カール・シュミット

2013年01月12日 01:14

 1月10日の備忘録。

 午後12時半頃、タクシーにて本務大学に向かう。IT基盤センターで、冬期集中講義「日本国憲法」の日時が決まり、レジュメを印刷するのを省略し、スクリーンにレジュメを投射してすませるために作成した資料を基にこのHPに『国法学講義ノート』第3~5講までのニュースの記事をUPする。まだ、WEBNODEの本質的な作成・編集を充分に理解していないので、途中、ニュースの記事を消去してしまったと思いあたふたする。

 午後4時20分から1時間半、第5時限のゼミ形式の授業をおこなう。発表者は、小川くんで長谷部恭男『憲法とは何か』の最終章をきれいに纏めてくれた。とくに、カール・シュミットの説明の箇所は板書も含め、法学部の学生にも負けない立派なものであった。

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カール・シュミットの考えとは

 疑問:国家間の闘争は、世界国家を作ることで達成できるのではないだろうか。

 

カール・シュミットの立場:「世界国家は存在しえない。」

国家間の関係は「政治的なるもの」であり、国家の存亡を懸け、人民を巻き込む闘争となる。つまり、世界国家はできない。

 

人間は闘争する→国家を作り抑圧する→国家は互いに敵対するが極限闘争にはならない。カント、ホッブズの考えは中途半端な均衡点を目指す思考(立憲主義)である。

 

なぜシュミットはホッブズから派生したリベラリズムを否定するのか。

 人間は「なぜ~なのか」の答え・意味を決めるが、異なる意見を持つ人々が争えば、それは生と死を懸けた闘争になるのが自然である。正しさを求めた宗教戦争に終止符を打ったのが近代立憲主義である。

 近代ヨーロッパは正しい信仰に関わる闘いから逃れるために中立的基盤を求めたが、それが完全に達成されるには、人間が問いを放棄した時のみである。                                          

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 人間が生きる意味に執着する限り、闘争は続き常に「政治的なるもの」がついてまわる。

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 よって、シュミットの立場「政治的なるもの」とホッブズの近代立憲主義は両立できない。

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 以上が小川くんのレジュメの抜粋であるが、敵友関係の板書での説明は非常に分かりやすかった。

 問題となったのはシュミットとホッブズの両立不可能性であったが、それは両者の宗教観が異なることに基づくとコメントしておいた。まさか、小川くんがシュミットのカテコーン論を知っているわけでもないので、黙示録をどのように解釈するのか調べるように指示しておいた。ちなみに『政治神学』において、シュミットの説くカテコーン(『テサロニケ信徒への手紙二』)とは、終末が訪れる前の必然的な段階として想定されるアンチ・クリストの登場を阻むものである。しかし、これはキリスト教の正統な教義と矛盾してしまう。なぜならば、カテコーンはアンチ・クリストだけではなく、終末(ハルマゲドン)の到来をも阻止してしまうからである。

 懐古的ではあるがシュミットはまさにわたしが小川くんの学年の時には生きており、その翌年に死んだことから隔世の感がある(長尾龍一『カール・シュミットの死』(木鐸社、1987年))。

 この授業の参加者には、お疲れ会と兼ねたお食事会を予定しているのであるが、わたしが指定したフランス料理店が取れなかった場合、甲羅屋に蟹を食べに行こうと提案すると、永山さんが「わたし、蟹アレルギーなんです」とのたもうたので、「それでは、みんなは蟹料理であるが、永山さんだけ他のメニューを頼みなさい」と答えておいた。

 タクシーで帰宅するが、運転手が江戸川区出身であると言うので、東京の話をして帰る。

 帰宅後、年賀状の確認とこのHPの記事を書き込んでいたら翌午前6時過ぎとなり、朝食を食べて薬を飲んでから就寝した。

(追記)

 東京大学の石川健治氏は、ことしもカール・シュミットを大学院で読み続けているそうである。

カールシュミット『政治的なるものの概念』を読む(II)

担当教員

石川 健治

単位数 / 使用言語 / 配当学期

2単位 / 日本語 / 冬学期

授業の目標・概要

本演習は、ワイマール期ドイツの法学者カール・シュミットの古典的著作『政治的なるものの概念』を、ゆっくりと時間をかけて読むことを目標とするものである。憲法学を深く理解するためには、逸することの出来ない著書であり、講義ではなかなか味わえない、理論憲法学の深さ・面白さにふれる絶好の機会になろう。

授業のキーワード

法学,政治思想,20世紀ドイツ,カール・シュミット,憲法総論

授業計画

シュミット解読の見地からは、広く流布している1932年版のテクストを無批判に受容するのは適切ではない。また、戦後の(一面ではきわめて有益な)自己註釈に基づく、原典とは異なるオーケストレーションに拠って、遡及的に解釈するのは、一層危険である。
そこで、1927年の第1稿を底本としたうえで、これにその後いかなる改訂が加えられたかを、併せて研究してきた。漸くにして、最も流布している1932年版を読み直す作業を終え、前学期からは、1933年の「ナチス版」と呼ばれる悪名高いFassung に取り組んでいる。新規に参加を希望される方を、ゼミナリステン一同、心より歓迎したい。
内容的には、途中から入っても充分フォローできる箇所を、取り上げる予定である。また、本をとにかくゆっくりと読むのが目標であるので、ドイツ語にまだそれほど自信がない方でも、参加していただけるはずである。
もっとも、1933年版については、ナチス期の当初に流布した型の「ヒゲ文字」によって書かれている点が、初学者には難関になっている。しかし、初めての方にも充分に配慮して読み進めるので、おそれる必要は全くない。むしろ、ドイツ文化に親しむには必要不可欠な、「ヒゲ文字」入門の意味でも参加されることを期待したい。
なお、日時は月曜日隔週5・6限ということになっているが、参加してくださる方々との相談で変更する可能性もある。

授業の方法

演習形式による。

成績評価方法

平常点及びレポートによる。

教科書

Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen, Hamburg: Hanseatische Verlagsanstalt, 1933.

 

 少なくとも、こんな授業は本務大学の大学院演習であっても行ったら教務委員会からクレームがついてしまう。もっとも、今から10年前までは学部演習でも英語・独語・仏語の文献を学生と一緒に読んでいた時期があるが、いまは昔のこととなってしまった。