわたしの日々を綴った備忘録なので、それはまた別の発表の場で論じることにしたい。

 午後3時過ぎに、アマゾンで注文しておいたアニメ「ガールズ&パンツァー①」のDVDが届いたので、土曜に教科書の執筆を終わらせて観てみよう。

(追記)

 カバラの聖典といわれるZoharのPDFは https://www.kabbalah.info/engkab/the-zohar/download-the-zoharからダウンロードが可能です。

 

 

 

 

木曜、年内最後の授業

2012年12月20日 15:38

 とりあえず、2012年12月20日の備忘録を当日に付けている。とにかく、風邪がよくならない。来週は、共済病院に定期健診に行かなければならないのに大丈夫かと思う。

 午前8時半前後に起床して、朝食を飲まずに11錠の薬を飲んでおく。というのも、胃腸には優しくないが薬で病気を抑えている状態なのでとにかく処方された薬は飲んでおかなければならないからである。ニュースによれば、この朝は今年一番の寒さであったそうである。薬を飲んだあと、携帯電話のiモードで毎朝確認している記事を見てみようとするが繋がらない。よく考えてみると先週、携帯電話の料金の振込みをしていなかったから、20日に利用停止になるとのメールが入っていたことを思い出した。まずいので午前10時半に、タクシーを拾って市内のドコモ・ショップに支払いにいった。これで帰れればよいのであるが、今日は第5時限目に今年最後の授業が入っているので近くの刀削麺の店で、午前11時半ごろに昼飯(刀削麺)を食べて、大学方面行きのバスを待つこと20分、これでまた身体が完全に冷え切ってしまった。とにかく、バスに乗り込んで大学に向かい、生協の散髪屋に行って髭の手入れと洗髪をしてもらったら午後1時になっていた(ここまでが、昨日の書き込み)。IT基盤センター1階のPCルームでこの記事を書き込み時間を潰した後、教員控え室に向かってメールボックスを確認した。学会の会誌と、大学の試験関係の書類と大学院便覧の校正のお願いが入っていたが、またこれで書き仕事が増えてしまった。

 午後4時半から、ゼミ形式の授業。発表者は永山さんで、憲法改正手続き。テキストの長谷部『憲法とは何か』は読んでくれているのだが、彼女の指摘するようにこの新書発刊後に「憲法改正国民投票法」が制定されたので説明に苦労していた。ところでいまの学生は馬鹿正直(愚直)なのか、分からないところはわからないといって、その部分の解説を飛ばしてしまう―誤魔化してしまう(反対に、入学祝に電子辞書を買ってもらっている学生が多いので、漢字や英語の綴りを聴けばすぐに調べてくれる)。永山さんを例にすれば、「コンドルセの理論わかりません、これはとばします」とか、「○○頁の図は理解できなかったので、省略します」とか悪びれずに言ってしまうので発表時間の間が持たない。授業前に、「午後5時までは永山さんがこの授業の女王様、午後5時以降は他の学生が女王様の発表に満足いかなければ質問攻めという革命をおこせ」と言っていたのだが、質問者も限定されているのでなかなか時間の配分が難しい。ま~、学生諸君は憎めないやつが多いので、この形式の授業の仕方については改善の余地があろう。最後に、この授業の参加者には来年の「試験終了後にお疲れ会を開催して食べに連れててっやる」と言っていたから、連絡網を作っておいた方が便利なので年内最後の授業である今日、参加者の携帯電話のメルアドを一覧表に書かせる。ま~、携帯から年賀状も出しすことにしよう。帰りは、タクシーを呼んで午後7時前に帰宅。ただし、道がかなり込んでいたのでワンメーター分料金が高かった。ところで、通信教育で提出していたレポートが2通添削されて郵送されていたが「西洋哲学史Ⅱ」がAで、「ドイツ語」がBであった。ほとんど、時間の採れないままでレポートを作成したのでこの成績は満足であるが、やはりドイツ語はDuを主語とした文章作文がまずかったみたいである。これについては、ドイツ語は読んでもほとんど論文なのでDuは使用されていないし、研究会で招聘した先生とはさすがにSieでしか会話できないと言い訳しておこう。ここらあたりは、外地留学経験者で、留学時代に学生や助手であった先生を個人的にはDuで呼び合っているのか、またそれで済まされるのか留学経験の無いわたしには分からない。

 ところで、寝る前に林知更氏のHP公開上の日記を読んでいたら、「オーリウ『公法原理』の復刻版に対するオリヴィエ・ボーの序文を読んでいたら、今日のように公法が枯渇して干からびた時代にあって、オーリウを読むことは若返りの秘薬である、みたいなことが書かれていて、思わず笑ってしまった。私も是非若返らせてほしいと割と切実に願うが、ただ、本当に効果があるかを判断するには、まず長年のオーリウ研究者が若々しい様子をしているかをよく観察してみなければなるまい。それにしても、フランス公法史の鉱脈の豊かさよ。よく探したら若返りの薬だけでなく惚れ薬なんかも見つかるかもしれない」とのこと。わたしが今から10年前にゼミ生の五十嵐君とオーリウ『公法原理』を最初に読んだときは、地中海文明の発達の歴史から解説がはじまり、なんと大仰な本なんだと驚いたものである。末席に加えてさせてもらっている月1度開催のDAS研で、いままでフーバーやクリューガーの国法学の教科書の読書会に参加しているが、1960年代まではこのような形式面のみならず、その形式という器を盛る内容が広範囲に亘る教科書がメインだったのかと感心する。ある先輩がドイツ留学から戻ってきたときに、「ドイツの法学部で司法試験予備校のようなテキストが使用されていた」と言って、見せてくれたのがいま流行の三段階審査の口火となったピューロート・シュリンクのStaatsrechtであった。近頃、思い出ばなしが多くなってきたので、バイタルが低下している証拠なのか?

作詞 大森祥子 作曲 前澤寛之
 

思い出なんていらないよ

だって 今 強く、深く愛しているから

思い出浸る 大人のような甘美な贅沢

まだちょっと…遠慮したいの♪

(追記)

 上記で林氏のオーリウの話が出たので、研究者としてオーリウに関する思い出について追記しておく。実際のところ、現在を生きている以上、現在の英米独仏の学者で学会出張でお話ししたことがあったり、講演に来てもらった国法学者しか顔を知らないのが現実である。確かに、ゲルバー、ラーバント、イェリネック、カール・シュミット、スメントおよびケルゼンの顔ぐらいは知っているが、デュギーやオーリウの顔などは見たことがなかった。また、ウィーンに行ったとき、カール・レンナーの銅像を見たが芸術作品のような像なのでまったくどのような顔なのかわからなかった。

 ウィーンでこのカール・レンナー像に遭遇したが、これでは本当はどのような顔なのか分からない。 

 そこで、モーリス・オーリウがどのような顔をしていたのかネットで調べてみると以下のような肖像画が多くヒットする。

 現在、わたしは口髭をはやしており、髪も白髪が多くなってきており、眉毛が濃くて鼻が高いので風貌に親近感が沸いてきた。

 次に、林氏の書いている『公法原理』とは以下のDroi Publicのことであろうと思うのであるが、これについても思い出があるのでちょっと追記しておきたい。今から10年前に、わたしのゼミで殊勝にもデゥギーとオーリウで抵抗権について卒論を書きたいという学生(上記、五十嵐君)がおり、本務大学の蔵書にはフランスの国法学の文献が無いので、比較的場所の近い筑波大学にデュギー、オーリウ、エスマン、ヴァルテルミー、カレ・ド・マルベール等の原著があることが分かったので、その学生の自動車でそれらの文献をコピーしに通ったのである。ところで、フランスの本は原則的にペーパー・ナイフでくっついた頁の上部をカットしていって読むのであるが、筑波大学の中央書庫に所蔵のこれらの文献は東京教育大学時代に購入されたようなのであるが、頁がペーパー・ナイフでカットされた形跡が無い。ということは、折角の蔵書を50年も死蔵させていたということになる。図書館司書の方に頁がくっついているのですが、ペーパー・ナイフを貸していただけませんかと聴いたところ、「どうぞ、これをお使いください」と言われたので遠慮なくそれを使わせてもらった。現在、筑波大学の上記著者の本を読めるようにカットしたのはわたしと、わたしのゼミの学生であるということになる。学生の中に不器用な奴がいたので、少しカットの仕方が悪いのがあるが、それはわたしではありません。少し思い出に浸ってしまった(澪ちゃん、ごめん)。

 

 

 

米長永世棋聖

2012年12月20日 10:00

 12月19日、相変わらず体調が思わしくない。原稿の執筆も遅々として進まない。

 新聞を読んでいると、大学の先輩である米長邦雄永世棋聖の死去が報じられていた。わたし自身は、木村草太氏と異なって将棋はぜんぜん得意ではない。いや、持ち駒制がなければチェスはやっていたことがあるのでそれなりに戦えるが、相手の持ち駒の使い方まで―健さんなみに不器用ですから―計算に入れると、作戦が練れずに勝てる試合も落としてしまう。ということを前提に、今日のブログの話をすることにする。

 わたしは大学時代、友達の水野氏が人物研究会なるサークルに入っていたので、毎月、ゲストを大学に招く際に候補者の選定を頼まれていた。ちょうど、米長氏が四冠王になった年だったかと思うが、米長氏は母校の先輩なので講演に来てもらってはどうかと彼にアドヴァイスした。そこでの話で覚えているのは、実は上述の持ち駒制であった。戦争後、GHQはいろいろな統制をしたが、日本将棋連盟に持ち駒制のある日本の将棋は日本軍の捕虜虐待と同じで、捕虜を兵隊として最前線に出して戦わせているから禁止せよというものであった。氏は佐瀬氏の弟子であったが、升田幸三氏に可愛がられていたから、そのとき、マッカーサーに掛け合った升田氏の説得術を話してくれた。升田氏は持ち駒制は捕虜虐待ではない、否、降伏した一兵卒であっても士官になる成駒制があるのであるから、これは西洋の騎士道にも通じるものであると主張し、マッカーサーもその勢いに飲まれて将棋を禁止しなかった、とのことである。したがって、米長氏によれば、升田氏こそ日本の将棋界の命の恩人だそうである。その次に、わたしが水野氏にアドヴァイスして講演に来てもらったのは『ミカドの肖像』で大宅壮一賞をもらったばかりの猪瀬直樹氏であった。その猪瀬氏が、先週、ついに東京都知事になるとは、その当時、思いもしなかった。これらの講演で主催者側のメリットとしては、事前交渉で自宅や事務所に伺いお話をしたり、その後、興が乗れば飲み会になって砕けた話ができることであった。

 あれから、四半世紀かと思うと時のの過ぎゆくはやさを感じざるをえない。米長先輩のご冥福をお祈りします。

 (追記)面白いもので、田舎の人は一定年齢上のお年よりは将棋も囲碁も普通に楽しんでおり、そして格段に強い。そして、これは瀬戸内に限られるのかもしれないが、将棋よりも囲碁をする人が多い。うちの親父もご多分に漏れず脳梗塞に倒れるまではゴルフに凝っていたが、右半身が不自由になってからインターネット碁にはまっている。ちなみに、マンガでいえば能條純一の『月下の棋士』からほったゆみ・小畑健の『ヒカルの碁』辺りから将棋→囲碁といったような風潮があるような気がする。お魚くんのお父さんも木谷門下の宮澤九段の息子さんだし、冲方丁『天地明察』も囲碁界の話と深く関わるから、この調子でしばらく囲碁ブームは続くのかもしれない(冲方丁氏には、第一部で中断している『ピルグリム・イェーガー』の第二部の原作を再開してもらいたい)。

 ちなみに、 『ピルグリム・イェーガー』については《ピルグリ覚え書き》を参照してください。

 https://www.aurora.dti.ne.jp/~eggs/pilgri.htm

 最後に、わたしの母校寝屋川高校は大阪では数少ない府立の全国高校野球大会の春夏出場校であり、1974年には全国囲碁選手権大会で団体、個人で優勝している。これに騙されて、寝屋川高校に進学した同級生も少なからずいた。

遅々として執筆進まず

2012年12月20日 02:34

 12月20日の深夜に、このブログを書いていますが、記載内容は12月18日の備忘録である。

 相変わらず、お腹の調子は改善したが―それはそれで、わたしは安倍信三氏と同じ病気なので冗談抜きで改善しなければ大変なのだが―、熱ぽっくて1日中寝てしまう。そうこうしているうちに、冬休みも近づき、教科書執筆担当箇所の原稿締切期限も先延ばしできない状況に来ている。実質、ここ10日間は本務大学の職務とこのブログの書き込みぐらいがわたしの活動で、後は自宅のベッドで布団蒸しで汗をかいて風邪を治そうとしているだけである。正確には、ときたまネットで調べ物をしたり、WEB-TVでニュースを観たりしているだけで、まともに本なんか読んでいない状態が続いている。しかも、そろそろ年賀状を書きはじめなければならないので大変である。昔は、何年かに1度、学会名簿が頒布されたのであるが、このごろはプライバシーの関係か勤務先住所は書かれていても、自宅住所は書かれていない。しかも、法科大学院が出来たために、かなりの先生方の所属が変わっり、それを確認する手間がかかる。このごろの若い人はあまり年賀状など気にしていないようであるが、わたしの世代はいくら「虚礼廃止だ」と言っても、結局は年賀状を書き終わらなければ大晦日を迎えられない。確かに大学院に入りたてのころ、田上先生や芦部先生にお年賀状を出したら、お礼状が来たので感激したことは確かである。それも添え書き付で。こんな地方大学の研究者に過ぎなくとも、わたしの出身大学とは関係の無い、若い院生からも論文を送ってもらったり、年賀状を送ってもらったりするので、そのお礼も兼ねて年賀状を書くことにしている。1番虚礼廃止が徹底しているのは、実は本務大学なのかも知れない。というのも、正月明けすぐに大学がはじまるから、口頭の挨拶で済まされてしまうからである。も~、同僚には印刷年賀しか出さないぞ。もちろん、退職された先生でご恩のあった方にはご自宅に手書きの年賀状を書きますが。ということで、話題もないので今夜の書き込みはこれで終わり。

博士の異常な愛情

2012年12月18日 18:07

 週が変わっても相変わらず風邪は治らず、前日の午前5時前まで起きていたが、一応、午前9時半には起床し朝食をとり薬を飲む。朝刊紙を読んで、国会議員の経歴を見て、大学の法学部法律学科の出身が相変わらず少ないことを確認してから、お昼まで二度寝する。ところで自分が法学部法律学科出身であるからではないが、国会議員のせめて過半数は大学の法学部・法律学科出身者で構成されるべきだと考えている。というのは、脱官僚、脱霞ヶ関を国会議員が叫んでも、国会議員は立法府たる国会の構成員(Mitglied)であり、その本職は立法である。とすると、国会議員はある意味で東大法学部出身が大半を占める官僚に法律論で負けないだけの法律の知識をもたなければ、いくら脱官僚、脱霞ヶ関を唱えても結局、立法立案のエキスパートである官僚の繰り人形になるのは必然ではないだろうか。訪問者の諸氏もご存知のように、アメリカの大統領はその前身はほとんどが法律家である。もちろん、法学部法律学科の出身者に国会議員を限定せよといっているのではない。しかし、日本の国会議員の選出母体は近代立憲主義国家とあまりにも構成が異なりすぎている。わたしの学生時代に政策秘書制度が発足したが、まともに国会議員が使用していない。仄聞するところによれば、こともあろうに政策秘書手当てをちょろまかしたり、選挙活動に使役したりしている国会議員も多いと聴く。

 ところで、12月17日の午後2時半から日本国憲法の授業で平和主義の話になったので、ゲーム理論、特に囚人のジレンマとチキンゲームの説明を学生に理解してもらうために、スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」を学生諸君と一緒にみながら解説した。ここで危惧しなくてはならないのは、人のよい大統領や議会を馬鹿にして軍エリートやドクター・ストレンジラブを中心とするランド・コーポレイションがタカ派議員を先導して、国防政策法案を自分たちに都合のよいように議会を通過させているといういうことである。大統領が将軍に「そんな話はわたしは聴いていない」と言うと、将軍たちは「その法案はタカ派議員の提案で議会を先日通過しました」と言い返されてしまう次第である。

  したがって、議会が行政に対抗するためには、それに負けないしたたかさが必要となってくる。もっとも、そう言うと国会議員もしたたかだという反論も返ってくるであろうが、それは政治的したたかさであって、国内・国外的な政策的したたかさではない。その政策が正しかったと言えるのかどうかは問題であるが、ある政策を実行するために暗殺されそうになっても「男子の本懐」という言葉をはけるだけの信念をもっている、国会議員が現在どれだけいるのか。そこらあたりが、「美しい日本」という言葉だけで、内実がないのであればまったく意味はない。しかし、民主党政権は日本の憲政史に泥を塗りたくって終わったね。

衆議院選挙

2012年12月18日 10:56

 衆議院選挙の当日になったのであるが、兎に角寝たのが午前5時ぐらいだったので起きたのは午前10時過ぎであった。わたしは政治的には保守主義なので、投票に行っても政党名は記載するが、候補者は素人目に見ても選挙民を馬鹿にした候補を立てるので白票を投じることにしている。ただし、選挙権の行使は国民の権利の行使の一環であるから、棄権だけはしたことがなかった。ちなみに、選挙権は自然権であり、義務ではないから棄権したとしても、それはそれで問題は無いのであるが、権利放棄は癪に障るので、20歳以来、国政選挙、地方自治体の選挙は皆勤賞であった。ちなみに、日本投票率の低さが主張されるが、このような閉塞状況ではあっても、それなりの経済的繁栄をみている日本においては60%の投票率があれば、そんなに政治学者が言うほど危惧は抱かない。おそらく、超過激な左派政党や右派政党が台頭してくれば、日本人は馬鹿ではないから15%以上の棄権者層も、それらの政党の進出の拒否を阻止してくれると考えている。さいわいにして、われわれ法律学者や政治学者と異なり、一般の学生はカール・シュミットを知らない。安倍氏の改憲論も、いざとなれば国民の承認を得られないであろう。余談ではあるが、わたしの先祖と自民党の村上誠一郎の先祖は兄弟で、村上誠一郎の義理の弟が民主党の岡田克也氏なので、まったくの他人と言ってよいが一応は一族連枝である。彼のひい祖父さん(村上紋四郎)は政治家を選び、わたしのひい祖父さんは学者を選んだということになる。ちなみに、村上誠一郎の叔父の村上孝太郎は早世したが、戦後、大蔵大臣で1番の実力者で、それを知らずに斉藤次郎氏が戦後最高の大蔵官僚のNo.1であるとマスコミや政治評論家がもてはやしていたが噴飯モノである。

 ところで、このように書くとわたしが投票所に投票をしに行ったかというと、実は体調が芳しくなく、投票会場がタクシーでないと行けないところが会場だったので、これ以上、風邪を悪化させないためにはじめて投票を棄権した。言い訳になるが、わたしが投票しても次の政権与党に一票加わるだけだし、仮に民主党や維新の会に投票したとしても死票になっただけである。そもそも、日本は独裁国家ではないのでナチス・ドイツ、スターリン・ソ連や現在の北朝鮮のように国民投票率が99%などという国の方がどうにかしている(公認候補に投票しなければ、国家反逆罪。戦時下の大政翼賛会選挙でもそこまで滅茶苦茶なことはしていない)。ま~、これはハッキリ言って弁解です。

 午後8時過ぎから、パソコンのwebテレビで選挙開票のニュースを見ていた。結果は予想通りに自民の圧勝、民主の凋落。ただし、選挙インタビューでの石原慎太郎の横暴な態度には滑稽ささえ感じて、―特に、嘉門達夫の「ハンバーガー・ショップ」とオーバー・ラップして―結構、笑えたのであるが、こんな独裁者の下に、いくら維新の会人気に便乗したいからって脱党して、当選しても気概のある人間ならば二日と保たないのではないのか。

 わたし自身は、政治家なんてお馬鹿さんがやる職業であると思っており、彼等の権力の統制を研究対象にしているので、次期政権は国民に迷惑をかけない程度に醜態をさらしつつ、せいぜいわれわれのメシのネタになってくださいな。

風邪が回復しない

2012年12月18日 10:13

 これから、2012年12月15日の日記を4日遅れでブログに書き込みますが、これってもはや日記とは言わないのではないかと思うところである。したがって、日記にかこつけたエッセーとでも名付けた方が、訪問者には分かりやすいだろうし、わたし自身は一種の備忘録としてこのブログを利用させてもらうつもりである。

 とにかく、持病の病気の薬を毎日15錠飲んでいる上に、前日に母親が送ってくれた宅配便に入れてくれたコンタックを飲むのであるから1日20錠以上の薬を飲んでいるということになる。前者は安倍さんも飲んでいるやつであるから良いとして、後者の風邪薬には大抵の場合、睡眠効果が伴う成分が含まれているので、これは良く眠れること、よく眠れること午後5時までぐっすりと寝てしまった。ひとつの原稿の締め切りは、この15日までなので後、7時間で原稿を書き上げてしまわなくてはならない。そこで、お腹になにかを入れると眠たくなるので、兎に角、午前零時まで休憩を入れないで原稿を書き続ける。しかし、実際に書き上げたのは午前4時過ぎで、畑尻先生のご自宅に添付ファイルをメール送信したのは午前4時半ぐらいてあった。

 ま~、内容的には非常にこれまでの法律学、社会学、宗教学、フランス革命史や古代ギリシャ哲学から近代哲学に至るまでの内容が凝縮されているのであるが、これもまた、指定頁数を大幅にオーバーしてしまった。ここから先は、編集代表者の判断を待つしかなかろう。

 というわけで、メール送信して倒れるように就寝した。

緊急援助物資到着

2012年12月15日 10:44

 とにかく、風邪の状態が良くならず、下手にパブロンを飲んだからかお腹の調子まで悪くなってしまった。この日記の内容は12月14日の内容であるが、書き込みは本日の午前11時前なので原稿の締め切りの最終日になってしまった。すなわち、これから12時間の間に原稿を1本書き上げてしまわなくてはならないということである。したがって、この日記ブログを書き上げ次第、ただちに原稿作成を行うことになる。

 昨日、12月14日は母親から緊急援助物資が宅配便で届けられる。メインはコンタックと、お菓子類の詰め合わせであった。しかし、これは病気のときに一番役立つ贈り物である。しかし、相変わらず病気は好転せず、お腹の調子は最悪であった。一番困るのは、トイレに再三再四行くので現行の執筆が進まないということである。それでも、食欲は少し戻ってきたみたいで、昨夜は久しぶりにビーフシチューを食べることが出来た。ここにきて、間断の差が激しいのが困りモノである。折角、ご馳走を食べてもすぐにトイレでは興ざめしてしまう。実は、15年前の12月13日から14日にかけて深夜、わたしの親父が脳梗塞で倒れたので、わたしは皮肉を込めて脳梗塞記念日とこの日を呼んでいる。わたしが本務大学に赴任してわずか、2ヵ月あまりで大病になったために、親不孝ではなく、最大の子不孝であると考えているのであるが、みなさんはどう思われるであろうか。新任教師であったために、父と母は大学との関係を気にして倒れたことを1週間伏せていたが、それは気を使いすぎたのでないかと今では思っている。さいわいにして、親父は右半身は不自由になったが(ただし、わたしの父親だと思うから運動が下手だと思うかもしれないが、親父はインターハイやインターカレッジ代表に選ばれたスポーツマンであった)、それまで寡黙であったが体が不自由になったためか帰省すると結構、話をするようになり、それまでチェーンスモーカーであったのだがスパッと禁煙した。現在は、某学校法人の役員を務めており、毎年東京の総会に出てくるので都合が合えば東京で会っている。20代半ばまでの親父は都市計画の新進気鋭の研究者として宮内省、通産省および文部省に技官として出向しており、その業績は知る人ぞ知るというもので、20代はまだオーバー・ドクターであったわたしとは比べようの無い将来を嘱望された研究者であったと思う(所属は、東京工業大学研究所研究員)。とくに、親父はいわゆる帝国大学出身ではなく、私大出身の研究者であったが、その関連分野では中央省庁の技術官僚から一目置かれていた。このような関係から、わたしがなぜ東京で生まれたのかは理解できると思う。そもそも、叔父や伯父も東京大学生産科学研究所研究員や広島大学教員等、ほとんど大学の理系教員であったから、数学や物理が得意だったわたしも当然、理科系に進学するものだと思っていたようである。しかし、高校時代にのちに数学者になるN君と友達になったとき、「中野の数学能力は受験レベルまでで、研究者として大成できない」と言われたことも契機となり、高3で文型に志望を変更した。親父は小学校の段階で大学1年生レベルの数学を教えてくれていたから反対したが、しぶしぶ承知して出した条件は経済学部にはマル経の学者がいるから駄目、文学部は女子が行く学部だから駄目ということになり、結局、法学部だけということになってしまった(訪問者の中には女性の方もいると思いますが、文学部云々の発言は現在では明らかに性差別につながるので、75過ぎの老人の戯言であると思ってください。なぜならば、わたしの祖父は漢学者だったので、それでは親父は祖父の研究を否定するのかということになってしまう)。ただし、わたしが京都大学法学部受験に失敗したとき、「おめでとう、その程度の受験勉強で京大に通ってしまったら、お前は本当に鼻持ちなら無い男になってただろうから、これでよかったんだ」と言われたことで少し肩の荷が下りた気がした(理系としてはそこそこ英語は出来たが、文系としてはあまり英語の偏差値は模試等でかんばしくなかったから、当然といえば当然の結果)。ま~、あれから30年たって先日書いたようなセンター入試の監督官を勤めるとは、これも面白いめぐり合わせだと思う。

 ちなみに、父方も母方も教員一族の出身、父方の祖母は大洲藩の勘定奉行で坂本竜馬にいろは丸の購入代金を提供した人物の孫娘であった(ただし、一般に知られているのはいろは丸事件で紀州藩との関係を慮って切腹した主席勘定奉行国島六左衛門の名前が有名)。このことからも分かるように、わが家は晩婚が多いために明治維新後、三代しか経っていないのである。

 それと、母校府立寝屋川高校の教員のみなさん、学区の再編成で二番手校から三番手校になったのは分かりますが、漏れ聞くところでは英語教育の質が芳しくないとのこと。わたしたちの時、英語教員の優秀な人材が近畿予備校の講師に引き抜かれて以来、四条畷高校との進学格差が益々ついたと言われています。それでも、京大でも現役・浪人を合わせると10名以上は通っていたし、東大は四条畷よりも東京志向が強い学生が多かったので3人程度は進学していたはず。さらに早稲田や慶應にも10人レベルの合格者を出していたのに。したがって、OBの質から言えば寝屋川高校は四条畷高校にけっして引けをとっていない。OBかつ大学教員の立場から一言言わせてもらえば、大学入試は理系であろうと文系であろうと、英語が死命を決します。カナダの留学制度もよろしいが、英会話と入試英語は異なるのだからそこのところをきちんとわきまえてご指導願いたいと思います。

京都駅から近鉄線で丹波橋に出て、京阪電車で乗り継ぎ

2012年12月14日 18:19

 病硬膏に入るというと、わたしが死んでしまうので、そこまでは言い過ぎであるが風邪がひどくて寝てるのか、起きているのかまったく分からない状況になってしまった(夢の中では何故か原稿を執筆している)。とりあえず、お昼休みのオフィス・アワーの時間はお休みにして、午後4時20分からの授業までに体調を直しておく必要があったので、ついにパブロンを飲んでみる。一応、2年前の大病から健康には気を付けて、大病以外の病気は風邪一つ引かなかったのであるが、2年半経つと油断してしまってこの体たらくである。昨日、池谷氏と会ったとき、学生との京都旅行はどうでしたかと聴いてみたところ、「とにかく、京都は寒かった」との回答だったので、学生が予習をしていなかった場合には、京都旅行の話を聴いてゼミ形式の授業を早目に切り上げようかと考えていたが、1時間睡眠が1時間半睡眠となってしまい、大急ぎでタクシーを拾い本務大学へ。

 最初に、京都の話をすると、大阪に出たという話なので、わたしは帰省するとき、新幹線で京都駅まで行って、京都駅から近鉄線で丹波橋まで出て、丹波橋で京阪電車に乗り換えて自宅最寄の萱島駅に向かうのだという話をすると、報告者の沼田さんが「わたしたちは、その乗換えで天満橋まで行きました」と答えたので、まずは大阪から京都に向かう方法を取ったのかと思った。この経路の話で思い出すのが、金沢大学の足立英彦氏も実家に帰るとき、同じコースで伏見に向かうと言っていたことである。

 話を本流に戻すと、この授業は参加学生が9名しかいないので長谷部恭男『憲法とは何か』の章を立てに応じて学生にレジュメを作らせ、ゼミ方式で発表および質疑を行っている。沼田さんの担当は憲法改正の話の部分であったが、要を得たよい発表であったと思う。憲法と憲法典の違いもきちんと理解しているようであったし、発表の最初の掴みの部分が良く出来ていた。残念なのは、質問者が宮本さんと小川君に限られていること。結局、わたしが説明を追加しても90分間もたない。それと、やはり北朝鮮のミサイルの打ち上げは脅威に学生たちに思われるようで、自衛隊は必要というのが学生たちの共通認識であった。帰りタクシーを正門前配車してもらったが、その間、共産党の選挙カーが自衛隊反対を訴えていたが、なにか空しく聞こえるだけであった。

センター入試英語ヒアリングテスト説明会

2012年12月14日 17:06

 本来、本務大学は国立大学だったから、これは避けて通れないものであるが、本年度もセンター試験英語ヒアリングテスト説明会が12月12日に開催された。前日たっぷり睡眠を取ったので、久々に元気になったような気がしたが、午後3時半から午後6時15分までの説明会はD201という大教室で行われたため、だんだんと寒くなってきて、結局、また風邪をこじらすことになった。もちろん、司会の瀧澤氏の説明は要を得て、本来的な説明よりも20分間は短縮しているので、それについて文句を付ける気はまったく無い。しかし、このヒアリングテスト、毎年、どこかの大学で問題が起こるのだから、受験生にTOEFLかTOIECを事前に受験して、それに代えてもらえることは出来ないのであろうか。もちろん、わたしの時代にも府立高校入試にヒアリング試験はあったが、ほとんどその後、役に立っているとは思えない。われわれの世代はセンター試験ではなく共通一次試験世代であったが、この共通一次試験の伝説として語り継がれているのが東京大学法学部の和仁陽氏の1000点満点中981点と言うものである。わたしは、英語、数学、国語、世界史、日本史、物理、生物を選択したが、共通一次試験の成績があまりよくなく、第一志望であった京都大学は一次の配点が高いために受験に失敗した(若い人に付言すると、今みたいに前後期試験など無かったから、当然のことながら敗者復活はない)。しかし、いま考えてみると、こんな答案を作成したら馬鹿にされるのではないか、とか余計なことに気を取られ過ぎて失敗したようなものである。採点者は受験者の顔などを見ていないし、だめならクールな答案であろうが、無駄な足掻きの答案であろうが同じ点数しか与えない。これを理解することになったのは、予備校の講師や大学の講師を務めたり、院生のバイトとして大学入試の試験監督補助をしてからである。

 ところで、D201はわたしとしては2年前に大病に倒れるまで、わたしの担当の日本国憲法を開講していた教室である。ここで思ったのは、学生の体温と教職員の体温の違いということである。すなわち、学生は若いから体温が高くて寒くは感じないが、教職員の年齢は平均すると高齢になるので体温が低い。これが分かるのは、教室の窓が講義をしていると曇ってくるのであるが、それが見られなかったからである。

 とりあえず、瀧澤氏のスムーズな司会により午後7時までかかるかもと思われた説明会も、6時過ぎに終了したが、今度は携帯でタクシーを呼んだのだが、なかなか配車が来ず、ふきっさらしの南第二通用門前でがたがたして、20分ぐらいに来たタクシーでやっと帰宅。完全に、風邪がぶり返して夕食も食べずに就寝した。

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