週末
2013年06月10日 10:586月9日の備忘録。
第9話「犬と雷」
19世紀から21世紀の大陸国法学の研究
6月9日の備忘録。
第9話「犬と雷」
6月8日の備忘録。
6月7日の備忘録。
第玖話「新たな剣姫」
6月6日の備忘録。
朝食から豪勢に、吉野家の鰻丼を食してから本務大学に向かう。わたしは関西で育ったから鰻は腹開きを好むが、大学以来、四半世紀関東で生活しているので鰻の背開きも慣れてきた。むしろ、関西に行った場合、わたし自身はウマキを食べることが多くなった。
午後4時20分から、「法と社会」の授業で学生たちと野村芳太郎監督の「砂の器」のDVDを鑑賞する。
昨日、購入したDVDはデジタルリマスター版であるためか上映時間が長く、途中で切って、この映画における法律問題について解説をおこなう。
しかし、この映画は本当に素晴らしい作品であり、このブログにアクセスしてくれた方でまだ未見の人がいるならば、近くのビデオレンタル店でいいから借りてきて観ることをお勧めします。平成の中居君版は駄作なので、この映画も駄作だと勘違いされている方も居られるかもしれないが、野村監督の「砂の器」は名作です。是非観てください。悪名高い母体保護法が改正される前にハンセン氏病をテーマに取り扱ったからこそ、この映画の主題が分かるのである。当然のことながら、併せて「ベン・ハー」も観てもらいたい。この両作品の根底のモティーフは、「ヨブ記」のテーマである。このような深遠なテーマを扱っているにも拘らず、上辺だけの悪平等によって、ハンセン氏病、らい病=業病に基づく差別は悪いから、それをテーマに取り扱ってはならないという広義の「言葉狩り」のために、その設定を変えてしまうことは百害あって一利なしと言っていいだろう。表現の自由は自己実現だけではなく、自己統治の役割を果たすからで重要なのであり、悪しき優勢保護法の流れを汲む母体保護法を批判して国政を問うことも後者の役割を果たす上で欠かすことができないはずである。その点で、脚本家の橋本忍氏が、この設定を変えたことは非常に残念なことである。
法律学的には、経済的自由の警察的目的による規制の問題を映像的に理解してもらえると思うし、また空襲による「本籍再生」をはじめとする各種登記制度の問題点を理解してもらえるかと考えている。いずれにせよ、来週はこのDVDの続きの部分の鑑賞とディスカッションということになる。
6月5日の備忘録。
午後2時40分より、法学演習の講義を行なう。今日は、欠席者が1名出た。相変わらず、仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』をゆっくりした速度で輪読する。p.60から読み始めて、やっと[講義]第1回 『政治的ロマン主義』1-秩序思考を読み終わる。全体的に、宗教論をメインに歴史、時間およびパラダイムについての説明をした。
第20話「Gタウン危機一髪」
第9話「左腕の行方」
第9話「リリカル・ナイト・フライト」
第8話「小さな恋のうた」
第9話「深海の秘密」
6月4日の備忘録。
午前8時半ぐらいに、みずほ銀行に行って生活費を下ろしてくる。
午前9時半から午後1時前まで、本務大学でこまごました雑務をこなす。
午後7時から、平行してニコニコ動画と、ワールドカップアジア予選を観賞する。
ネット選挙ガイド2013で人気者であったのは、みんなの党の三谷英弘であった。
そういや、選挙出馬に際してフィギュアを捨てた候補者がいると聴いていたが、こいつ↑がそうであるということが分かった。初音ミクやアスカのフィギュアを捨てたという話題になると、画面が「オレのよめをすてたwwwwwwwww」等の書き込みで一杯になっていた。反対に、人気がまったくなかったのが社民党であった。そもそも、福島党首が自分の政党名のアルファベットの略号を誤っているのだから、救いがないと言えばそれまでであるのであるが。
これでも、わたしは小学生および中学生時代はサッカー部員であった。その当時は、いわゆる日本サッカー界の低迷時期であり、中学時代はN君と一緒に廃部寸前のサッカー部を立て直した。やはり、サッカーは観るよりもプレイする方が楽しい。
本田のPKで対オーストラリア戦を引き分けて、日本のワールドカップ大会の出場が決まった。
しかし、どうでもいいことであるが本田圭祐のほっぺがおかしい。
ほっぺというか、口周りが少し変な感じがする。
どうやら、口周りの筋肉のことを医学用語では「口輪筋」と言うらしい。本田の場合には、これが非常に発達しているらしい。
6月3日の備忘録。
午後2時40分から、共通11号室にて現代人権論/日本国憲法の講義を行なう。その内容は、以下のレジュメの通り。
現代人権論/日本国憲法(担当 中野 雅紀) 2013.06.03
第4講 平和主義
はじめに
憲法9条で自衛隊を国防軍にするために、安倍政権は憲法96条の憲法改正手続の規定をはじめとする現行憲法条項を改正しようとしているが、これは法解釈上問題ないのか。しかし、現在の通説的見解によると日本国憲法の三大原則は改正権の限界に抵触し、これはできないとされている。そうであっても、個人が自らの生命・自由・プロパティーを守るために設立された国家が、他国から攻撃を受けても反撃もできないというのでは社会契約論上、国家そのものの存立の基盤が掘り崩されることになろう。とすれば、まずは戦争の定義を行い、どの程度、国家に防衛権(自衛権)の行使が許されるのかを検討する必要があろう。
言うまでもないが、憲法9条の規定は「戦争の放棄」ではなく、「平和主義」を規定したものである。往々にして、前者を説く論者は憲法解釈論というよりも理念論に終始し、教条主義的なイデオロギー論を振りかざすだけであった。そこには、わたしの見るところ法解釈論の展開する余地はない。したがって、ここではそれを避けるために、まず憲法9条は「平和主義」の理念を実現するため、どのような範囲で「戦争を行えるのか」を考えてみる。
次に、「平和主義」を実現するためには、ネガティブで受動的に他国に攻められてもガンジーのように無抵抗主義に徹して、侵略軍のなすがままにされるという選択肢と、ポジティブで能動的に、アメリカのように世界の警察官として「無法者国家」を攻撃するという選択肢が想起されるが、このうち、どちらを選択するのかが問題となる。考えるに、そのどちらも極論であり、国家は、その設立目的から国民の生命・自由・プロパティーを保全するために、最低限度の防衛権の行使は前提として認められているとすべきである。であれば、戦争には①侵略戦争と②防衛戦争の2種類があり、前者は否定されるが、後者は承認(受容)されるということになる。しかも、憲法を体系的に解釈するならば、たとえば刑法において正当防衛や緊急避難が認められているように、他者の急迫不正の侵害に対しては自己防衛が認められていると解釈でき、当然のことながら、国民のために創設された国家は海外からの急迫不正の侵略行為に対しては反撃できるということになる。これを否認することは、国民が生命体として有する「自己保存本能」を承認せず、あるいは聖人君主のような高いモラルを国民に課すことになり、法律の実効性の観点から疑問と言うしかない。もちろん、自衛隊の力を借りず個人で侵略軍に竹槍で抵抗するという論者の心意気は買うが、少なくともわたしは高い税金を支払っているのだから自衛隊に外敵を追い払ってもらいたい。
わたしは自衛隊が憲法9条に違反しないと考えているし、またそれを公言するから右翼と考える人がいるが、それは勘違いであり、侵略戦争の遂行可能な軍隊に自衛隊を再組織化することに賛成しているわけではない。また、国際貢献のためのPKOやPKFなども日本国民の生命・自由・プロパティーの保障とどこまで関係するのか分からないから、なにもアメリカの言うなりになる必要性はないと考えている。ましてや、国連などまったく信用していない。アメリカや国連の言うことを聞いていれば、それは当然のことながら現在の軍事予算からすれば日本のポジティブで能動的な平和実現ということが求められ、かえって、それは「大東亜共栄圏」の悪夢の再現となろう。
ところで、侵略戦争によって領土を得た場合、その領土は植民地ということになるが、果たして植民地経営は侵略戦争としての対価として割に合うのか。しかし、ウォーラスティンなどが指摘するように、19世紀の後半において植民地経営はもはや採算の合わないものになっていたとされる。そもそも、スペイン・ポルトガル型の収奪式植民地経営ですら、諸刃の剣で、この両国の没落を招いたといわれている。ましてや、前世紀の移り目においては植民地経営のためには、植民地のインフラを調えなくてはならず、収支のバランスを得るためには100年以上の長期的な支配が必要であった。
Ex.ボーア戦争(1899-1902年)、石橋湛山の植民地不要論
まず、生物には「自己保存本能」があることを確認しなくてはならない。したがって、聖人君主ではない限り、国民に自国に攻め込んできた外敵に対してレジストすることを禁止することは、不可能を強いることであり妥当ではない。
次に、近代戦時国際法においては軍隊ではなく、パルチザンやゲリラの抵抗活動は、軍事法規の適用から除外されるので、自衛隊に頼らずに抵抗活動をおこなわなかった場合、捕虜になれば即刻死刑にされても文句は言えない。また、ホッブズをメインに社会契約論のところで説明したが、国家が国民の暴力を独占することで、自らが「暴力装置」となっていることも重要である←戦争における個人責任ではなく、国家責任。
意外と、軍隊という組織は規範意識が高いので、個々人のレジスタンスのような無法状態を回避することができる。
ここで重視したいのは、往々に左翼・タカ派の解く自衛隊違憲論が人間も動物であり、動物である限り、「自己保存本能」を有していることを度外視している点である。
(続く)
午後8時過ぎに、自宅マンションに帰宅。
一応、先週に続き、渡鬼2時間SP後編を観賞する。
そのあと、逆転裁判5の体験版を少しやってみる。
御剣は少し顔を出すようだが、糸鋸刑事と狩魔冥は出ていなさそう。当然のことながら、綾里真宵も出ていないみたいだ。
6月2日の備忘録。
今日は、わたしの記憶が確かならば本能寺の変が起こった日である(確認、天正10年6月2日)。ついでながら、わたしの祖父は1979年6月2日に亡くなった。
久しぶりに、携帯ゲームの「逆転検事」の「逆転エアーライン」をプレイしてみた。
下の画像は、犯人の白音若菜。えらくセクシーなCAである。
6月1日の備忘録。
お昼から、NHK-BSで再放送していた「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」の再放送を観る。
この映画の解説には、東大の藤原先生がゲストで出ていた。
オリバー・ストーン流の歴史認識によれば、ルーズベルトがヘンリー・ウォレスではなくトルーマンを副大統領に指名したことから、戦後のアメリカ外交に歪が生じたとされる。彼のこれまでの映画作品で表されてきた偏向的な政治色から、この歴史認識をにわかに信用することはできないが、ひとつの政治的仮説としては面白さを感じた。
5月31日の備忘録。
本日は、本務大学の創立記念日であった。わたしが本務大学に赴任した翌年の5月が創立50周年であったから、この大学にもずいぶん長い間お世話になったことになる。
帰宅後、NHK-BSで市川昆監督の「四十七人の刺客」を観る。原作小説をはじめとして、この作品の味噌は殿中松の廊下の刃傷事件の原因を大石が確かめることなく(また確かめる必要性をそもそも感じていない)、ただ吉良の命を奪うためだけに討ち入りを行ったという設定にあろう。上野介も、このような狂犬にターゲットにされたのではたまったものではない。ちなみに、この作品では上野介を二代目黄門様の西村晃が演じていた。当然のことながら、今回がこの映画の初見ではない。パロディーとしては、京極夏彦『どすこい。』所収の「四十七人の力士」が挙げられよう。
ちなみに、昔から思っていたのであるが吉良上野介は最近のビートたけし(あるいは北野大氏)に似ていると思うのはわたしだけであろうか。
日本テレビ金曜ロードSHOW
北川景子は美人だけれど、唇が分厚すぎ。←わたしの好みではない。